男爵位は、追放状でした
典礼官が差し出した銀盤に、鷲章はなかった。
先ほどまで、同じ盤の上で異母兄の章が光っていた。父は拍手を送り、兄の肩へ手を置いた。今は黒い布の上に、任地を書いた羊皮紙だけが載っている。
オーレリアン・ケイド・ヴェイルは膝をついたまま、その紙を見た。背中が痛む。数分前の決闘で、壁へ打ちつけられた場所だった。
「皇帝陛下の恩寵により、汝をアシェンマーク男爵に叙す」
儀場の奥で扇が開いた。笑い声は聞こえない。
軍貴族の子は、昇位の儀を通れば副男爵として帝国内に残れる。敗れた十二歳には、それより高い爵位と、帰れない土地が与えられた。
(昇進させて捨てるのか。ずいぶん手の込んだ話だ)
「帝国大街道の西に位置する同地を治め、流民を教化し、荒地を開き、帝国の威光を示すべし」
書庫で読んだ歴代領主の記録が、頭から離れなかった。就任から死まで、平均三年。後任を待たずに途切れた名もある。
十五歳まで生きれば、長く務めた方に入る。
研究室の机で一度死んだ時には、次の人生までそんな勘定をするとは思わなかった。
二年前、目覚めたのは十歳の貴族の身体だった。言葉を覚え、礼法を覚え、この世界の魔法――フォルマを学んだ。知れば知るほど面白かった。教本に載っていない組み方も、いくつも思いついた。
今日、それを一つも使い切れなかった。
◇
相手の杖先に、光の円――オルビスが開いた。
そこを走る文字は読めた。防ぎ方も分かっていた。だが、杖を運ぶ右手が追いつかない。
(解ける。だが、通せない)
最後の一筆へ届く前に、未完成のオルビスごと壁へ叩きつけられた。
床へ落ちて息を取り戻す間に、勝者の名が告げられた。誰かの靴が目の前を通った。父のものではなかった。
◇
「謹んで、拝領いたす」
声は掠れたが、震えなかった。
銀盤から任命状を受け取ると、典礼官は早くも次の名へ目を落とした。そこまでが、オーレリアンのために用意された時間だった。
ヴェイル家当主エルガンは、列席者の間に立っていた。目が合っても動かない。息子を助けるために使える言葉を、何一つ口にしなかった。
(頼んだところで、負けた事実は変わらない、か)
任命状の縁を握る。指が白くなり、慌てて緩めた。
この家で生きるために覚えた言葉も作法も、二年分まとめて捨てられたわけではない。少なくとも紙の上では、これからは自分が領主なのだ。
「面を上げよ、アシェンマーク男爵」
「皇帝陛下の御名に恥じぬよう、務めを果たす」
口だけが、勝手に立派なことを言う。
その口で命乞いをする気には、もうなれなかった。
◇
帝都圏の端にある転移門を抜けても、任地はまだ遠かった。
二か月近く、雨季の旧軍道を進んだ。宿がなくなり、石畳がなくなり、護衛の口から敬称も消えた。橋の落ちた川では何日も足を止めた。
荷台には木箱が三つ。食料と布、古い領地記録。先端に銀環をつけた黒塗りの男爵杖が、車輪の揺れに合わせて膝を打った。
夜には杖先へ小さなオルビスを開いた。火を灯し、荷箱を動かす程度なら困らない。だが、威力と範囲を広げ、力を細かく振り分けようとすると、答えが身体を置いていく。
この身体で目覚めた頃から、思考と動きが噛み合わないことがあった。慣れれば治ると思っていたが、二年たっても遅れは残っている。
(全部を一度にやろうとするから駄目なのか)
教本のフォルマから、働きを一つずつ外した。威力も範囲も捨て、短いものを残す。魔獣を倒せなくても、足を滑らせるくらいならできるかもしれない。
その途中で、馬車が止まった。
「着いたぞ、男爵閣下」
窓の向こうに城はなかった。壊れた礼拝堂を囲んで小屋が寄り集まり、その軒下から、こちらを見ている人々がいた。
荷台の食料へ向けられた目を見て、オーレリアンは任命状を畳んだ。
(俺一人で逃げたところで、食べていける土地じゃない)
水を通し、畑を戻し、雨をしのげる家を作る。ここで生きるなら、あの人々とやるしかない。使えるフォルマが少ないことも、十二歳であることも、理由にはできなかった。
男爵杖をつかんで、馬車を降りた。




