攻防その10
白い新郎衣装に身を包んだルキオは、鼻の両穴に詰め物をするという間抜けな顔を晒していた。サラの花嫁姿を見た時に、自分の衣装を汚さないようにする為の予防策だった。
一秒でもはやくサラを妻にして安心したいとルキオが駄々をこねたので、婚姻届だけは早々に提出されたが、貴族の結婚式には準備がかかる。そんな二人もとうとう挙式の日を迎えた。既に一つ屋根の下で暮らしているのに、未だに手を出すボーダーラインは変わらない。頰にキスまでだ。今日で一歩、いや半歩前進できるのか。それはルキオの度胸次第である。
「お待たせしました」
「!!!」
後にこの時の事を振り返ったルキオは「天使が舞い降りたかと思った」と語る。クロードの「じゃあ今まで天使だと騒いでいたのは何だったんですか」という突っ込みが入ったのは言うまでもない。
「よくお似合いですね、ルキオ様」
「…………」
「…綺麗ですか?私」
「…………ぉぅ」
「それなら良かったです」
今日ばかりはサラも遠回しには尋ねず、ルキオも割と素直に答えた。「はい」か「いいえ」で答えられるように訊くあたり、サラの優しさが表れている。そういうところが、ルキオは大好きなのである。
どうにかルキオの鼻粘膜は耐える事ができたので、詰め物は取り去られ、二人で扉の前に立つ。
「腕を振りほどかないでくださいね」
「……わ、かってる…っ」
ゆっくりと扉が開かれ、頭にカツラをかぶった新郎と、ベールをかぶった新婦が入場する。ルキオの髪は式までに生え揃わず見苦しかった為、急遽カツラが用意されたのは余談である。付け加えると、まん丸眼鏡はサラから不評だったので、一回かけたきり仕舞われた。
遠目には滞りなく式は進んでいたが、ガッチガチのルキオの横に立つサラは気が気ではない。誓いの言葉を述べる際、ルキオの声が思いっきり裏返ったせいで、この後の誓いのキスに巨大な不安しか残らない。会場に集った人達にはクロードが事前に「今日見たことはすべて他言無用でお願いします」と箝口令を敷いていたが、どこまで効力があるのやら。
まったくどんな結婚式だ。
「では誓いのキスを」
神父にそう言われて、向き合うルキオとサラ。ベールをめくる新郎の手が、活きの良い魚のように揺れている。その顔は、もはや何と形容していいかわからない。
見つめ合うこと数十秒。新郎に動きがないので、会場もざわつき始めた。
「……ルキオ様」
「……?」
サラは神父にも聞こえないような小声で囁く。
「…鼻血が垂れても構いませんから、貴方からしてほしいです。頑張ってください」
現在進行形で恥ずかしい思いをさせているのに、サラは優しく発破をかけてくれた。心が震えるほど感動したルキオは、覚悟を決める。
(サラのために根性見せろ俺っ!!耐えろよ鼻粘膜!!)
目をぎゅっと瞑り、呼吸を止め、ルキオはやっとの思いで唇を重ねた。案の定、鼻血が垂れてきたので、抜かりのない妻はさっとハンカチを取り出して押し当てる。ルキオと出会って以降、サラはハンカチを肌身離さず持ち歩いているのだ。今ではどのハンカチにも、サラ・ガードナーのイニシャルが刺繍されている。
辛うじて大ハプニングは免れたものの、ボーダーラインを塗りかえるまでには至らず。鼻の穴に詰め物が戻されたルキオは、披露宴で散々家族やクロード達に笑われた。唯一の救いは、サラが素早く押さえてくれたおかげで、衣装を血で染めずに済んだ事である。
「………サラ」
「はい?」
「こんな…情け無い俺だけど……見捨てないでくれるか…?」
出会いは嘔吐、デートでも嘔吐。プロポーズはツルピカ、結婚式では鼻血。スマートにキスも贈れないどころか、腕を組んで悲鳴を上げるような男だ。どう考えても碌な奴じゃない。求婚しておいてなんだが、どうしてサラが「はい」と頷いてくれたのか、ルキオはずっと不思議に思っていた。
風に掻き消されそうな声で何を言い出したかと思えば。きょとんとするサラだったが、徐々に笑みを深めていく。
「ルキオ様が浮気さえしなければ、見捨てませんよ」
「本当か!!なら一生一緒だな!!」
「ええ。そうですね」
「サラこそ、う…浮気とか絶対…だめだからな……」
「自分で言って落ち込まないでください」
こんな手のかかる夫を放って、浮気する暇などあるわけ無い。だいたい、見捨てるならもっと早くにそうしている。ここまで付き合い、結婚までしてあげたというのに、察しの悪い男だ。
「そうならないよう、ちゃんと幸せにしてくださいね」
「する!必ずする!!死力を尽くす!!!」
「死なない程度にお願いします」
まあ幸せならすでに沢山貰っていますが、とサラは心の中でこっそり付け加えるのだった。
こうして公然と伯爵夫人になったサラだが、毎日をのんびりと過ごしました、とはいかない。夫が夜会に出席するなら、それに同行しなければならないのだ。まあそれは時たまの事で、大概はサラが理想とする平穏な生活を送っている。
ちなみにドレスアップしたサラを何度もチラチラ見てくるのは「今日も可愛いな」と同義である。
「薬草茶は飲みましたか」
「おう」
「気分が悪くなったらすぐに言ってくださいね」
「おう」
馬車に乗る前は、サラが手ずから薬草茶を淹れるようになったので、ルキオは感涙にむせびながら一滴残さず飲み干していた。
「ダンスは控えておきましょう」
「………おう」
何度かダンスも練習したのだが、まるで上達しなかったので諦めた。
夜会となればサラも気を抜けない。何故なら、腕を組む際に自分の胸が当たらないよう、細心の注意を払わなければならないからだ。
それなりの貴族であるガードナー家なので、二人が結婚したことも、それなりに噂となっていた。サラの技術を持ってすれば、この視線の中でも大多数に紛れ込む事は可能だ。だがしかし、すっきりした頭のルキオが一緒だとそうもいかない。否応なく目立つ。
それでも、悪いことばかりではなかった。毛髪が消えた事で、少なからずいたルキオファンの令嬢も消えたのだ。おかげでいらない嫉妬を買うこともないし、貰うとしたら奇妙なものを見る視線だけだ。どっちもどっちかもしれないが、ワインのかけ合いはやはり御免であるサラだった。
「あれ、ルキオじゃん。久しぶり」
「ん…ああ」
ダンスはできないので、二人で適度に軽食を摂っていたら、ルキオの知り合いらしき男が、茶目っ気たっぷりに話しかけてきた。
「その髪、どうしたんだよ」
「…のっぴきならない事情があった」
なんてことはない。サラの好みを盛大に勘違いした上に、クロードに遊ばれただけである。
「ていうかお前…」
「…?なんだよ」
男はルキオの肩に手を回し、サラに背を向けてから囁いた。
「結婚したって聞いたけど、あんなハズレを引かされたんだな。お前の顔ならもっと選り好みできたのにさ。可哀想に」
声を潜めていても、残念ながらサラには筒抜けだった。見ず知らずの人間に酷評されるいわれはないので腹立たしくはあるが、安全な顔だと自覚もあるので反論も出来ない。
(凡庸の方がまだ良かったですね)
容姿についてあれこれ言われるのは今更だ。だからサラの頭に浮かんだのは、所詮こんな感想だった。ところが…
「ふざけるなっ!!!」
受け流したサラに代わって、ルキオが男の胸ぐらを掴み上げて激昂していた。憤怒の形相をした丸刈り男はかなりの迫力がある。今までルキオが声を荒げる時といえば、すべて照れ隠しだった。鬼気迫る怖い顔で怒鳴ることなんて一度もなかった為、サラまでびっくりして棒立ちになる。
「ハズレだと!?馬鹿言うな!ハズレを引かされたのはサラの方だ!サラは……サラはこんな俺のために堕天してくれた天使なんだからな!!」
ちょっと何を言ってるかわからない。
サラや男を含めた、会場中の人々の見解が一致した瞬間だった。衝撃から少しだけ立ち直ることができたサラは、なおも言い募ろうとするルキオを止めにかかった。これ以上、大衆の前で変なことを口走られても困る。
「ルキオ様」
「はうあ!?!?さっ、サラ!?」
男を掴んでいるのとは逆の腕をとり、サラは無いようで有るような胸を押し当てた。すると効果は抜群、ルキオは怒りではなく羞恥で真っ赤に染まる。なんだか痴女のような行いだと思い、サラも猛烈に恥ずかしくなってきた。でも夫婦なのだからこれくらいは平気だと頑張って言い聞かせる。
「もう、充分ですから」
天使だと思われているのは正直微妙な気分だが、サラのために怒ってくれたのはただ純粋に嬉しかった。
機能停止したルキオを引きずるようにして、サラはその場から退散していく。
「…私だって、ハズレを引いたなんて思っていませんからね」
会場を出て静かな廊下を歩くサラは、ぽつりとこぼした。色々困った旦那様だけれども、どうあっても憎めない人なのだ。
「サラ………!好きだ!!」
「えっ…どう、したんですか急に」
「大好きだ!!」
「それは、私も…ですけど…」
「こんなどうしようもない阿呆を選んでくれて、心から感謝してる!!」
「あの、ちょっと…」
いきなりすぎる怒涛の告白に、珍しくサラが狼狽えている。ルキオ並みに赤面させられた彼女は、言葉に詰まって俯いた。
「照れた顔もすごく可愛いぞ!」
「…っ」
「いや、いつも可愛い!可愛すぎて困るくらいだ!!あれ…おかしいな。今日は本音で喋れる…」
「……ルキオ様?大丈夫ですか…?」
嬉しさのあまり、つい舞い上がってしまったサラだが、流石にこれはちょっと変だと冷静になってくる。重度の照れ屋が急に素直になったら、大きな反動が来そうで怖い。胸を押し当てられたが為に、何かが壊れてしまったのか。
「よくわからんが好都合だ!やっとまともに口が動く!サラ!俺はサラを愛してるからな!!」
「…知ってます。ルキオ様の気持ちはちゃんと、伝わっていますよ」
ルキオらしい、ふんわりとした抱擁を受けたサラは「もっと、ぎゅうってしてください」と、おねだりしてみる。壊れた夫につられて、彼女も自然と素直な気持ちを打ち明けていた。
「細いサラにそんな事したら、折れちゃうだろ!」
「折れませんよ」
「じゃ、じゃあちょっとだけ…」
そう言いながら、全然力加減の変わらないルキオであった。
無理が祟ったルキオは、その日の夜中に高熱を出し、三日三晩ベッドとお友達になってしまう。回復した後も頻繁に羞恥が蘇り、過剰反応を起こす為、元通りになるにはかなり日数を要する事を、この時幸せに包まれるサラは知らなかった。
クロードは「こんな調子だと二十年は見積もらなくてはいけませんかねぇ…」と遠い目をしたが、執事の心配は杞憂に終わる。十年と経たない間に、ルキオとサラは四人の子宝に恵まれ、ガードナー家はいっそう賑やかになるからだ。
年頃になった子供達から、口数の少ない父との出会いについて尋ねられた彼女はこう話したという。
『大多数に紛れようと、努力した結果です』
そうやって身を守っていたら、おかしな人が自分を見つけてくれたのだと。
思い出話を語る母親は、幸福に満ちた表情を浮かべていたそうな。