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  作者: 森村征爾
19/19

最終話 掟

夜明け前だった。

空はまだ薄暗く、海も空も同じ色に溶けていた。

私と女性は、港裏の旧道を急いでいた。

背後を何度も振り返りながら、言葉はひとつもなかった。

約束の場所には、女が軽ワゴンで待っていた。


「早く乗って」

私たちは後部座席へ滑り込んだ。

車は灯りもつけず、港の外れへ走る。

正面の待合所には、すでに人影が集まっていた。

朝の便には早すぎる時間だ。

だが、この島では珍しくない。

誰が出るのか。

誰が戻るのか。

それを見るために集まる人間たちだった。

車は港脇の古い倉庫の前で止まった。

トタン壁は錆び、窓は割れ、半分崩れかけている。

昔、漁具置き場として使われていた建物だと聞いたことがあった。

女は鍵を開け、私たちを中へ招き入れた。


「奥へ」

倉庫の中は暗く、潮と埃の臭いがこもっていた。

積まれた木箱の陰を抜けると、床板の一部が外されていた。

その下に、人ひとり通れる細い通路があった。


「昔の荷揚げ道。船の真下まで続いてる」

女性が息をのむ。


「こんなの……」

女は振り向かずに言った。


「この島はね、隠す道だけは昔から多いの」

私たちは身をかがめ、通路へ入った。

暗く湿った土の匂い。

頭上から、かすかに足音が響く。

誰かが岸壁を歩いている。

通路の先に鉄の扉があった。

女が押し開けると、そこは定期船の搬入口の脇だった。


「今よ」

私たちは船内へ駆け込んだ。

ほどなくしてエンジンが唸り、船体が震える。

ロープが外され、岸壁がゆっくり離れていった。

逃げ切れた。

女性がその場に崩れ落ち、泣き始めた。

私は手すりに掴まり、何度も深呼吸した。

港が少しずつ遠ざかっていく。

朝靄の中に岸壁に、人影が並んでいた。


長谷川。

ガソリンスタンドの男。

見覚えのある老婆たち。

島の男たち。女たち。

そして古老たち…。

いつの間に集まったのか、何十人もの島民が一直線に並び、こちらを見ていた。

誰も手を振らない。

誰も怒鳴らない。

誰も追ってこない。

ただ、黙って立っていた。

女性も気づき、泣き止んだ。


「……なんで……」

私も答えられなかった。

逃げる私たちを止めることはできたはずだ。

港を塞ぐことも、船を止めることも。

それなのに誰もしなかった。

ただ、見送っている。

いや



――違う。



見届けているのだ。

この島から出ていく瞬間を。

その列の端に、逃がしてくれた女も立っていた。

さっきまで船にいたはずなのに。

いつ戻ったのか。

女は無表情のまま、こちらを見ていた。

私は全身が冷たくなるのを感じた。

助けてくれたのではない。


壊れたものは追わない。

ただ全員で見届けている。

島の中から消え去るものは記憶の外へ追いやる。

それもこの島の掟なのだろう。


船は進む。

岸壁の人影は小さくなっていく。

それでも、誰一人動かなかった。

朝もやの中へ溶ける直前まで、全員がこちらを見ていた。


私はようやく理解した。

この島で本当に恐ろしいのは、誰か一人の悪意ではない。

共同体の中に根付いた禍々しい合意制度。

利権、権力誇示、序列、理由はいつもあっただろう。

そこでは「それが正しい」としか言わせない空気が受け継がれ、名ばかりの合意だけが支配する社会。


なお、この島は実在する。

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