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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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201/201

200話:月見酒(挿絵あり)

月が——出た。


 会津の十五夜。秋の空は高く、雲ひとつない。満月が磐梯山の上に昇り、神指城の石垣を白く照らしている。


 城の庭に——三人の男が座っていた。


挿絵(By みてみん)


 直江兼信。帳面の男。

 直江兼続。義の男。

 前田慶次。傾奇者。


 三人の前に——酒と肴が並んでいる。会津の酒。於松が選んだ酒だ。「今夜は良い酒を」と兼信が頼んだら、於松は帳場の奥から——一番高い酒を出してきた。帳面に「接待費」と書いて。


「……接待費、か。月見酒が接待費になるのか」


「なります。養父殿と慶次殿は——上杉家の重要人物です。重要人物との会食は——接待費です」


 慶次が笑った。大きな笑い声が、秋の夜に響いた。


「帳面の嫁に、帳面の婿。天下一の帳面夫婦だ。月見酒まで帳面につけるとは」


「うるさいぞ、慶次」


「うるさくて結構。傾奇者は——うるさいのが仕事だ」


 兼続が酒を注いだ。三人の杯に——月の光が映っている。


「飲もう」


 三人が——杯を上げた。



   *



 一杯目。


 酒が喉を通り、胸が温かくなった。会津の酒は——甘く、辛く、深い。


「……うまいな」


「ああ。うまい」


「うまい酒は——平和な世でなければ飲めん」


 兼続が言った。杯を月にかざしている。月の光が酒を通り抜け、兼続の手を照らしている。


「戦の最中の酒は——味がしない。勝った夜の酒は濃すぎる。負けた夜の酒は苦すぎる。ただの酒が、ただの酒として——うまい。それが——平和の味だ」


「養父殿。酒を語るのは——珍しいですね」


「景勝様が江戸におられるからな。景勝様がいると——わしは黙る。景勝様の前では——義の話しかしない。酒の話は——しない」


「景勝様は——酒が嫌いなのですか」


「嫌いではない。だが——景勝様は月を見る時、謙信公の話をされる。謙信公と酒を飲んだ夜の話を。わしは——その話を聞くのが好きだ。だが今夜は——わしが話す番だ」


 慶次が肴の里芋を頬張った。


「月見に里芋。——悪くない。まつが作った煮物には負けるがな」


「まつ殿は——もう会津に来たのか」


「来た。先月。子供たちも一緒だ。長いこと——離れていた。加賀から会津まで——遠い道だった。だが、まつは笑って来た。『あなたがいる場所が家です』と」


「……良い嫁だな」


「ああ。お前の嫁には負けるがな。於松殿は——天下の帳場を回している。まつは——俺の飯を作っているだけだ」


「飯を作ることが——一番大事だろう」


「……そうだな。腹が減っては——帳面も書けない」


 三人が笑った。月の下で。里芋を食べながら。



   *



 二杯目。


「兼信。——お前は、会津に来てからずいぶん変わったな」


 兼続が言った。


「変わりましたか」


「ああ。最初に帳場に来た時——お前は、数字しか見えていなかった。帳面の数字。紙幣の数字。経済の数字。全てが——数字だった」


「……はい」


「だが——今は違う。数字の裏に人を見ている。帳面に名前を書くようになった。数字だけでなく、名前を。戦死者の名前を。生き残った者の名前を。帳面の欄外に——『大根。美味』と書くようになった」


「……見ていたのですか」


「於松から聞いた。帳面の欄外に感想を書く夫がいる、と。あの子が——笑って言っていた」


「於松が——笑って」


「ああ。笑っていた。お前が変わったことが——嬉しいのだろう。数字だけの男が、人を見るようになった。帳面だけの男が、月見酒をするようになった。それが——於松の幸せだ」


 兼信は杯を見つめた。月が映っている。丸い月。揺れない月。


「……俺は、於松に変えてもらったのだと思います」


「於松に——」


「はい。帳面を一緒に書くうちに——数字の裏に人がいることを教わった。於松は数字を書くが、数字の先に民の暮らしを見ている。俺は——最初はそれが分からなかった。数字は数字だと思っていた。だが、於松のそばにいて——数字の温度を知った」


「数字の温度——か。良い言葉だな」


「於松の言葉です。俺の言葉ではない」


 慶次が酒を注ぎ足した。


「お前ら夫婦の話は——聞いていて照れくさい。もっと武張った話をしろ。伊達を討った時の話とか」


「慶次。あの時、お前が道を開けなければ——政宗には届かなかった」


「……まあな。あの時は——久しぶりに体が燃えた。『来いよォォォ』と叫んだ時——体中の血が沸いた。あんな気持ちは——もう来ないだろうな」


「来ない方がいい。平和な世の方が——いい」


「退屈だがな」


「退屈で結構だ」


「……お前、本当にそれしか言わないな」


 慶次は笑った。大きな声で。月が——揺れたような気がした。



   *



 三杯目。四杯目。


 月が高く昇った。庭の木々が月光に照らされ、銀色に光っている。虫の声が聞こえる。秋の虫。会津の虫。


「兼信。——天下は、どうなると思う」


 兼続が聞いた。酔いが回っている。だが——目は澄んでいた。


「回ります。帳面が回し続けます。紙幣制度が全国に広がれば——大名が争う理由がなくなる。経済が繋がれば——戦の利が消える。戦で奪うより、交易で回す方が——儲かる。儲かる方を——人は選ぶ」


「人は——損得で動く、か」


「損得だけではない。だが——損得を無視もできない。義だけでは天下は治まらない。帳面だけでも治まらない。義と帳面と——民の暮らし。三つが揃って——天下が回る」


「義と帳面と民の暮らし——。謙信公は義だけで戦った。わしは義と政治で戦った。お前は——義と帳面と経済で戦った。代を重ねるごとに——上杉の義が広がっている」


「広がっている——のですか」


「ああ。義の形が変わった。剣の義から、帳面の義に。だが——根は同じだ。正しいことを正しくやる。それが——義だ。紙幣を回し、民の暮らしを守り、約束を守る。それも——義だ」


「養父殿に——そう言っていただけると、嬉しい」


「嬉しいなら——もう一杯飲め」


 慶次が割り込んだ。


「おい。二人で義の話をするな。月見酒で義の話をすると——酒がまずくなる」


「慶次。——お前にとって義とは何だ」


「義か。——知らん。俺は義など考えたことがない。ただ——面白い男のそばにいたいだけだ。お前は面白い。帳面で天下を動かす男は——天下に一人しかいない。面白い男のそばにいること。それが——俺の義だ」


「面白さが——義か」


「ああ。退屈は悪だ。面白さは義だ。——傾奇者の義だ」


 兼続が笑った。珍しく——声を出して笑った。


「慶次。——お前は、最初から最後まで、傾奇者だな」


「死ぬまで傾奇者だ。——墓石にも『傾奇者、ここに眠る』と彫ってくれ」


「彫ってやる。——帳面にも書いてやる」


 兼信が言った。


「帳面に——『前田慶次。傾奇者。面白い男』と」


「……それでいい。それで——十分だ」



   *



 五杯目。


 月が——西に傾き始めた。


 慶次は庭の芝生に大の字に寝転がっていた。鼾をかいている。傾奇者の寝相は——派手だった。陣羽織を布団代わりにして、月を仰いでいる。


 兼続は正座のまま——だが、少しだけ背中が丸くなっている。酔っている。義の男も——酔えば丸くなる。


「兼信。——良い夜だ」


「はい。良い夜です」


「この夜を——覚えておけ。帳面には書けない夜だ。数字にはできない夜だ。だが——帳面より大切な夜かもしれない」


「……帳面より大切——」


「ああ。帳面は——天下を回す。だが、月見酒は——心を回す。心が回らなければ——帳面も回らない。数字の前に——人がいる。人の前に——心がある。心を——忘れるな」


「忘れません」


「よし。——わしは、先に戻る。慶次は——そのまま寝かせておけ。風邪を引くかもしれんが——傾奇者は風邪など引かん」


 兼続は立ち上がった。少しふらついたが——背筋を伸ばした。義の男は——酔っても背筋を崩さない。


「兼信。——また月見をしよう。来年も。再来年も。毎年——十五夜に」


「はい。毎年」


「於松殿にも——酒を用意してもらえ。接待費で」


「……はい」


 兼続は去った。月の光に照らされた背中が——廊下の奥に消えていった。


 庭には——兼信と、眠っている慶次だけが残った。



   *



 兼信は——一人で月を見ていた。


 慶次の鼾が聞こえる。虫の声が聞こえる。風が木の葉を揺らす音が聞こえる。


 静かだ。


 帳場に——灯が見えた。帳場の窓から、温かい光が漏れている。


 於松が——帳面を書いている。「今夜だけは閉じる」と言ったのに。於松は——帳面を閉じられない。帳面を書くことが——於松の呼吸だ。止められない。


 兼信は立ち上がった。


 月を背にして、帳場に向かった。


 帳場の障子を開ける。於松が顔を上げる。筆を止める。目が合う。


「……おかえりなさい」


「ただいま」


「帳面を——閉じられませんでした」


「知っていた」


「……怒りますか」


「怒らない。——俺も、帳面が恋しくなった」


 兼信は於松の隣に座った。帳面を開いた。白紙のページ。


 最初の一行を——書いた。


「慶長九年。十五夜。月見酒。養父殿と慶次と。——良い夜だった」


 於松がそれを見て——笑った。


「帳面に——感想を書くのですか」


「たまにはいい。数字だけでは——帳面は冷たい。感想を書けば——帳面に温度が宿る」


「……良い帳面ですね」


「ああ。良い帳面だ」


 二人で——帳面を見つめた。


 月の光が窓から差し込み、帳面を照らしている。白いページに、黒い墨で書かれた一行。


 「良い夜だった」


 於松が筆を取った。兼信の一行の下に——小さく書き足した。


 「おかえりなさい」


 兼信はそれを見て——笑った。


 帳面の上で——夫婦の言葉が並んでいる。


 「良い夜だった」

 「おかえりなさい」


 帳面の男と、帳面の女。


 二人の帳面は——明日も開く。明後日も開く。


 帳面は——終わらない。


 だが——それでいい。


 帳面が終わらないことが——直江兼信と於松の、幸せの形だ。


 会津の月が——帳場を照らしている。


 静かな夜。温かい夜。帳面の匂いと、墨の匂いと、酒の匂いが——混じっている。


 「武士の心構え」——それは、帳面を閉じないこと。


 仕組みを回し続けること。民の暮らしを守ること。約束を守ること。


 そして——隣にいる人の手を、離さないこと。


 帳面は——終わらない。




                  完

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― 新着の感想 ―
人情味溢れるとても良い作品です。
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