赤ちゃん初日
「惜しかったわー。本当にあとちょっとだったんだけどねぇ」
「あ、はい。あの……申し訳ありません」
私は目の前の年齢不詳の美人、イラーハと名乗る女性に頭を軽く下げた。
「いや、貴女のせいじゃないんだけどねぇ。ほんと、悔やまれるわぁ」
イラーハさんは頬にほっそりとした手を当てて困ったように眉を下げている。
真っ白な世界は音が吸い込まれるように静まり返っていて、二人の声だけがゆったりと響いている。部屋とも呼べない空間には、簡素なローテーブルと向かい合ったよく磨かれた革張りのソファが置かれているだけだ。
私はイラーハさんと向かい合って座っていて、テーブルの上の書類に再度目を向ける。
森野藍 享年28歳
そのまま履歴書にも使えそうな書類の上に、でかでかと朱書きで書き殴られた文字が嫌でも目に飛び込んでくる。
私はいつものように深夜残業を終えて一人暮らしの家に帰りつくなり体をベッドに投げ出した。
(ああ。化粧落とさなきゃ。それよりお風呂は、めんどうだな。晩御飯はもういいけど、シャワーだけでも浴びないと……)
いつもみたいにぐずぐずとしているうちに意識を手放した。
そして目を開けたらこの空間に立っていて、イラーハさんと対面していた。
イラーハさんは自分を「魂の管理者」と紹介してくれた。そして私が死んでしまったということも。
突然の心臓発作だったというが、苦しんだり痛かった記憶がないのはよかった。でもそれによって自分が死んだという感覚もない。いまだって夢の中のようだ。
「痛みの記憶がないのはアナタの魂が耐えられないからよ」
イラーハさんが私の心を読んだかのように言った。
「アナタの魂はね、とても磨かれていて完成間近だった。森野藍の人生を全うしていたら輪廻の輪に帰って次は神様になっていたのよ」
「か、かみさま?!」
「そうよ。アナタが103歳の寿命を迎えるまで穏やかーに生きていたらね。それが心身ともに疲弊する生活を何年も続けて突然死。こちらでも予想外のことで驚いちゃった」
私も自分の魂が神になるといわれたことも、自分の死が予想外で寿命が103歳まであったと聞かされたことも驚きである。
「アナタの魂は傷つき、今にも壊れて消滅してしまいそうな状態なの。だから死の瞬間の記憶はこちらで消去させてもらったわ」
これ以上、魂が傷つく行為は「魂の消滅」にもつながるため施された処置だという。
「私の魂が消滅すると、どうなるんでしょうか?」
「一つの魂が消滅するというのは大変なことよ。アナタという何度も生まれ変わってきた魂がすべての場所、すべての時間、すべての記憶から消されてしまうの。その結果、何が起こるかというと……」
イラーハさんはいつの間にか手に持っていたバインダーに挟まれた書類をめくり、目を走らせる。
「まずは地球に知的生命体が生まれない未来。生まれたとしても天変地異で淘汰される未来。疫病の蔓延で人類の多くが死滅する未来。一番可能性が高いのは大きな戦争が起こって地球が消滅する未来。いま確認できるだけでこれだけ分岐してる未来があるわね」
「ええ?!」
「ええー?!よね。一つの魂が地球に存在しなかったというだけでもこれくらいの影響が起きちゃうのよ」
私が生きていれば起こっていた出来事が、起きなかったことになる。それは直接私とかかわることのない人にも影響を及ぼすことなのだそうだ。
「アナタの今の状態で輪廻の輪に入ってしまったら魂が砕けるだろうってことで、一旦ここに来てもらったの」
イラーハさんはバインダーを閉じてそっとローテーブルに置いた。
「魂が砕けないようにアナタにはその傷ついた魂の傷を治してから輪廻の輪に戻ってほしいの。魂の癒しにはのんびりしたり、楽しんだり、愛されたり愛したり、心の栄養が必要なの。そのために私がおすすめするのは『転生』よ」
「てんせい、ですか?」
「そう!存分に癒されるようにうってつけの器があるのよ」
「……転生。器……」
まるで物語のような展開に頭がついていかない。いまだって物語みたいな状況だけれど。
「肉体という方が伝わるかしら?アナタ子供からやり直してみない?というか、それしか方法がないんだけどね」
私としても、魂が砕けて自分という存在がきれいさっぱり消えるなんて恐ろしいと思ってしまう。方法がそれしかないのなら選択肢はない。
「難しく考えないで。アナタは疲れてるから、ちょっと骨休めに旅行に行くような感覚でいたらいいのよ」
イラーハさんの言葉で忙しくてできなかった大好きな温泉旅行を思い浮かべ、悪くないなぁなんて思ってしまった。最近は趣味のスーパー銭湯めぐりも出来ていない。
「あら。乗り気になってきた?肉体は可愛いし、大人になったら美人になること間違いなし!特典もいっぱいつけるわ!」
イラーハさんは張り切ってローテーブルのバインダーを再度開いて、書類を一枚抜き出してこちらへと滑らせるように差し出した。私はそれを手に取って目を通す。
「特典って言うのは加護とかステータスとかいうんだけど、欲しいだけあげるわ」
「ステータスって、ゲームみたいな響きですね」
「ええ。アナタからしたら地球とは違う理を持つ世界だから、ゲームみたいって思うかもしれないわね」
イラーハさんの言葉に私は書類から顔を上げた。
「生まれ変わるのは地球じゃない、んですか?」
「残念ながら輪廻の輪から弾かれてしまった魂をそのままの状態で同じ世界に戻すことは出来ないわ」
単純に前世の記憶をはっきり残している魂はどんな影響が出てしまうかわからないので、おいそれと元の世界に戻すことが出来ないのらしい。だから違う世界に転生しなければならない。
それを聞いて不安がよぎる。知らない世界、知らない理に、平凡な私が簡単に馴染めるのだろうか。
「大丈夫よ。ちゃんとその世界にも秩序があって、人の営みもある。まずはアナタをちゃんと愛してくれる人と出会うようにしてあげる」
「ありがとう、ございます」
「あら、お礼なんていいのよー。こっちの都合でもあるし」
何でもないことのように言われたが、「私を愛してくれる人との出会い」という言葉がどれほど大きなものか。私は喉がきゅうっとなった。泣きそうだ。
「あらあら、大丈夫よ。特典は嫌というほどつけてあげる。それをどうやって成長させるか、どんなふうに生かすのかはアナタ次第」
イラーハさんはうつむいている私の手から書類をぴっと取り上げると、箇条書きにされた特典一覧に赤いペンで大きな丸を付けた。
それでは特典全部盛りではないか。私がびっくりしているとイラーハさんはにっこりと笑って立ち上がった。
「どんな生き方を選んでもいいわ。どんなことをしてもいい。魂が、心が喜ぶことを優先して生きるのよ。そして、今度こそ寿命を全うして戻って来てちょうだい」
座ってる私の左肩に、ぽんとイラーハさんの温かい手が置かれた。
私は「はい」と返事した。そして返事したとたん、ぐっと体が重くなった。
「目を閉じて、そのまま身をゆだねて」
「……」
返事をしようと思ったが、体が重くてできない。どろどろとした重い液体の中にどぶんと沈んだような気分だ。
イラーハさんがまだ何かを話していたが、もう何も聞きとれない。強烈な眠気が襲ってきて目を閉じた。
目を開けたら大きな木の根っこにもたれかかるような姿勢で座っていた。
ここは木陰になっているが、目の前の開けた場所にはきらきらとした日差しが差し込んでいる。
ピヨーピヨーと鳥の鳴く声が聞こえる以外は静かな場所だ。
コシコシと眠い目をこすってから気が付いた。手がふにふにだ。よくよく見たら手は赤ちゃんのように小さくなっている。
「う?」
驚いて立ち上がろうとしたが、バランスが崩れてストンと地面にお尻をついた。地面は芝生のような草が生い茂っているので痛くない。もう一度、木にもたれかかって自分の手をまじまじ見て、ぐーぱーとゆっくり閉じたり開いたりしてみた。
「うあう」
そうだ。子供からやり直しだって言われた。けどこれって子供というよりは赤ちゃん!!
首もゆっくりとしか動かないが、周りを見渡しても草ばっかりで人の気配がない。
これって、けっこう、出だしから詰んでるのでは……?そう思ったとたん、じわじわと勝手に盛り上がる涙で視界が歪んだ。
「う、うわああああああああああああん」
森の中に私の泣き声が響く。
うわ、我がことながら感情が上手く制御できない。寂しいとか怖いとかいう感情がどっと溢れるのと一緒に、大粒の涙が次から次へと顎を伝って洋服に落ちる。
「うぎゃああああああああああああん」
何とか落ち着こうとしても、赤ちゃんの体はいうことをきいてくれない。しばらくは気持ちをそのまま爆発させることしかできなかった。
しばらく泣いて、泣いて、大幅に体力を使ったところで気が付いた。
のど乾いたなぁ……。
「うあー」
また悲しくなってきた。
だめだ。体力を温存しておかないと。
ぎゅうっと目を閉じて涙を我慢しようとしたら、近くからがさがさと草の揺れる音がした。
「う?」
がさ。
草をかき分けて目の前に飛び出してきたのは真っ白の毛玉のような犬だった。
ひゅんひゅんと鼻を鳴らして覆いかぶさってきて、それはそれは丁寧に顔を舐めてよだれまみれにされた。
「うぷあ」
怒涛の愛情表現が終わってなんとか息をつくと、犬の目が神秘的な青をしていることに気が付いた。
高級なトルコ石みたいな青い瞳でこちらをじっと見つめていたと思ったら、きちんとお座りして「アオーーン」と遠吠えを始めた。
ぴーーーー
遠くから微かに笛のような細い音が応えるように聞こえてくる。
何度かそれを繰り返すと、大勢の人がどんどん近づいてくる気配がした。がさがさと草を踏む音やら話し声がする。
「ファイルーズ。何を見つけた、ん、だ……」
先頭に立っていた鎧を着た男の人は犬を撫でながら話しかけていたが、犬の目線の先にいた私を見てびっくりして固まった。
「赤ん坊?」
私は知らない人が急に現れたのを見て、また心が暴れ出した。
ぽろぽろ涙がこぼれる。
「ま、待て、泣くな――」
「うああああああああああああん」
その声に、なんだなんだと人が集まってくる。
「赤ん坊?」
「なんで森に赤ん坊が?」
「え?え?誰か泣き止ませた方がいいんじゃない?」
「馬鹿。赤ん坊のあやし方知ってる奴なんかいるかよ」
おろおろとする集団の中からスッと現れた人一倍大きな男の人が、私を抱き上げてくれた。
「おー。よしよし。大きな声だな。元気そうだ」
「エレオス様」
最初に私を見つけてくれた人がほっと息をついた。
エレオス様と呼ばれた男性は、熊のようないかつい見た目だが声が落ち着いていて話し方が優しい。小さい子を抱くことにも慣れているのか太い腕には安心感がある。
「のどが渇いてるんじゃないか?ほら、水を飲め」
片手で私を抱いて、器用に腰から取り出した水筒の蓋を開けて私の口に添えてくれる。
私はやっと水が飲めると水筒の飲み口に慌てて吸い付いた。
「ゆっくり飲めよ。むせないように」
言われた通りに、ちゅっちゅと少しずつ吸った。
喉が渇いていたのでただのお水が殊更美味しく感じる。
「エレオス様。この周辺を捜索しましたが人の気配はありません。ファイルーズも匂いを感じないとのことです」
「そうか。まるで新品みたいに服が汚れてない。おしめも……汚れてないな。肌艶もいい。ここに連れてこられてからそう時間は経ってないと思うんだがな」
正解です。さっき来ました。とは言えない。
「それにしても女の子はいいな。この子は殊更かわいいが、それだけじゃなく特別な縁というものを感じる」
エレオス様が高い高いをしてくれる。
「まずは俺の奥さんに会わせなきゃな!女の子が欲しいと言っていたし、きっとお前の可愛さにメロメロになるぞー」
私はキャッキャと笑った。




