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馬車の車輪が石畳を叩く規則正しい音が、今の私には心地よい祝奏のように聞こえる。
背後に残してきた王宮は、今ごろひっくり返した蟻の巣のような騒ぎになっていることだろう。エドワード殿下のあの呆然とした顔、そしてリリア嬢の計算が狂った瞬間の怯え。思い出すたびに、上質なワインを一口含んだような愉悦が胸を充たす。
「お嬢様、あのような派手な幕引きになさるとは。旦那様も驚かれますよ」
御者台から、御者のカイルが苦笑混じりに声をかけてきた。彼は幼い頃から私に仕える腹心の一人だ。
「いいのよ。中途半端に慈悲を見せれば、あの男は自分の立場を勘違いし続けるわ。……それより、カイル。例の『贈り物』は手配できているかしら?」
「ええ。王都の全商工会、およびアステリア商会傘下のギルドには、既に伝令を飛ばしました。『今夜、契約は死んだ』と」
私は窓の外に流れる夜の街並みを眺めながら、ふっと口角を上げた。
契約は死んだ。
それは、アステリア公爵家が王家に対して提供していた「無利子融資の即時停止」と「未払い金の即時一括返済」を意味する隠語だ。
この国、グランヴェール王国は、華やかな外見とは裏腹に、度重なる外征と王族の浪費で財政は火の車だった。それを支えていたのが、私の生家であるアステリア公爵家の圧倒的な経済力だ。
私が王太子の婚約者であったからこそ、父は「未来の娘婿への投資」として多額の金を貸し付けていた。けれど、その娘婿自らが婚約を破棄したのだ。投資を引き揚げるのは、商人として、そして親として当然の権利である。
馬車が公爵邸の重厚な門をくぐった。
玄関先には、既に父――アステリア公爵が、ガウンを羽織った姿で待ち構えていた。手には高級な葉巻と、私を歓迎するためのグラスが握られている。
「おかえり、アイリス。……どうやら、最高の夜になったようだな」
父の低い声には、怒りではなく、むしろ娘の成長を喜ぶような響きがあった。
「ただいま戻りました、お父様。……少しばかり、王宮のホールを騒がせてしまいましたけれど」
「構わん。エドワード殿下の不忠については、お前が送ってくれた資料で既に閣僚たちにも根回し済みだ。今夜のパーティーにいた貴族たちの口を封じることはできまい。……さあ、中へ入れ。戦いの前の休息だ」
応接室に入ると、パチパチと薪がはぜる暖炉の音が迎えてくれた。
私はドレスを脱ぎ捨てる前に、父に向き直って一礼した。
「お父様、明日から王宮は大混乱に陥ります。エドワード殿下は、リリア嬢に贈ったドレスや宝飾品が、すべて『公金』から出ていることを公にされるでしょう。そして、アステリア商会が引き揚げる資金は、王宮の年間予算の三割に相当します」
「わかっている。奴らは明日、青い顔をしてこの邸に泣きついてくるだろうな。だが、アイリス。お前はどうしたい? 奴らを完全に潰すか、それとも――」
私はテーブルに置かれたクリスタルのチェス駒、その「キング」を指先で弾き倒した。
「王室という形は残すべきでしょうね。民の混乱を招くのは本意ではありません。……ただし、中身は入れ替えさせていただきますわ。あの愚かな男に、王冠を戴く資格はありません。今夜のことで、はっきりしましたわ」
私の目的は、ただの「婚約破棄への報復」ではない。
私の人生を「政略の道具」として弄ぼうとした者たちすべてに、真の所有者が誰であるかを教え込むこと。
そして、自由を手に入れた私が、この国を裏から操る「真の主」になることだ。
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翌朝。
私の予想通り、王都は朝から激震に揺れていた。
王宮からアステリア邸へと、ひっきりなしに伝令の騎馬が駆け込んでくる。
しかし、私はそのすべてを「体調不良」という名目で門前払いした。
昨夜、あれほど衆人環視の中で私を罵り、追い出したのはエドワード殿下なのだ。その被害者が、ショックで寝込んでしまうのは当然の権利ではないか。
昼過ぎ、ついには国王陛下からの親書を携えた侍従長が、必死の形相でやってきた。
私は優雅に寝室でティータイムを楽しみながら、届けられた手紙を指先で弄ぶ。
「お嬢様、侍従長が玄関先で膝をついて泣かんばかりだそうです。『どうか、融資の停止だけは再考していただきたい』と」
メイドのアンが、くすくすと笑いながら報告してくる。
「再考? おかしなことをおっしゃるわね。婚約が破棄された以上、アステリア家と王家をつなぐ鎖は何一つ残っていないというのに。……アン、侍従長に伝えて。私は今、失意のどん底にいて、お金のことなど考えられる状態ではない、と」
「かしこまりました。……失意のどん底、ですね。……その割には、スコーンが進んでいらっしゃいますが」
「あら、失礼。悲しみのあまり、手が勝手に動いてしまうのよ」
私は一口、スコーンを頬張った。アステリア家のお抱えシェフが作るスコーンは、王宮のパサパサしたものより数段も美味しい。
さて。
エドワード殿下、あなたは今ごろどうしているかしら?
「真実の愛」とやらは、空っぽになった財布を温めてくれるのかしら?
あなたが守ったリリア嬢は、あなたの特権が消え、借金だけが残った姿になっても、変わらず愛を囁いてくれるのかしら。
二人の真実の愛がどれほどの物なのか、楽しみだわ。
私は窓の外に広がる広大な公爵領の庭園を眺めた。
これまでは「王妃になるための教育」に費やされていた時間が、すべて私の自由な時間になる。
領地の経営、新しい商売の開拓、そして、エドワードに代わる「新しい協力者」の選定……。
やりたいことは山ほどある。
私の本当の人生は、まだ始まったばかり。
その時、ドアが激しく叩かれた。
アンが戸惑ったように扉を開けると、そこには血相を変えた……しかし、私の予想とは別の人物が立っていた。
「アイリス! 無事か!」
現れたのは、第二王子であるセドリック殿下だった。
エドワードとは腹違いの兄弟であり、常に「冷徹な才子」と噂され、兄からは疎まれていたはずの彼が、なぜここに。
彼は荒い息をつきながら、私の姿を見るなり、安堵したように肩を落とした。
「兄上が愚かな真似をしたと聞いた。……融資の引き揚げも、婚約解消の書類も、すべて君の仕掛けだろう?」
私はティーカップを置き、彼に最高の微笑みを向けた。
「……あら、セドリック殿下。お耳が早いのですね。……どうやら、私の人生を面白くしてくれる『新しい駒』が、向こうから歩いてきてくれたようですわ」
この火蓋は、まだ切られたばかり。
これから王家が、そして私を嘲笑った貴族たちが、どのような悲鳴を上げるのか。
まだ始まったばかり。




