今日の退職届もゴミ箱行き
「今日こそは絶対に定時で帰る……」
ここはチュートリアルダンジョン管理課。主任オペレーターである私――アタミ・スズネは、胸ポケットの退職届を指先で確かめ、乾いたため息をついた。
定時まで、あと30分。
今日の魔力モニターは安定しており、新米パーティは無事に一階層をクリアしたところ。完璧な調整。今日は、奇跡的に定時で帰れる。
そのはずだった。
「…………」
背筋が凍るような気配とともに、管理課のフロアの空気が一瞬で張り詰めた。
同僚たちが音を立てないように息を潜め、一斉にパソコンの画面へ視線を向ける。誰一人として、振り返らない。――いや、振り返れない。
ドスッ、ドスッ、と重い足音が近づいてくる。
重厚な鉄の扉が乱暴に押し開けられ、そこにそびえ立ったのは、息を呑むほどの巨躯を包む漆黒のフルプレートアーマー。
首から上は、なにもない。
代わりに、その腕には――眼窩が怪しく赤く光る、自身の兜を抱えている。
ダンジョン統括局総本部・戦闘管理取締役。
ガルヴァイン・アーシュレイン。通称、アーシュレイン幹部。
デュラハンである彼は無言のまま私のデスクの前に歩み寄ると、有無を言わさぬ怪力で抱えていた兜を、業務書類の山の上にドカンッ!!! と置きやがった。
「っひ……!」
あまりの重みにデスクが悲鳴を上げ、マグカップが跳ねる。
声帯のない彼は一言も発しない。だが、兜の目元がギラァッと血のように赤く輝き、巨大な鉄のグローブをはめた指で、今日の最下層マップを激しく叩いた。
さらに、自分の腹を殴るようなジェスチャー……つまり、「ボスをもっと凶悪にしろ。新人どもを地獄に叩き落とせ」という、無言のプレッシャーである。
(う、嘘でしょ……っ!? あとちょっとで定時なんですよ! 今からこの作業に取り掛かれば残業は免れないし、これ以上ボスの難易度を上げたら、監査部から飛んでくる始末書で私のHPがゼロになります!!)
喉まで出かかった絶叫を、私は引き出しから掴み出した胃薬と一緒に無理やり飲み込んだ。
上司は一言も喋らない。背後では五百キロを超える巨体が真っ赤な目でこちらを睨んでいる。
「あ、あの……アーシュレイン幹部……?」
引きつる笑顔のまま、私は胸ポケットに忍ばせた退職届をそっと握りしめた。
今日も今日とて、私の「定時退社」への願いは、ダンジョンの最下層よりも深く闇に葬られる。
「あのですね、幹部……。本日の新規パーティは全員が装備も整っていない新米なんです。これ以上のパラメータ上方修正は、生存率の規定ラインを割り込む可能性が……っ」
すがるような想いで絞り出した私の言葉に、アーシュレイン幹部は一切の微動だにしない。
ただ、デスクの上に無造作に転がされた兜の眼窩が、さらにギラァッと輝きを増した。
ガシャンッ!
重厚な鋼鉄の手袋が私のデスクを激しく叩く。
そして兜の正面を私に向けたまま、右手の親指をゆっくりと下へと向けた。――『問答無用で叩き潰せ』。不吉すぎるデスサインである。
(ダメだ、この人、全然話を聞く気がない……!!)
私はこめかみを突き刺すような頭痛に耐えかね、胃薬を流し込み、口の中に広がる苦みをごくりと飲み込んだ。
チラリと横目にフロアを伺う。
同僚のオペレーターたちは一見すると猛烈な勢いでキーボードを叩いているように見えるが、その目は明らかに死んでいる。(スズネ主任、すまない……)(俺たちには何も見えない……)という悲痛な心の声が伝わってくるようだ。
だが、このまま幹部の言われるがまま数値を倍にすれば、明日には冒険者ギルドから爆破予告レベルのクレーム電話が鳴り響き、来週には監査部から真っ赤な始末書が何枚も届く。
犠牲になるのは、他でもない私の胃袋と残業時間だ。
「……分かりました。では、ボスの『演出』だけを強化します!」
私は腹を括り、カタカタと爆速で端末にコマンドを打ち込み始めた。
「ボスの巨大スライムの体躯サイズを1.5倍に拡大! 登場時の咆哮を重低音補正! 体表の粘液から噴き出す毒霧のグラフィックを極悪な紫黒色に変更します! ただし、実際の攻撃力と酸の溶解度は現行数値を維持! 判定面積もそのままにします!」
要するに、見た目の恐ろしさは倍増。しかし、攻撃力も判定面積も据え置き。安全基準を守りながら、冒険者に最高の達成感を味わわせる、完璧なハリボテ調整だ。
画面上のプレビュー映像で、紫黒い毒気を撒き散らしながら恐ろしい咆哮を上げる巨大スライムが映し出される。
「どうでしょうか……アーシュレイン幹部……?」
恐る恐る尋ねると、幹部はじっとモニターを見つめた。
数秒の沈黙。
フロア中の誰もが息を止めて見守る中――
……ガシャン。
幹部は満足そうに一回だけ胸の甲冑を鳴らすと、兜の眼窩の赤光がパッと黄色に切り替わった。納得のサインだ。
(よし……通った……!!)
安堵で膝が抜けそうになったその時、幹部はデスクの上の兜を片手でひょいと抱え直すと、もう片方の手で私のデスクの端に置かれた『未処理書類の山』をトントンと指さした。
「……え?」
指さされたのは、幹部が持ち込んできたと思われる、手書きの「モンスター補充申請書」および「トラップ設置予算案」。
解読不可能な筆跡(というか爪痕?)で書かれた、山のような事務書類である。
幹部は満足そうに私の肩をポンと一叩きした。
次の瞬間、椅子がギギギッと嫌な音を立て、私ごと数十センチ横に滑った。
彼は踵を返し、ドスッ、ドスッ、と重い足音を響かせながら、颯爽と管理課のフロアを去っていった。
静まり返るフロア。
壁の時計がカチリと音を立て、定時を過ぎた『17時48分』を指し示した。
「……スズネ主任、生きてるか……?」
「幹部、行ったぞ……! おい、すぐにボススライムのアップデート情報をアナウンスしろ!」
「スズネ主任に胃薬とお茶を持ってこい!!」
一斉に群がってくる同僚たちの声を遠くに聞きながら、私は白目を剥いてデスクに突っ伏した。
「定時……私の定時が……また消えた……」
幹部の追加業務を終える頃には、日付が変わっているだろう。
胸ポケットの退職届は、今日も提出されることなく、汗と涙で少しだけ湿っていた。




