彼女の進展
スカーレットは、げんなりとした気分を隠そうともしていなかった。今回のパーティに会いたくない人がいたのだ。
会いたくないと言ってもあの夫人達ではない。最近あの2人はスカーレットが反撃して以来、顔を合わせるたびにネズミの子のように逃げ回っている。正直今の彼女の敵ではななかった。
問題は、先程からずっと脂下がった顔で右手を握っている伯爵だった。
「ロイマー夫人は今日もお美しいですなぁ」
「ありがとうございます。そろそろ友人の所へ挨拶に行きますので……」
「いや、まだ時間もありますし、もう少しお話しても私は構いませんよ」
(こっちが構うって言ってんのよ!ベタベタ触らないでよ気持ち悪い!)
そう言えたらどんなにスッキリするか。
こっちは関わらないでほしいオーラをビシビシ出している筈なのだが。鈍いのかあるいは無視しているのか、気色悪く触るのを全く止めようとしない。
そもそもの発端は、ある日に街へと出かけた際に、彼の落とし物を拾ってあげたのが始まりである。それ以来こうして何かと付きまとわれているのだ。
スカーレットは以前から当て馬にされていると有名だし、最近ではエリックのお相手のフローラは独身に戻っている。
いよいよ捨てられる時が近づいて来たから、付け入る隙があると思ったのだろう。本当にいい迷惑だ。
「ロイマー伯も、こんな美しい奥方を放って置くなんて薄情なお人ですよねぇ。私でよろしければ、お慰めしてさしあげますよ」
「いいえ、結構です」
(はぁ?何言ってんのよ。大体アンタみたいな口が臭い奴、金を積まれたってゴメンよ)
言動の全てが気持ち悪くて鳥肌が立つ。
周りの人はチラチラと心配そうに見ているが、こんなのでもこの男は社交界ではそれなりの立場にいる。
どこかに連れ込まれそうならまだしも、今は下手に手出しせずにこうして見ている事しか出来ないのであろう。
いい加減ウンザリしてきて、更に眉間にシワが寄る。
「ああ、そんな表情をされては折角の美しいお顔が勿体ない。貴女にはもっと明るい表情がお似合いですよ」
(誰がさせてると思ってんのよ。誰が)
触られている方と反対の手で拳をギリギリと握って耐える。そうでもしないと平手打ちをかましそうになるからだ。
揉め事を起こせば厄介になるのは、スカーレットにとっても同じである。どうやってこの状況を切り抜けるか、頭を抱えていると救世主が現れた。
「失礼、伯爵。向こうで奥方が貴方を探しておられましたよ?」
「何だと……。そうでしたか、教えて頂きありがとうございます」
それは彼女のよく知る声だった。
邪魔をされたと感じた伯爵は不機嫌そうに相手を睨みつける。だが、相手は社交界でも顔が利くポリッチ侯爵だ。
爵位が上の相手と揉めるのは不利だと判断したのか、舌打ちを置き土産に伯爵は去って行く。何もかも下品な男だった。
「ありがとうございます。助かりました」
ようやく解放されて胸を撫で下ろしたスカーレットは、侯爵に深々と頭を下げる。後で触られた方の手を入念に洗わないとと、頭の片隅に浮かべながら。
「……いつもあのような事をされているので?」
眉を顰める侯爵に苦笑する。
「いつもは両親の友人に助けて頂くのですが、今回はどなたもいらっしゃらなくて……」
これでも前よりは大分マシになった方なのだ。今回はたまたま運が悪くてあんな目に遭ったのだが、事故とはいえ家族に相談して良かったと今では思う。
あの日に完全に狙いを定めた家族を誤魔化せる筈もなく、それはもう変質者について洗いざらい吐かされた。
あの伯爵に付きまとわれていると知った両親は「婿は当てにならない」と、友人1人1人にかけ合ってくれたのだ。「娘が困っていたら助けてあげてほしい」と。
彼等も要求に応えてさり気なく助けてくれていたが、どうしても目の届かない部分もある。
今回はそこを狙われてしまったのだ。侯爵が来てくれて本当に助かった。
「見て。ポリッチ侯爵が颯爽とロイマー夫人を助けたわ」
「良かった。あの人ったら奥様も愛人もいらっしゃるのに、まだ女癖の悪さが抜けないのね」
「ああいうのは一生治らないものよ」
成り行きを見守っていた夫人達がヒソヒソと囁きあう。家族から聞いた時は半信半疑だったが、本当に自分達の事が噂になっているようだ。
こんなに気付かなかったなんて、相当あの伯爵がストレスだったんだろう。
「それにしても、並んでいるとまさにお似合いの2人ね。目の保養だわ」
「離婚されたら直ぐに再婚されるのかしら?」
「時期を見るのではなくて?お子さんの事もあるでしょうし」
囁き合う人達の視線がいくら好意的でも、これ以上は一緒にいない方が良さそうだ。今後は事業関係以外は、接触自体を控えた方が賢明なのかもしれない。
「助けて頂いたのに申し訳ございません。離れた方が良さそうですね」
「お待ち下さい」
そう考えながら、もう一度礼をしてこの場から退ち去ろうとする。しかし今の噂話は侯爵にも聞こえただろうに、何故か止められてしまった。
「いかがしましたか?…………え?」
息を呑む。彼は今までの親しい知人としての顔をしていなかった。
自意識過剰になっていなければ、まるで自分に恋をしているような、そんな熱を孕んだ視線視線を向けていた。
「これはあくまで私個人の考えとして聞いて頂きたい。私は例の噂が流れていても一向に構わない。むしろ噂が本当になればと願ってさえいる」
「それって……」
スカーレットは彼の真意を測ろうとして、直ぐに目を逸らす。家族以外の男女が、このような場であまり見つめ合うべきではない。
正直彼女としては戸惑うしかなかった。いくら周囲が彼に脈があると話していても、勝手な憶測で盛り上がっているだけだと思っていたから。
現に侯爵も直前までは、あくまで知人としての態度を崩さなかった。しかしまさか本当の事だったなんて。
「あの、突然おっしゃられても。驚き過ぎて気持ちがついて行かないと言いますか……」
「勿論、貴女がこちらを意識していないのは分かっていたとも。だがこれを機に少しでも考えて頂けると、ありがたい」
いつから?いつから侯爵は自分を意識していたんだろう。そんな素振りが全く見られなかっただけに見当がつかない。
いや、自分の事は後でも良い。もっと優先すべき事があるではないか。
「侯爵にはお子さんもいらっしゃいますでしょう?まずはご子息とお話をされてからが良いと思われます」
彼女が最も懸念したのは今年で10歳になる筈の彼の息子である。突然顔も知らない女性を「新しい母親だよ」と言われて、すんなりと受け入れられる訳がない。
それに完全な政略結婚ならともかく、少しでも情が絡んでいる場合は「父は自分と母を裏切った」と、ショックを受けるかもしれない。
まずは子どもと話し合って新しい母親を受け入れられるか。そこから始めた方が良いと考え、先程のプロポーズの返事は保留にした。
大人の自分でさえ戸惑っているのに、まだ10歳の子どもが戸惑わない筈がないのだ。
(これで話が流れてくれると良いけど……)
ありがたい申し出ではある。しかし彼女は貴族の娘として失格ではあるが、エリックとの夫婦生活ですっかり結婚に関して恐怖心を抱いていた。
もし彼の息子が自分を受け入れなかったら。この先もっと相応しい人が現れたら。そうなったら侯爵との夫婦関係も直ぐに破綻してしまう。
それが怖くてどうしても二の足を踏んでしまうのだ。
息子を溺愛している侯爵なら今のできっと考え直してくれる筈。そう思っていたのだが。
「……貴女はやはり優しい方だ。私の目は間違っていなかったようだ」
何故か侯爵は愛しい者を見るような目で、笑みを浮かべたのだ。
これが大人の本気というものなのだろうか。至近距離から浴びせられる大人の色気にスカーレットは硬直し、周りの女性達から黄色い悲鳴が上がる。
これでまた噂が加速するだろうが、色気に完全に当てられてしまった彼女には、今やそれを考える余裕は無かった。
「返事は直ぐでなくて結構です。もし心が決まったら『オーガスタ』と。そうお呼びください」
「はい……」
呆然と返事をするスカーレットに満足したのか、侯爵は気品ある一礼を贈ると颯爽と立ち去る。
貴族の大人がファーストネームを許すのは家族か、気の置けない同性の友人か、伴侶を意味する。
その後の記憶は曖昧だ。どうやって会場から出たのか、スカーレットは気づけば馬車の前で佇んでいた。
会場に戻るのも恥ずかしく、このまま家路に就こうと乗り込む。
(あ、洗うの忘れてた……)
右手を思い出した頃には、馬車はもう動き出していた。




