第221章
夜半を過ぎて、延々と続いた大騒ぎからやっとのことで逃れて屋敷に逃げ込むと、洋一は精根尽き果ててソファーに倒れ込んだ。手探りでタカルルの衣装を脱ぎ捨てる。ここに来るまでの間に、押し寄せてきた人々から色々むしり取られてもうボロボロだった。神様も記念品扱いである。洋一の本体が何とか無事なのは僥倖だった。
しばらく横になっていると、やっと息が治まってきた。同時にひどく喉が渇いていることに気がつく。考えてみれば、あれからずっと飲まず食わずで引きずり回されていたのだ。疲れすぎていてまだ空腹は感じないが、しばらくしたら猛烈に腹が減るのも目に見えている。お祭りなんだからいくらでも飲み食いできるはずなのに、洋一はもみくちゃにされ通しで何も口に出来なかったのだ。
何とかして飲み物を、と考えたとたんに、これ以上はないくらいのタイミングで、目の前に瓶が突き出された。思わず受け取って洋一は驚喜した。冷たいコーク、まさに今一番洋一が必要とするものだ。
一気に飲み干そうとして咳き込む洋一を、アマンダは何もしないで見守っていた。メリッサとかパットなら慌てて背中でもさすってくれるところだが、この美人姉妹の長女はそれほど甘くはない。
「大丈夫?」
ようやく咳き込みが治まった洋一に、アマンダが感情を込めない声で尋ねる。
「治まるまで返事はいいから」
お言葉に甘えて、洋一は咳が完全に消えるまで待ち、それからコークを全部飲んで、ようやく言った。
「大丈夫です。ありがとうございました」
アマンダは瓶を受け取って答えた。
「それは良かった。何か食べる? それとももう休みたい?」
「食べたいです」
「じゃあ食堂に行ってて。何か持ってきてあげるわ」
ここはフライマンタウンの誰かの屋敷らしかったが、こういう屋敷の構造は大体似たようなものである。アグアココのソクハキリ邸には立派な食堂があった。あの屋敷のことはもう忘れかけていたが、何となく感覚的に食堂がある場所が判る気がする。洋一は起き上がってよろよろと食堂に向かった。あの屋敷の食堂ではメリッサに給仕して貰ったっけ。もう何年も前のようだ。
やっと見つけた食堂は閑散としていた。というよりは無人で暗かった。手探りで明かりをつけて、入り口から一番近い椅子に倒れ込む。そのまま待っていると、ほどなくしてアマンダがワゴンを押して現れた。上に色々載っているのを見て、洋一の腹が鳴る。
「これしかなくてごめんなさい。残り物というか、残っていたものだけど」
「十分です。ありがとうございます」
返事もそこそこに、洋一はサラダやベーコン、ピザ、チキンといった料理に取り付いた。何でも美味い。身体がエネルギーを求めて叫んでいる。ミネラルウォーターがぬるいのも気にならない。
アマンダは、洋一の向かいの椅子に座ると飯を貪る洋一を眺めていた。
「アマンダさん、いいんですか。忙しいんじゃ」
「大事な所はもう終わったもの。あとは事務仕事みたいなものよ。そういうのは私はノータッチ」
そんなもんかもしれない。
「メルや他のラライスリたちは、まだ役目があるの。何といっても今回の目玉はあの娘たちだからね。女が本気になった時の恐ろしさを、この際ココ島の男連中に叩き込んでおく必要があるし。だからタカルルはこれ以上必要なし」
「助かりました。本気で死ぬかと思いました」
人気スターやグループサウンズのコンサート並だった、と洋一は身震いした。男たちは洋一に近寄ってこなかったが、ココ島の女性の群が辺り中から洋一めがけて押し寄せてきたのだ。あんなに怖かったのは生まれて初めてだった。
「もう二度と、あんなのやりません」
「それでも、あれはあなたが先導したのよ」
アマンダが諭すように言った。
「タカルルがいなければ、ラライスリたちが集まることもなかったし、カハ族もカハノク族も関係なくラライスリたちが協力していることを示さなければ、ココ島の人たちがまとまることはなかった。そして、ココ島がひとつにならなければ、大祭は開催されないのよ。あなたはそれをやり遂げた。あなたは立派なタカルルだった」
「違いますよ。俺は、ただ流されていただけで」
「でも、大事なところでは踏みとどまった。それが英雄の資質よ。あなたは期待通り、いえ期待以上のことをしてくれた。ありがとう、英雄さん」
洋一は言葉に詰まった。
「俺は」
英雄なんてもんじゃないですよ、と言おうとして、そのままピザを口に突っ込む。
そんな洋一に、アマンダは優しく言った。
「食べ終わったら寝室に案内するから、今日はもう眠りなさい。ゆっくり休んでから日本領事館に行けばいいわ。ご苦労様でした」
翌朝目覚めると、もう日が高く昇っていた。身体から疲れが抜けなくてまだ眠いが、これ以上寝ているのはまずいだろう。顔を洗って食堂に行き、用意されていた朝食を食べる。いやランチだったのかもしれない。まだ祭りは続いているようで、屋敷の中にまで外の喧噪が伝わってくる。
食べ終わった頃、知らない男がやってきて身振り手振りで誰かが呼んでいると告げられた。案内されたのは、ソクハキリのところだった。
「ココ島の神話ってのは、妙にリアルでな」
ソクハキリが熱い緑茶をなみなみと注いだ巨大な湯飲みを啜りながら言った。洋一の前にもやや小型の湯飲みが置かれている。こうやってソクハキリにじかにココ島では珍しい緑茶を勧められるのは、カハ族の間では大した名誉らしいが、洋一にとっては暑苦しいだけだった。
ああ、アイスコーヒーが飲みたい。
「ラライスリやタカルルといった神様たちの動きが、露骨に人間的なんだよ。ちょっとした感情で突っ走ったり、誤解して戦ったり、何だかよく判らないうちに和解したり、およそ論理的とは言えん行動をとる」
「はあ」
「神話を研究した奴がいたが、論文の結論はこうだった。ラライスリをはじめとするココ島の神々は、かつてココ島で暮らした人々の集大成である、と。つまり神話と言いつつ、歴史だったということだな」
ソクハキリが何を言いたいのか、洋一にはよく判らなかった。あれだけ寝たのに全然足りていない。今はとにかく疲れて眠いのだ。あれだけ大騒ぎをした上に、ずっと緊張の連続だったのである。今すぐぶっ倒れて寝てしまいたいくらいだった。
「眠そうだが、まあ聞け。そいつの説によれば、ラライスリは女の象徴、タカルルは男の象徴らしい。シンボルというよりは、むしろそのものだと。つまり、実際に起きた出来事がそのまま神話になっているというんだ。もちろん脚色されているが」
「はあ」
「よって、ココ島の神話はエピソードからなり、そのエピソードは付け加えられていく。実際、百年前の神話と今とでは内容が変化しているそうだぞ。いや、エピソードが増えているとそいつは言っていた。で、増えているエピソードは妙に実際に起きた出来事に似ているんだと」
ソクハキリはニヤニヤしていた。洋一はぼんやりした頭に少しひっかかりを感じて言った。
「つまり?」
「つまり、今回の騒ぎもいずれ神話になるってことだ。タカルルが色々なタイプに化身したラライスリたちを従えて、人間どもの争いを収めたとかいう内容になるんじゃないか」
「やめてください」
「なんでだよ? 実際に起きた出来事だろうが。今回のカハ祭りのラライスリは……あ、いや、ココ島のラライスリというべきかもしれんが、全員とびきりだったしな。タカルルはまあ、別にどうでもいいが」




