第200章
洋一は考えるのをやめた。
今はそんな不愉快なことより、この思いがけなく与えられた温泉を楽しんだ方がいい。少なくとも浸かっている間くらいは面倒な事を忘れることができるだろう。
だがやはり日本の本物よりは温度が低く、温泉としての成分もなかったようだ。だんだん身体が冷えてくる。海に浸かっているよりはマシだが、よくてぬるま湯なのだ。あまり長湯していい風呂ではない。
タオルを腰にまいて更衣室に戻ると、風呂に入っている間に誰かが用意したらしいバスタオルが置いてあった。脱いだ服がなくなっていて、代わりに浴衣がある。行き届いたサービスというべきか、おせっかいにもほどがあると思うべきか、洋一にも決められない。
現実問題として浴衣しか着るものがないわけで、洋一は仕方なくそれを着込んだ。驚いたことに、というよりは当然と思うべきか、それはまったく日本の浴衣そのものだった。考えてみれば当然のことで、こんな温泉を作って喜ぶような連中が浴衣に手を抜くはずがない。
本当に客を接待する場合は、この後座敷でスシやサシミなどの料理が出るのだろう。建物の規模に比べて不自然に立派なあの厨房の謎がこれで解ける。商売のためならそこまでやるのか。さすがというべきだ。
ただし、致命的な間違いもあった。用意されていたのは、浴衣だけだったのだ。シャツもパンツも持ち去られてしまっていて、下着抜きでじかに着るしかない。
単に少女たちがうっかりしているのか、あるいはキモノは下着をつけずに着るべきだというような中途半端な日本の知識のせいでこうなってしまっているのかは判らない。しかしどうしようもなかった。
幸い、浴衣は大型のものだった。日本人としては中肉中背の洋一が着込むと前あわせがたっぷり余っていて、すそから中身が見えたりする心配はなさそうである。洋一は度胸を決めて階段を昇った。
ホールには、宴会の用意が出来ていた。
さすがに和室の食膳までは手が回らなかったらしい。材料も設備も無かったのだろう。だがメリッサは一流の料理人らしく、最善の努力をしたようだ。
シャナの話ではバイキングということだったが、正確に言えば大皿料理だった。テーブルがすべてくっつけられ、テーブルクロスが掛けられて様式の宴会テーブルとなっている。そして、その上には色々な料理をよそった大皿が溢れかえっていた。
すごい量である。数十人の宴会でも余りそうな料理が並んでいる。洋一が風呂に入っていた間にこれだけの料理を作って盛りつけたというのだろうか。メリッサもその美貌などとは全然別の所で恐ろしい才能を発揮するものだ。
カハ族のラライスリとして絶大な人気を誇っているのは、美貌やカリスマのせいだけではないのかもしれない。
洋一が姿を表すと、いつものようにパットが飛びついてきた。もはや体当たりに近い。
洋一にしがみついて見上げてくるパットは何と和装だった。洋一のと似たような浴衣なのだ。
ただし子供用のものはなかったらしく、女性用ではあったがあちこちをかなり無理してとめてある。それでもパットの浴衣姿の魅力を少しでも損ねるものではなく、洋一はあわてて目をそらさなければならなかった。
小さくて軟らかくて熱い体を受け止めると、今の状態では洋一の素肌に直接響いてくるようだ。洋一はさりげなくパットの肩を抱いて、少しでも接触面を減少させた。
「ヨーイチさん、浴衣お似合いです」
シャナが皿を運びながら言った。この少女も浴衣に着替えている。幼さと落ち着きが混然となって、一種倒錯的な魅力がある。ものすごく可愛い。
洋一の席は上座に用意されていた。席の配置にはかなり気を使ったらしい様子が伺われる。なぜなら、洋一の両側には誰も座っていないのだ。長方形の短い1辺を洋一ひとりで占領していて、あとの3辺に6人の少女たちが配置されている。
それが判ったのは、少女たちが次々に着席し始めたからだった。メリッサが最後まで残って飲み物をついで回っていたが、サラに一言言われて大人しく席に着く。
全員が席についたのを確認して、アンが立ち上がった。
「それでは、これから慰労会を始めます」
シャナが隣の席のパットに小声で囁いている。通訳だろう。
「まずは、ココ島のために今までがんばってきてくださったヨーイチさんに感謝の乾杯を捧げたいと思います。全員、起立してください」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
洋一の抗議は無視され、少女たちはいっせいにグラスを手に立ち上がった。
洋一の前にあるのは特大のビアグラスだった。すでになみなみと泡立つビールが注がれている。
少女たちのグラスは、それぞれ好みがあるのかジュースらしきもの、ビール、ミネラルウォーターかチューハイらしい無色透明な液体、水割らしいうす茶色のものまでさまざまだ。
ちなみに、ここでは未成年者はアルコール禁止などという規則はないらしい。
「ヨーイチも、ほら」
サラがせかす。仕方なくのろのろと立ち上がると、すかさずアンが高らかに宣言した。
「乾杯!」
少女たちはうれしそうに唱和した。続いてグラスが打ち合わせられる。洋一のグラスにもいっせいに殺到してきて、洋一は必死で支えた。
乾杯が終わると、そのまま宴会が始まった。どうやら洋一の健闘を讃えてなどというのは前フリにすぎなかったらしい。それでも洋一は人気の的で、ビール瓶を持った少女たちが列をつくって待っていた。パットやシャナまでが見よう見まねで注いでくる。
立て続けに6回注がれると、さすがの洋一も陽気になってきた。このところ禁酒状態だったから、例の発作や急性アルコール中毒が心配だったが、もうそんな心配はふっとんでしまった。
大学のコンパでもこんなにモテたことはない。自分以外の全員が美少女という宴会など、普通の人がいくら望んでも無理だ。洋一にしたところで、こんな機会は生涯ただ一度だろう。
だったら楽しまなければ損だ。
改めて座り直し、目の前に並んでいる料理に手をつける。ビールで舌が半ば麻痺しているが、それでも料理はうまい。
あいかわらず、メリッサの作る料理は外見と味に違和感があった。味はとびきりなのだが、肉ダンゴにしか見えないのにさわやか風味だったり無色透明なスープが強烈に辛かったりする。わざとやっているのかもしれない。カハ祭りの食事船で出た料理はまともだったから、メリッサとて普通の料理を作れないわけではないだろう。ただ、こういう席だと趣味が出るのではないだろうか。
ふと気づくと、メリッサは厨房とテーブルを往復している。もちろんメリッサも浴衣姿だ。仲居のつもりなのかもしれないが、女神ばりの美貌が強調されて違和感などというものではない。
はっきり言えば場違いである。メリッサに和装は似合わない。
「そうよね。あれは、少し酷だと私も思う」
いきなり耳元で囁かれて、洋一は飛び上がった。サラがいつの間にかにじり寄ってきていた。
「あれって?」
「もちろんメリッサよ。あそこまで外見と中身の方向性が違うのも珍しいと思わない? 黙って座っていればそれだけでパーティの主役になれるのに」
「……」
洋一が何も言えないでいると、サラはため息をついた。目のふちが赤い。もう酔っぱらっているのだろうか。