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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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198話:約束を守る仕組み

大坂城。


 慶長八年。秋。


 豊臣秀頼は——十歳になっていた。


 父・秀吉が死んで五年。関ヶ原から二年。天下は——秀頼の名のもとに治まりつつある。だが、十歳の子供が天下を治めているわけではない。三成が政務を執り、上杉が東を押さえ、毛利が西を守っている。秀頼は——旗印だ。豊臣の旗印。


 兼信は大坂城を訪れていた。天下の帳場の定例報告のためだ。年に三度、大坂に上り、三成と会い、紙幣制度の進捗を報告する。於松も同行している。帳面を持って。


 秀頼が——兼信に会いたいと言った。


 淀殿が取り次いだ。


「直江殿。秀頼が——帳面の男に会いたいと申しております」


「……私でよろしいのですか」


「秀頼は——帳面に興味があるようです。紙幣とは何か、帳面とは何か。三成殿に教わるより、直江殿に教わりたいと」


 兼信は於松と顔を見合わせた。


「……行くか」


「行きましょう。秀頼様に——帳面を見せましょう」



   *



 秀頼は——大坂城の奥の間にいた。


 十歳。父・秀吉に似て丸い顔をしているが、目は母・淀殿に似て聡明だった。体は大きい。十歳にしては——堂々とした体格だ。


 秀頼の前に——兼信と於松が座った。


「直江殿。——紙幣とは何ですか」


 秀頼の声は——子供の声だった。だが、問いは子供のものではなかった。


「紙幣は——約束です。この紙を持ってくれば、銀と交換する。その約束を紙に書いたものです」


「約束を——紙に書く」


「はい。約束を守り続ければ——紙は銀と同じ価値を持ちます。約束を破れば——紙は紙くずになります」


「約束を守ることが——大切なのですね」


「はい。天下を治めることも——同じです。民に約束をし、約束を守り続ける。それが——治政の本質です」


 秀頼は頷いた。十歳の子供が——真剣に頷いた。


「父上も——約束をしましたか」


「はい。太閤殿下は——多くの約束をされました。領地を与える約束。官位を与える約束。戦で功を立てた者に恩賞を与える約束。——ただ」


「ただ?」


「太閤殿下が亡くなった後——約束を守る者がいなくなりました。だから——天下が乱れた。約束を守る仕組みがなかったからです」


「仕組み——」


「はい。紙幣制度は——約束を守る仕組みです。人が変わっても、仕組みが回り続ければ——約束は守られます。秀頼様が大きくなった時——この仕組みが、秀頼様の天下を支えます」


 秀頼は兼信を見つめた。十歳の目に——理解の光があった。全てを分かったわけではない。だが——「約束を守る仕組み」という概念を、心のどこかに刻んだ。


「於松殿。——帳面を見せてください」


 於松が帳面を開いた。紙幣の流通記録。全国の兌換件数。会津・大坂・京都・堺・江戸・博多の各帳場の数字が並んでいる。


「……数字がたくさんありますね」


「はい。この数字の一つ一つが——民の暮らしです。紙幣が使われた回数は、民が商いをした回数です。数字が増えれば——暮らしが豊かになっている証拠です」


「数字で——暮らしが分かるのですか」


「はい。帳面は——天下の鏡です。帳面を見れば、天下の姿が見えます」


 秀頼は帳面を覗き込んだ。十歳の指が——数字をなぞった。


「……僕も、帳面を書けるようになりたい」


 兼信と於松は——顔を見合わせた。そして——笑った。


「教えましょう。秀頼様に——帳面を」


 淀殿が奥から見ていた。息子が帳面に興味を示している。剣ではなく、帳面に。淀殿の目に——安堵があった。


(この子は——秀吉殿のように剣で天下を取る必要はない。帳面で天下を治められれば——それでいい)



   *



 三成との定例会議。


 大坂城の評定の間。三成と兼信が向き合っている。


「紙幣の全国展開——順調です。会津は四年目に入り、兌換件数は月千件を超えました。大坂は開設一年で月三百件。堺は月五百件。博多は月百五十件。江戸は月四百件。全国合計で——月二千四百件」


「二千四百件——。一年前の五倍だな」


「はい。伸びています。特に堺の商人が——紙幣の利便性に気づき始めた。銀を運ぶ危険がなくなり、遠方との取引が容易になった。堺が動けば——全国の商人が追随します」


「問題は」


「兌換所の人材不足です。帳面を正確に書ける人間が——まだ足りない。各地の兌換所で——計算間違いや不正が起きかけている。左内殿が監査を強化していますが、人が増えれば——目が届かなくなる」


「不正——か」


「はい。紙幣は信用で成り立つ。不正が一件でも発覚すれば——紙幣の信用が揺らぐ。信用が揺らげば——仕組みが崩れる。官兵衛殿が言っていた通り——仕組みを止める者が現れれば、仕組みは崩れる」


「対策は」


「二つ。第一に、兌換所の帳面を全て会津の帳場に集め、於松が一括で監査する。帳面の数字が合わなければ——即座に分かる。第二に、兌換所の人材を会津で研修させる。於松の下で半年間——帳面の書き方を叩き込む」


「於松殿の負担が——大きくないか」


「大きい。だから——於梅が補佐する。於梅は人を見る目がある。研修生の適性を見極め、配置する。帳面は於松が。人は於梅が。姉妹で——天下の帳場を回す」


 三成は頷いた。


「分かった。——直江殿。もう一つ、報告がある」



   *



 三成が語ったのは——西軍諸将の近況だった。


 毛利輝元。広島に帰還し、百五十万石の領国経営を再開。関ヶ原で総大将を務めた毛利は——大きな発言力を持っている。だが、輝元自身は大坂城から動かなかった男だ。実際に戦ったのは——家臣たちだ。


「毛利殿は——紙幣制度への参加に消極的です。『毛利の領内は毛利が治める。上杉の仕組みは要らない』と」


「予想通りだ。毛利殿は——独立心が強い。紙幣制度に参加すれば、経済的に上杉と豊臣に組み込まれる。それを——嫌がっている」


「強制しますか」


「しない。時間をかける。堺の商人が紙幣を使い始めれば——毛利の領内の商人も、紙幣がないと取引しづらくなる。商人が求めれば——毛利殿も拒めなくなる。経済が——毛利を引き込む」


「経済で——大名を従える」


「はい。剣ではなく、紙幣で」


 宇喜多秀家。備前・備中・美作八十万石。関ヶ原で奮戦した功績で加増され、西国第二の大名となった。秀家は——若い。三十一歳。まだ伸びる大名だ。


「宇喜多殿は——紙幣制度に前向きです。備前の商人が堺と取引する際に、紙幣が便利だと気づいた。宇喜多殿自身も——帳面に興味を持っています」


「良い傾向だ」


 島津義弘。薩摩・大隅・日向九十万石。関ヶ原で敵中突破を果たした猛将。日向一国を加増されたが——島津は遠い。九州の南端。大坂からも会津からも——最も遠い大名だ。


「島津殿は——独自路線です。紙幣には興味がないが、敵対もしない。琉球との交易で独自の経済圏を持っている。当面は——放っておくしかない」


「島津殿は——放っておいていいのですか」


「いい。島津殿は——約束を守る男だ。関ヶ原で退かなかった男は——嘘をつかない。上杉と敵対しないという約束を守るなら——それで十分だ」


 立花宗茂。筑後・肥前四十八万石。九州北部の柱。宗茂は——武人だが、民政にも明るい。紙幣制度にも前向きだ。


「立花殿は——模範的です。紙幣制度を積極的に導入し、領内の商人が活気づいている。博多の紙幣流通が伸びているのは——立花殿の協力があるからです」


「立花殿は——信頼できる男だ」


「はい。官兵衛殿が降伏した後、立花殿は上杉に加わった。その判断の速さと——忠義の厚さ。九州の安定は——立花殿に任せられます」


 小西行長。肥後一国三十四万石。清正が去った肥後を——行長が一人で治めている。キリシタン大名。宣教師を保護し、教会を建てている。


「小西殿は——領内のキリシタンを保護しつつ、紙幣制度も導入しています。信仰と経済が——うまく共存している。面白い領国経営です」


 前田利長。加賀百万石。関ヶ原では東軍にも西軍にも決定的に加担しなかった。五大老時代と同じ格を保証され、北陸の安定を任されている。


「前田殿は——動かない。動かないことが——北陸の安定になっている。紙幣制度への参加は——まだ先でしょう。毛利殿と同じく、時間が必要です」


 佐竹義宣。常陸・遠江七十万石。関東の副柱。上杉の最も信頼できる同盟者。


「佐竹殿は——紙幣制度を積極的に導入しています。常陸の商人が——江戸と会津の紙幣圏に組み込まれ、活発に動いている。義宣殿の父・義重殿が言っていた通り——上杉と組むのは、正解だった」



   *



 定例会議が終わった。


 兼信と三成が、大坂城の廊下を歩いている。


「三成殿。——天下は、回っていますか」


「回っている。——だが、まだ危うい。毛利殿と島津殿が紙幣に参加していない。前田殿も動かない。天下の半分が——まだ紙幣の外にいる」


「時間をかけましょう。紙幣は——強制するものではない。便利だから使う。使う人が増えれば——使わない人が不便になる。不便になれば——参加する。それが——仕組みの力です」


「仕組みの力——か。直江殿。お前の仕組みが——天下を変えつつある。秀吉殿が剣で作った天下を——お前は紙幣で作り直している」


「作り直しているのは——俺だけではない。三成殿が政務を回し、於松が帳面を守り、左内が兌換所を束ねている。全員の力です」


「……お前は、いつもそう言うな」


「事実ですから」


 三成は小さく笑った。


「秀頼様が——帳面を書きたいと言った。あの子が帳面を学べば——豊臣の天下は安泰だ。剣ではなく帳面で治める天下人。秀吉殿は——驚くだろうな」


「太閤殿下なら——笑うでしょう。『わしの子が帳面で天下を治めるとは。面白い』と」


「……そうだな。太閤殿下は——面白いことが好きだった」


 大坂城の秋。銀杏が色づいている。


 天下は——まだ完成していない。だが——回り始めている。紙幣が回り、帳面が動き、仕組みが広がっている。


 帳面の男が設計した天下が——少しずつ、形になりつつあった。

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