最終話 覆水盆に返らず(さようなら)
山之上高校の校庭は、咲き誇る桜で桃色に染まっていた。
季節は春、四月。俺、月見里栄太にとって、山之上高校生として迎える最後の春だ。その事実を思う度、胸の奥が熱くなる。
高校生だからこそできることは、今の内に全部やっておきたい。山之上高校の校風に従って、自分の思い通りに過ごしたい――と、思う。
しかし、そうは問屋が卸さない。俺達三年生には、避けて通れぬ人生の大課題が有った。
大課題とは、「進路」。
俺の場合、某県内の大学と決めている。そこに決めた理由は幾つか有る。
文学部が有ること、家から通えること、それから――俺の彼女が目指しているということ。
俺の彼女、別所響は無事に二年生に進級した。今は復学して、自分の脚で学校に通っている。ヤンキー達に暴行された傷も、今は殆ど目立たない。心の方も、自分から男(俺)の傍に寄ってくるまで回復している。その事実は、俺にとって僥倖と言えるものだ。
しかし、俺の心境は複雑だ。響の顔を見る度、胸が痛くなる。その変調の理由が、いつも俺の脳内に閃いた。
俺のせいで、響が酷い目に遭った。
俺自身、加害者という訳ではない。しかし、無関係ではない。原因に付いて考えると、真っ先に自分の顔を想起する。しかし、俺の顔だけではない。
俺の顔の背後には、見慣れた金髪美少女の顔が映っている。その存在を意識すると、俺の口から独り言が零れ出た。
「何で、こんなことしたんだよ。ズゥちゃん」
ズゥちゃん。俺の幼馴染にして、初恋の人。俺にとって、母親を除いて一番親しかった女性だ。しかし、もう会えない。
響の暴行事件の後、ズゥちゃんの家は引っ越しした。
ズゥちゃんの引っ越し先がどこなのか? 俺は知らない。俺の親達も知らされていない。ズゥちゃん達は、誰にも内緒で去っている。
無言の逃避。それを選んだ心情は、理解できないことも無い。
社会から逸脱した人間は、社会では生きにくい。刑事事件の加害者に対して、世間が向ける視線は冷ややかだ。
響を暴行した連中も、響のイジメを主導した連中も、全員町から去った。彼らを追い掛けていた報道陣も、今はもう姿を見ない。町の住民達は「ほっ」と胸を撫で下ろしている。
漸く、俺達の町に平穏が戻ってきた。響を脅かすものは、今のところ無い。少なくとも、彼女に直接危害を加える者はいない。だからと言って、事件が終わった訳ではない。
未だ幾つか裁判が残っていた。
刑事は兎も角、民事で結審するには、それなりに時間が掛かる。
因みに、示談の申し出は(響の保護者が)全て断った。それら全てが結審するまで「終わった」とは言えない。これからも戦いは続く。
尤も、裁判はいずれ終わる。裁判には終わりが有る。
しかし、個人的な心情や都合は、当人が決断しなければ終わらない。
俺は今、事件にかかわる個人的な問題を抱えていた。それは、俺にとって「断ち切り難い因縁」だった。
夕方。響と一緒に下校して、無事に彼女の家まで送り届けた。俺達にとって、事件以前から続けていた日課だ。それを取り戻した事実を鑑みる度、俺の胸が熱くなる。
俺は響の背中に熱い眼差しを向けて、それが家の中に消えるところを確認した。
その直後、俺のスマホが震え出した。
「!」
俺の体がビクリと震えた。
このとき、スマホから着信音は無かった。俺は訳有ってスマホをマナーモードにしている。その設定を採用している理由は、スマホの状態に有った。
俺のスマホは、朝から引っ切り無しに震え続けていた。それを、今の今まで無視していた。嫌がらせにしても度が過ぎている。
俺は苦虫を噛み潰したような渋面を浮かべながら、スマホを取り出して画面を見た。すると、そこには幼馴染の愛称が映っていた。
〈ズゥちゃん〉
言わずもがな、ズゥちゃんからの連絡だ。その事実を目の当たりにする度、俺の歪んだ眉目は一層歪んでいく。
そもそも、ズゥちゃんが警察に連行されて以降、俺達は全く顔を合わせていない。ズゥちゃんの家が蛻の殻になったときも、俺に連絡は無かった。俺は「ズゥちゃんの家と縁が切れた」と思っていた。それなのに――
「何でなんだよ?」
天災は忘れた頃にやってくる。
俺達が三年生に進級したタイミングで、ズゥちゃんから連絡が入った。
最初はメッセージだけだった。頻度も一日一回程度だった。
しかし、日を追う毎に頻度は増えていく。しかも、メッセージだけでなく音声通話も入るようになった。
現在、ズゥちゃんからの連絡は毎分入ってくる。しかし、俺が返信したことは一度も無い。そもそも、返信する気が無い。ズゥちゃんから見れば、既読スルーし続けているように思えるだろう。
それでも、ズゥちゃんは連絡を止めない。
ズゥちゃんが止めないのならば、俺の方で対応するしかない。その手段について考えると、俺の脳内に「着信拒否」という言葉が閃いた。
着信拒否の方法は分かっている。しかし、俺は着信拒否しなかった。それを躊躇う理由が、俺の脳内に閃いていた。
俺達、昔は仲が良かったよな。
ズゥちゃんは、母親を除けば、俺の半生で最も長く時間を過ごしてきた女性だ。俺にとっては初恋の相手でもある。彼女の存在は、未だ俺の心の多くを占めている。俺の心底には「更生して幸せになって欲しい」と願う気持ちが、少なからず有った。
俺に連絡をすることで、少しでも気が紛れるなら。
ズゥちゃんのメッセージの内容に「連絡することが、唯一の心の支え」と書いて有った。それを見た上で、彼女との縁を断ち切る勇気が、今の俺には無い。だからと言って、彼女の言い分を聞く訳にはいかない。
ズゥちゃん達は、響を酷い目に遭わせた。
響のことを想うと、俺の髪が逆立つ。絶対に、返信しないと心に決めている。それでも、メッセージの内容を見る度、俺の心は大きく揺れた。
そこには、俺達にとって「大切な思い出」が綴られていた。尤も、その内容が送られるようになったのは、つい最近のこと。
ズゥちゃんから連絡が入るようになったばかりの頃、彼女は俺と連絡を取り合うことを望んだ。
メッセージの内容は「会いたい」とか、「声が聞きたい」ばかり。当時も今も、その要求を呑む気は無い。俺は既読スルーに徹している。すると、メッセージの内容が変化した。
ズゥちゃんは、謝罪や懺悔を繰り返した。
俺をフッたこと、響にイジメを行ったこと、それ以外にも、幼少期からの出来事――等々。俺が知らない内容まで、様々な悪事を告げて、それについて謝罪した。その中には、警察案件と思しきものも有った。しかし、それを通報する気にはなれなかった。
俺は何もしなかった。既読スルーし続けた。すると、再びメッセージの内容が変化した。
ズゥちゃんは、幼少期の頃、俺と一緒に過ごしてきた思い出を語り出した。
ズゥちゃんのメッセージを見て、俺も当時の楽しい記憶を想起した。思わず相槌を打ちたい衝動に駆られた。
しかし、俺の指は動かない。それを躊躇う理由が、俺の視界に映っていた。
〈あの頃に戻りたい〉
ズゥちゃんが思い出を語る度、この言葉が添えられる。それを見る度、俺の脳内に警鐘が鳴った。
ズゥちゃんは「やり直したい」と言っているのか?
時間を巻き戻すことは、誰にもできない。しかし、やり直すことはできるだろう。その可能性は「無い」とは言えない。
俺がズゥちゃんを選んだならば、きっと、やり直せる。そう思う。しかし、その可能性を想像すると、俺の脳内に別の女性の顔が閃いた。
今の俺には響がいる。
初めてできた俺の彼女。俺は、これからも響と一緒にいたい。そう思うからこそ、ズゥちゃんの想いに応えない。応える訳にはいかない。響を酷い目に遭わせたズゥちゃんを許す訳にはいかない。
ズゥちゃんとの関係を絶たないと。
頭では分かっている。しかし、これまで積み重ねてきた思い出が、俺に決断を躊躇わせていた。
ズゥちゃんとの付き合いは十年以上。思い出のストックは沢山有る。その事実を鑑みるほどに、関係を切るタイミングは先になりそうな予感がした。実際、今の今まで対応せずにいる。
結局、ズゥちゃんからメッセージが届くようになって一か月ほど現状維持が続いた。その事実を思う度、俺の顔に歪な苦笑が浮かぶ。
俺が自嘲しながらメッセージを見ると、そこには今までとは全く趣の異なる内容が書き込まれていた。
〈これで最後にします。今までありがとう。さようなら〉
さようなら。別れの言葉だ。それを見た瞬間、俺の胸中で爆発が起こった。得体の知れない衝動に駆られた。
俺は訳が分からないまま右手の指を動かしていた。
指が動く度、文字が綴られていく。その内容は、お礼と別れの言葉だった。
〈こちらこそありがとう。初恋でした。さようなら〉
俺は送信ボタンを押した。この行為を以て、けじめを付けたつもりだった。ズゥちゃんも分かってくれる。そう思った。
ところが、俺の想像は外れた。
メッセージを送信した直後、俺のスマホが大きく震えた。それと同時に、俺の視界に「音声通話の着信画像」が飛び込んだ。
発信者の名前は――ズゥちゃん。
応答のアイコンを押せばズゥちゃんと会話できる。俺の想いを直接伝えることができる。その可能性を想像した瞬間、俺の右手の指が動いた。
俺の指は、応答のアイコンを押さなかった。
俺は再起動のアイコンを押した。その行為に因って、強引に着信状態を解除した。これで、ズゥちゃんからの連絡を絶った。しかし、俺の指は止まらない。
スマホが立ち上がると、俺は着信履歴を表示した。そこにはズゥちゃんの番号ば
かり並んでいた。
俺は、その一つをタップして――着信拒否に設定した。
これで、ズゥちゃんから連絡が来ることは、二度と無い。もう、ズゥちゃんとかかわることは、二度と無い。
俺は自分からズゥちゃんとの縁を切った。
今の俺にとって、ズゥちゃんは過去の思い出の中の人。今の俺には響がいる。今まで引き摺っていたことが異常だった。それも、これで終わり。
「これで、良いんだ」
俺は口に出して、自分の判断を評価した。間違いは無いと確信している。それなのに俺の声は震えていた。その変調を直感した瞬間、頬に熱を覚えた。
それは「涙」だった。
俺は泣いていた。口から嗚咽が漏れている。その音が耳に入ると、脳内にズゥちゃんと過ごした思い出が走馬灯のように次々閃いた。その度に、俺の胸が熱を帯びた。当時覚えた感情が胸中に溢れ返っている。
感情の洪水が、俺の心を激しく揺らした。それに抗う気力も、その気持ちも、今の俺には無かった。
俺はスマホを握り締めながら、大声を上げて泣き続けていた。
幼馴染にフラれた後に付き合った彼女がイジメを受けているのだが。 The Bitter Memories 了。




