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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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126話:米が動く

 桜が満開だった。会津若松の城下を埋める桜が、一斉に開いている。街道から城下に入った瞬間、風に花弁が混じった。白と薄紅が空気の中を舞い、石畳の上に散っている。四月の終わり。酒田から戻って、最初に目にしたのはその桜だった。


 城下の空気が変わっていた。十日前に発ったときとは違う。通りを歩く人足の顔が違う。普請場に向かう職人たちの足取りが、僅かに軽い。何が変わったのか、湊はまだ知らなかった。だが足の裏を通して城下の地面が伝えてくるものがある。金が回り始めた街の気配だ。


 左内が普請場にいた。職人たちの間を歩き、帳面を片手に何かを確認している。四千二百石の侍が普請場の土の上を歩いている姿は異様だったが、職人たちはもう慣れた様子だった。左内を見つけた石工の棟梁が頭を下げ、左内が何か答えている。金の話だろう。この男がいる場所では、必ず金の話が動いている。


 湊を見つけた左内が、帳面を懐にしまい、歩いてきた。土を踏む足取りに迷いがない。報告すべきことがある男の足だった。


 「戻ったか。酒田はどうだった」


 「佐渡の金を載せた便が出た。百丁の鉄砲と鍛冶二人の招聘を頼んだ」


 左内の目が光った。佐渡が動いたということは、金の桁が変わるということだ。この男にはそれだけで十分だった。


 「こちらも動いた」


 左内の声に力があった。


 「辰蔵の番頭が蔵に来た。紙を持って。丸田が米を渡した。十反分。帳面通りだ」


 湊は足を止めた。


 「換えたのか」


 「換えた。番頭は若い男だ。紙を丸田に差し出すとき、手が震えていた。こんな紙切れで本当に米が出るのかという顔をしていた。だが丸田は帳面を確認し、額面を読み、蔵から米俵を出した。番頭が米俵を担いで帰っていくのを、某が蔵の前で見ていた」


 紙が米に換わった。仕組みが言葉ではなく実物として動いた瞬間だった。


 「辰蔵は」


 「番頭が米を持ち帰った翌日、辰蔵本人が蔵に来た。今度は百反分の紙を持って。丸田が米を渡した。辰蔵は米俵を一つずつ数え、持ち上げて重さを確かめ、升で量り直しまでして、一つも文句を言わずに持ち帰った。商人だ。最初の確認は番頭にやらせ、自分は結果を見てから動く。だが動くときは十倍で張る」


 「百反か。十反の試しから一日で十倍か」


 「辰蔵は帰り際に丸田に言ったそうだ。『紙は銭より軽い。懐が楽だ』と。あの男なりの冗談だろう。だが本音だ。銭を運ぶ手間が消えることの意味を、商人は体で分かる」


 左内が懐から帳面を出した。数字が並んでいる。兌換の記録だった。日付、額面、米の量、受取人。すべてが左内の筆で書かれている。


 「辰蔵の後、蝋燭屋が来た。辰蔵が米を持ち帰ったという話を聞いて、自分も試すと言ってきた。三十反分。蝋燭屋も紙を受け入れた」


 桜の花弁が風に乗って、二人の間を通り過ぎた。普請場の向こうで、石を運ぶ人足たちの声が聞こえている。


 「普請場の職人にも紙幣を配り始めた」


 左内の声が少し低くなった。


 「反応はどうだった」


 「最初は戸惑っていた。大工の棟梁が紙を手に取って、裏返して、透かして見て、『これが飯になるのか』と言った。職人たちが後ろで見ていた。棟梁がどうするかを、全員が見ていた」


 「お前は何と言った」


 「『蔵に持っていけば米になる。辰蔵の木綿問屋も蝋燭屋も、すでに換えている。嘘だと思うなら自分の足で蔵に行け』と」


 「それで」


 「棟梁がその日のうちに蔵に行った。一人で行った。米俵を担いで戻ってきた。普請場の入り口で米俵を下ろしたとき、職人たちが見ていた。棟梁は何も言わなかった。ただ米俵を叩いて、『本物だ』と言っただけだ。翌日から、職人たちの目が変わった。紙を受け取るとき、前日までとは違う顔になっていた」


 左内が帳面を閉じた。


 「紙が米に換わるということは、紙で飯が食えるということだ。職人にとってはそれだけの話だ。だがそれだけの話が、一番強い。理屈ではない。米俵を担いで帰ってきた棟梁の背中を見て、他の職人が信じた。言葉ではなく米俵が信用を作った」


 湊は左内の帳面を見た。数字が並んでいる。紙幣の発行額、兌換実績、蔵米の残量。すべてが左内の筆で記されている。筆跡に迷いがない。一つの数字を書くのに考え込んだ形跡がない。蒲生家で一万石を回した男は、金の流れを数字に変換する速度が違う。


 「蔵米の残量は」


 「兌換に使ったのは全体の二分。一割の枠にはまだ余裕がある。辰蔵と蝋燭屋と普請場の職人を合わせても、枠の五分の一も使っていない。まだ拡張できる」


 二人は普請場を離れ、城下の通りを歩いた。桜が頭上で揺れている。花弁が風に乗って、通りの端まで飛んでいく。普請場の石を運ぶ人足が、道の端を歩いている。その人足の懐にも、紙幣が入っているのだろう。紙が米に換わると知った人間の足取りは、知らなかった頃より速い。


 通りの向こうに、辰蔵の木綿問屋の暖簾が見えた。風に揺れている。あの店が最初に紙を受け入れた。あの暖簾の向こうで、紙幣という仕組みが根を下ろし始めている。


 「城下の流通のうち、紙幣が通っているのはどのくらいだ」


 「まだ一割に届かない。木綿問屋と蝋燭屋と、普請場の職人。それだけだ。城下には他にも呉服屋、金物屋、紙屋、味噌屋がある。だがまず落とすべきは一軒だ」


 「三割まで上げるには、どこが要る」


 「米穀商だ」


 左内の声が硬くなった。歩く速度が僅かに落ちた。


 「米穀商が渋っている」


 湊は左内を見た。左内は前を向いたまま歩いている。


 「米穀商の主人——太兵衛という男だ。話は持っていった。だが首を縦に振らない」


 「理由は」


 「考えてみれば当たり前の話だ。紙で米を渡す仕組みだろう。米を売る商人が、紙で米を受け取れと言われている。辰蔵は木綿を売る男だ。蝋燭屋は蝋燭を売る。どちらも米を作っていない。紙を蔵に持っていけば米が手に入るから、紙を受け入れられた。だが太兵衛は米そのものを売っている。蔵の米と自分の米は別物だ。紙を持って蔵に行って米をもらっても、それでは自分の商売と競合する。太兵衛の言い分はこうだ。『某は米を売って銭を得る男だ。紙で米をもらっても仕方がない』」


 湊は黙った。筋が通っている。


 「分かる。だが米穀商が紙幣を受け入れなければ、城下の流通に穴が開く。米を扱う商人が紙を拒否しているということは、紙幣の信用に限界があるということだ。木綿と蝋燭では回っても、米では回らない。それでは仕組みとして弱い」


 城下の角を曲がった。路地の先に小さな茶屋がある。左内が足を止めた。


 「太兵衛を落とす手はある」


 「聞かせろ」


 「太兵衛が欲しいのは米ではない。銭だ。米を売って銭を得る男だ。だから紙幣を、米ではなく銭に換えられる仕組みにすればいい」


 「紙を銭に換える。蔵の銭で」


 「いや。紙を持ってきた者に、銭でも米でも、好きな方で渡す。兌換の幅を広げる。辰蔵や蝋燭屋は米で受け取る。太兵衛は銭で受け取る。どちらでも紙が通れば、紙の信用は同じだ」


 湊は考えた。蔵米の一割が兌換原資だ。銭を兌換に加えるなら、蔵の銭も原資に組み込む必要がある。兼続の許しが要る。だが筋は通る。紙の裏付けが米だけではなく銭にも広がれば、紙幣の汎用性が上がる。米が要る者は米で、銭が要る者は銭で受け取れる。紙一枚が米にも銭にもなるなら、それはもう紙ではない。金そのものだ。


 「兼続様に話を通す必要がある」


 「承知している。だが紙幣を銭でも兌換できるとなれば、木綿問屋も蝋燭屋も紙の信用をさらに強く感じる。米にしか換えられない紙と、米にも銭にも換えられる紙では、重みが違う。米穀商だけの問題ではない。紙幣全体の格が上がる」


 左内の目が光っている。金を回す男の目だった。一つの壁を、仕組みの拡張で超えようとしている。守銭奴ではない。金の流れ方を知り尽くした男が、流れの形そのものを変えようとしている。


 「兼続様には俺から話す。蔵米の一割に加えて、蔵の銭の一部を兌換原資に加える許しを取る。数字が要る」


 「もう出してある」


 左内が帳面を開き、一頁を湊に見せた。銭の兌換原資の試算。紙幣の発行上限。米と銭の兌換比率。蔵銭の残量と、兌換に回せる上限額。すべてが書かれている。湊が酒田に行っている間に、左内は次の手を打つ準備を終えていた。太兵衛に断られた日のうちに、この数字を組んだのだろう。壁にぶつかった日に、もう壁を越える道具を作り始めていた。


 「某は壁にぶつかったとき、壁を見ているだけの男ではない」


 左内がそう言って、帳面を閉じた。声に力があった。蒲生家で一万石を回していた頃も、この男はこうだったのだろう。壁に当たるたびに、帳面を開き、数字を組み、金の道を探した。


 茶屋の縁台に座った。茶を頼んだ。桜の花弁が茶碗の中に落ちた。左内はそれを指で弾かず、そのまま茶を飲んだ。花弁が唇に触れたはずだが、気にした様子もない。


 「左内殿。蔵奉行の丸田はどうだった。兌換の段取りに滞りはなかったか」


 「丸田は堅い男だが、言われたことは正確にやる。紙を持ってきた者に対して、額面を確認し、帳面に記録し、米を渡す。その手順を一度も間違えなかった。辰蔵が百反分を持ってきたときも、顔色一つ変えずに米を出した。あの男は蔵の番人として申し分ない」


 「丸田が崩れたら、紙幣の信用も崩れる」


 「崩れない。某が毎日、蔵の帳面を確認している。丸田も分かっている。某が見ているということを」


 左内は茶碗を置いた。通りの向こうで、人足が荷車を引いている。城の方角に向かっている。普請場に石を運んでいるのだろう。あの人足にも、明日から紙幣で払われる。


 湊は茶碗を手に持ったまま、城下を見ていた。紙幣が動き始めている。辰蔵が受け入れ、蝋燭屋が続き、普請場の職人が米俵を担いで帰った。仕組みが根を張り始めている。左内がいる限り、この根はさらに太くなる。太兵衛が落ちれば、城下の流通の三割に紙が通る。


 だが佐渡の金はまだ海の上だ。銀次の堺便は出たばかりで、鉄砲も鍛冶もまだ手元にない。紙幣は城下の金を回す仕組みだが、外——堺との交易を動かすのは佐渡の金だ。内と外。二つの車輪が同時に回らなければ、上杉は変われない。


 内の車輪は回り始めた。左内が回している。辰蔵と蝋燭屋が軸になり、普請場の職人が載った。太兵衛が壁だが、左内がすでに手を打つ準備をしている。この男に任せておけば、壁は崩れる。


 外の車輪はまだ止まっている。銀次が堺に着くまであと何日かかる。鍛冶を口説くのにどれだけの時間が要る。百丁の鉄砲が会津に届くのはいつか。大筒の見積もりが出るのは。すべてが海の向こうにある。湊の手が届かない場所で、銀次が動いている。信じて待つしかない。


 だが待っている間にも時は過ぎる。一年半。堺便が戻るまでに一月。鍛冶が会津に来るまでにさらに一月。鍛冶場を建てるのに二月。大筒の一発目が撃てるようになるまでに——半年か。それ以上か。すべてを足すと、残された時間の大半が消える。余裕はない。一つでも遅れれば、間に合わなくなる。


 左内が茶碗を置いた。


 「太兵衛には某がもう一度行く。今度は数字を持って。銭での兌換ができると分かれば、あの男は動く。商人は理屈では動かん。金で動く」


 「頼む」


 左内が立ち上がった。帳面を懐にしまい、桜の下を歩き出した。四千二百石の侍が、城下の商人を一軒ずつ回る。蒲生家で一万石を回した男が、紙切れ一枚を信用に変える仕事をしている。その背中は、会津の城下を自分の庭のように歩いている。


 湊は縁台に座ったまま、左内の背中を見ていた。桜の花弁が風に舞い、左内の肩に落ちた。左内は払わなかった。気づいていないのか、気にしていないのか。どちらでもいい。あの男は金のことだけを考えて歩いている。太兵衛の店までの道順を、頭の中で組んでいるのだろう。


 左内の姿が角を曲がって消えた。湊は茶碗の残りを飲み干した。花弁の味がした。


 城の方角から、木剣の音が聞こえてきた。遠い。だが聞こえる。稽古場だ。上泉と弁之助。あの二人は今日も打ち合っている。


 紙幣が根を張り、佐渡の金が海を渡り、鉄砲が来て、鍛冶が来て、大筒が鋳られる。そのすべての先に、長谷堂城がある。千の兵で二万を止める城。上泉が死ぬ城。——上泉を死なせない城にする。そのために紙幣を回し、佐渡を開き、堺に船を出した。


 木剣の音が、桜の向こうから聞こえている。止まらない。

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