第223章
久しぶりの日本領事館のロビーは、前と同じく閑散としていた。まだ領事一行はどこかの島巡りから戻ってないようだし、祭りのせいで現地採用のスタッフの大半が休暇をとっているからだろう。
洋一はナップザックを背負って猪野を待っていた。もう遙かな昔に思われるが、そういえば俺は日本に帰してやるという口約束に騙されてあの大騒動に放り込まれたんだったっけ。なんか前世の出来事のような気がする。
なんかもう、精神的にも肉体的にも疲れすぎていて、怒りとか憤激なんかどっかいってしまっている。もっとも、おそらく普通の日本人がどんなに望んでも出来ないことをやらせてもらったわけで、感謝するはずもないけど、まあまあ良かったのかも、と思ったとき、猪野がやってくるのが見えた。後ろにはあの偉そうな蓮田が従っている。
「や、諏訪くん大役ご苦労様でした。先方からは大満足だったという回答を頂いてます。よくやってくれました」
猪野は如才なく丁寧ながら早口で述べ立てた。それで押し切るつもりらしい。
「疲れました」
「いやいや。お約束通り、日本へのチケットが取れましたのでお納めください。あ、それからこれはアルバイト料です。ドルで揃えておきました。ご協力に感謝して、多少色をつけておきましたから」
洋一は黙って封筒を開けた。確かに約束よりは多かった。100ドル程度だが。
「それだけあれば、日本まで十分もつはずです。チケットはフリーなので換金は可能ですが、日本領事館としましては出来ればまっすぐに帰国していただきたいと」
「……ありがとうございます。助かりました」
洋一にだって言いたいことはたくさんあるが、こんな海千山千の外交官相手に何か言ったって無駄なことは判りきっている。
「それからパスポートですが、出国手続きはしておきました。本日付になっています」
パスポートが手渡される。そういえば、パスポートも取り上げられていたんだった。しかも今日付で出国かよ。めんどくさいことが起こらないうちに出来るだけ早く追い出したいのが見え見えで、もう何も言えない。
「それではご無事で」
猪野は一方的に話して去った。蓮田はそれを見送ってから、洋一を見て苦笑した。
「まあ、言いたいことは判るが、ここは引いておくんだな。君では猪野さんに逆らうのは無理だ」
「わかってますよ」
洋一は言った。どうしても言葉がとげとげしくなる。
「空港まで送ろう。飛行機の出発まであまり余裕がない」
パスポートの出国手続きまでしてしまっているのだ。日本領事館としては、洋一がここで逃げたりしたら責任問題である。俺って信用ないなあとか思いながら、洋一は蓮田に従ってパジェロに乗り込んだ。さすがに空港までの道は車で行けるらしい。パジェロなのがちょっと気にかかるが。
パジェロには、日本領事館に残していた洋一の私物も積まれていた。手際が良すぎる。
車が発進すると、蓮田が何気なく言った。
「活躍は聞いている。しかし、少なくとも十年くらいはココ島に戻ってこない方がいいな」
「なんでですか」
「活躍が派手すぎて、ココ島中に君の顔が知れ渡ってしまったんだよ。新聞を見てみろ」
ダッシュボードの上にあった新聞を示す。手に取ってみると、一面に大きく洋一の写真が出ていた。ど派手なタカルルの衣装を纏って高速艇『イリリシア』の玉座にふんぞり返っている姿で、洋一の不機嫌な顔がはっきり写っている。周りにはウェディングドレスさながらの華麗な衣装のラライスリたち。全員、はちきれんばかりの笑顔だ。役者が違う。
記事の表題は読めないが、何となく扇情的な煽り文句であることは判った。
「なんだよこれ!」
「君はココ島始まって以来のスケコマシとして認知された。しかも上玉ばかり、フライマン共和国の美人資源を根こそぎだ。はっきり言って男の敵だ。ココ島中の若者が隙あらば君を抹殺しようと狙っている」
腹立ち紛れに新聞を丸めて後ろに放り投げる。蓮田はおかしそうに黙ってそんな洋一を見ていた。いいかげんに怒鳴りつけそうになった時、蓮田がぽつりと言った。
「うらやましいよ。いや、ハーレムの話じゃなくて、君は紛れもなくココ島のために大きなことを成し遂げたんだから。俺の大叔父みたいにね」
「……蓮田さんの大叔父さんが?」
「ああ。太平洋戦争の最中だったそうだ。アメリカは攻めてこなかったが、ココ島は島から引き上げた列強の利権の取り合いとか日本軍への協力や反感とかで、真っ二つになっていた。このままでは内乱か、という時に、大きな祭りでラライスリとタカルルが争いを収めた。はっきりとは聞いていないけれど、その動きに日本軍の軍属だった大叔父も加わっていたらしい。大叔父さんは、死ぬまでそれを自慢にしていたよ」
「そうなんですか」
「日本人でもココ島人でもない、人間としてココ島の人たちの役に立てた、というのが嬉しかったんだろうな」
「それで蓮田さんはここに赴任を?」
蓮田は首を振った。
「まったくの偶然だ。外務省の人事はそんなに都合良くない。しかし、本当に偶然なのかどうか、俺は怪しいと思っている。実際、こんな情勢で俺と猪野さんだけを残して領事以下スタッフ全員がいなくなるというのはあり得ないだろ」
「すると」
蓮田は洋一を見て、恥ずかしそうに言った。
「ココ島の神様が、やったんじゃないかなと」
「ああ」
そうですね、と洋一は口の中だけで言った。そういうこともあるのかもしれない。
「だから君がここに来たのも、英雄になったのも」
「それはやめてください!」
洋一は噛みついた。
「英雄なんてもんじゃないんですから」
それから空港に着くまで、二人とも無言だった。
空港は、地方によくあるただ簡易アスファルトが敷いてあるだけの、両側に山が張り出した細長い場所だった。島の飛行場なんかそんなものだろう。小型の飛行機しか発着できないというのは本当らしい。
蓮田は洋一を降ろすと、それじゃまた、と言って立ち去った。次に会う機会があるとも思えない。ココ島でたまたま接触しただけの、まったく別世界の存在である。いや、そういう言い方をしたら、そもそもココ島自体が本来は洋一に無縁の場所だ。
空港といっても、小さな建物がひとつしかない。その近くに小型で双発のプロペラ機が駐機してあるので、間違いようがない。洋一はため息をついて歩き出した。これでお別れか。何ともショボい結末である。
しかし、天は洋一を見捨てていなかった。小さな影がまっしぐらに突進してくると、洋一に体当たりしてきたのである。
「ヨーイチ!」
弾けるように笑う小さな美少女は、いつも通りのショートパンツにTシャツ姿だった。妖精や女神より、パットにはこの格好が似合う。
「パット」
パットは洋一の身体に頬を押しつけて、深く息を吸い込んだ。洋一の臭いを覚えておこうというつもりらしい。ますます犬に似てきている。
「ヨーイチさん」
続いて数人が駆け寄ってくる。周りが一瞬にして花畑に変わる。美少女だらけだった。視界がすべて美少女に占有されてしまうと、一種恐怖を感じる。洋一は思わず後ずさった。
メリッサを筆頭にして、サラとシャナ、ミナとアン、ラライスリの全員が揃っている。祭りはまだ続いているのに、みんな抜け出してきて大丈夫なのだろうか。




