200話:月見酒(挿絵あり)
月が——出た。
会津の十五夜。秋の空は高く、雲ひとつない。満月が磐梯山の上に昇り、神指城の石垣を白く照らしている。
城の庭に——三人の男が座っていた。
直江兼信。帳面の男。
直江兼続。義の男。
前田慶次。傾奇者。
三人の前に——酒と肴が並んでいる。会津の酒。於松が選んだ酒だ。「今夜は良い酒を」と兼信が頼んだら、於松は帳場の奥から——一番高い酒を出してきた。帳面に「接待費」と書いて。
「……接待費、か。月見酒が接待費になるのか」
「なります。養父殿と慶次殿は——上杉家の重要人物です。重要人物との会食は——接待費です」
慶次が笑った。大きな笑い声が、秋の夜に響いた。
「帳面の嫁に、帳面の婿。天下一の帳面夫婦だ。月見酒まで帳面につけるとは」
「うるさいぞ、慶次」
「うるさくて結構。傾奇者は——うるさいのが仕事だ」
兼続が酒を注いだ。三人の杯に——月の光が映っている。
「飲もう」
三人が——杯を上げた。
*
一杯目。
酒が喉を通り、胸が温かくなった。会津の酒は——甘く、辛く、深い。
「……うまいな」
「ああ。うまい」
「うまい酒は——平和な世でなければ飲めん」
兼続が言った。杯を月にかざしている。月の光が酒を通り抜け、兼続の手を照らしている。
「戦の最中の酒は——味がしない。勝った夜の酒は濃すぎる。負けた夜の酒は苦すぎる。ただの酒が、ただの酒として——うまい。それが——平和の味だ」
「養父殿。酒を語るのは——珍しいですね」
「景勝様が江戸におられるからな。景勝様がいると——わしは黙る。景勝様の前では——義の話しかしない。酒の話は——しない」
「景勝様は——酒が嫌いなのですか」
「嫌いではない。だが——景勝様は月を見る時、謙信公の話をされる。謙信公と酒を飲んだ夜の話を。わしは——その話を聞くのが好きだ。だが今夜は——わしが話す番だ」
慶次が肴の里芋を頬張った。
「月見に里芋。——悪くない。まつが作った煮物には負けるがな」
「まつ殿は——もう会津に来たのか」
「来た。先月。子供たちも一緒だ。長いこと——離れていた。加賀から会津まで——遠い道だった。だが、まつは笑って来た。『あなたがいる場所が家です』と」
「……良い嫁だな」
「ああ。お前の嫁には負けるがな。於松殿は——天下の帳場を回している。まつは——俺の飯を作っているだけだ」
「飯を作ることが——一番大事だろう」
「……そうだな。腹が減っては——帳面も書けない」
三人が笑った。月の下で。里芋を食べながら。
*
二杯目。
「兼信。——お前は、会津に来てからずいぶん変わったな」
兼続が言った。
「変わりましたか」
「ああ。最初に帳場に来た時——お前は、数字しか見えていなかった。帳面の数字。紙幣の数字。経済の数字。全てが——数字だった」
「……はい」
「だが——今は違う。数字の裏に人を見ている。帳面に名前を書くようになった。数字だけでなく、名前を。戦死者の名前を。生き残った者の名前を。帳面の欄外に——『大根。美味』と書くようになった」
「……見ていたのですか」
「於松から聞いた。帳面の欄外に感想を書く夫がいる、と。あの子が——笑って言っていた」
「於松が——笑って」
「ああ。笑っていた。お前が変わったことが——嬉しいのだろう。数字だけの男が、人を見るようになった。帳面だけの男が、月見酒をするようになった。それが——於松の幸せだ」
兼信は杯を見つめた。月が映っている。丸い月。揺れない月。
「……俺は、於松に変えてもらったのだと思います」
「於松に——」
「はい。帳面を一緒に書くうちに——数字の裏に人がいることを教わった。於松は数字を書くが、数字の先に民の暮らしを見ている。俺は——最初はそれが分からなかった。数字は数字だと思っていた。だが、於松のそばにいて——数字の温度を知った」
「数字の温度——か。良い言葉だな」
「於松の言葉です。俺の言葉ではない」
慶次が酒を注ぎ足した。
「お前ら夫婦の話は——聞いていて照れくさい。もっと武張った話をしろ。伊達を討った時の話とか」
「慶次。あの時、お前が道を開けなければ——政宗には届かなかった」
「……まあな。あの時は——久しぶりに体が燃えた。『来いよォォォ』と叫んだ時——体中の血が沸いた。あんな気持ちは——もう来ないだろうな」
「来ない方がいい。平和な世の方が——いい」
「退屈だがな」
「退屈で結構だ」
「……お前、本当にそれしか言わないな」
慶次は笑った。大きな声で。月が——揺れたような気がした。
*
三杯目。四杯目。
月が高く昇った。庭の木々が月光に照らされ、銀色に光っている。虫の声が聞こえる。秋の虫。会津の虫。
「兼信。——天下は、どうなると思う」
兼続が聞いた。酔いが回っている。だが——目は澄んでいた。
「回ります。帳面が回し続けます。紙幣制度が全国に広がれば——大名が争う理由がなくなる。経済が繋がれば——戦の利が消える。戦で奪うより、交易で回す方が——儲かる。儲かる方を——人は選ぶ」
「人は——損得で動く、か」
「損得だけではない。だが——損得を無視もできない。義だけでは天下は治まらない。帳面だけでも治まらない。義と帳面と——民の暮らし。三つが揃って——天下が回る」
「義と帳面と民の暮らし——。謙信公は義だけで戦った。わしは義と政治で戦った。お前は——義と帳面と経済で戦った。代を重ねるごとに——上杉の義が広がっている」
「広がっている——のですか」
「ああ。義の形が変わった。剣の義から、帳面の義に。だが——根は同じだ。正しいことを正しくやる。それが——義だ。紙幣を回し、民の暮らしを守り、約束を守る。それも——義だ」
「養父殿に——そう言っていただけると、嬉しい」
「嬉しいなら——もう一杯飲め」
慶次が割り込んだ。
「おい。二人で義の話をするな。月見酒で義の話をすると——酒がまずくなる」
「慶次。——お前にとって義とは何だ」
「義か。——知らん。俺は義など考えたことがない。ただ——面白い男のそばにいたいだけだ。お前は面白い。帳面で天下を動かす男は——天下に一人しかいない。面白い男のそばにいること。それが——俺の義だ」
「面白さが——義か」
「ああ。退屈は悪だ。面白さは義だ。——傾奇者の義だ」
兼続が笑った。珍しく——声を出して笑った。
「慶次。——お前は、最初から最後まで、傾奇者だな」
「死ぬまで傾奇者だ。——墓石にも『傾奇者、ここに眠る』と彫ってくれ」
「彫ってやる。——帳面にも書いてやる」
兼信が言った。
「帳面に——『前田慶次。傾奇者。面白い男』と」
「……それでいい。それで——十分だ」
*
五杯目。
月が——西に傾き始めた。
慶次は庭の芝生に大の字に寝転がっていた。鼾をかいている。傾奇者の寝相は——派手だった。陣羽織を布団代わりにして、月を仰いでいる。
兼続は正座のまま——だが、少しだけ背中が丸くなっている。酔っている。義の男も——酔えば丸くなる。
「兼信。——良い夜だ」
「はい。良い夜です」
「この夜を——覚えておけ。帳面には書けない夜だ。数字にはできない夜だ。だが——帳面より大切な夜かもしれない」
「……帳面より大切——」
「ああ。帳面は——天下を回す。だが、月見酒は——心を回す。心が回らなければ——帳面も回らない。数字の前に——人がいる。人の前に——心がある。心を——忘れるな」
「忘れません」
「よし。——わしは、先に戻る。慶次は——そのまま寝かせておけ。風邪を引くかもしれんが——傾奇者は風邪など引かん」
兼続は立ち上がった。少しふらついたが——背筋を伸ばした。義の男は——酔っても背筋を崩さない。
「兼信。——また月見をしよう。来年も。再来年も。毎年——十五夜に」
「はい。毎年」
「於松殿にも——酒を用意してもらえ。接待費で」
「……はい」
兼続は去った。月の光に照らされた背中が——廊下の奥に消えていった。
庭には——兼信と、眠っている慶次だけが残った。
*
兼信は——一人で月を見ていた。
慶次の鼾が聞こえる。虫の声が聞こえる。風が木の葉を揺らす音が聞こえる。
静かだ。
帳場に——灯が見えた。帳場の窓から、温かい光が漏れている。
於松が——帳面を書いている。「今夜だけは閉じる」と言ったのに。於松は——帳面を閉じられない。帳面を書くことが——於松の呼吸だ。止められない。
兼信は立ち上がった。
月を背にして、帳場に向かった。
帳場の障子を開ける。於松が顔を上げる。筆を止める。目が合う。
「……おかえりなさい」
「ただいま」
「帳面を——閉じられませんでした」
「知っていた」
「……怒りますか」
「怒らない。——俺も、帳面が恋しくなった」
兼信は於松の隣に座った。帳面を開いた。白紙のページ。
最初の一行を——書いた。
「慶長九年。十五夜。月見酒。養父殿と慶次と。——良い夜だった」
於松がそれを見て——笑った。
「帳面に——感想を書くのですか」
「たまにはいい。数字だけでは——帳面は冷たい。感想を書けば——帳面に温度が宿る」
「……良い帳面ですね」
「ああ。良い帳面だ」
二人で——帳面を見つめた。
月の光が窓から差し込み、帳面を照らしている。白いページに、黒い墨で書かれた一行。
「良い夜だった」
於松が筆を取った。兼信の一行の下に——小さく書き足した。
「おかえりなさい」
兼信はそれを見て——笑った。
帳面の上で——夫婦の言葉が並んでいる。
「良い夜だった」
「おかえりなさい」
帳面の男と、帳面の女。
二人の帳面は——明日も開く。明後日も開く。
帳面は——終わらない。
だが——それでいい。
帳面が終わらないことが——直江兼信と於松の、幸せの形だ。
会津の月が——帳場を照らしている。
静かな夜。温かい夜。帳面の匂いと、墨の匂いと、酒の匂いが——混じっている。
「武士の心構え」——それは、帳面を閉じないこと。
仕組みを回し続けること。民の暮らしを守ること。約束を守ること。
そして——隣にいる人の手を、離さないこと。
帳面は——終わらない。
完




