SECT.26 挫けぬ魂
そこからの記憶はとても曖昧だ。
眠っているような浅い覚醒状態にあるような不思議な感覚の狭間を彷徨って、時に誰かの声が聞こえたりもした。
それは聞いた事のある声だったり、初めて聞く声だったりしたけれどもう忘れてしまった。
引き取ってくれたフォーチュン家でただほとんど眠っていた。
覚えているのは、レラージュさんの暴走から10日近く経った日のこと。
初めて自分の足でベッドから降りてよろけた辺りからだった。
「大丈夫?無理しないのよ」
重症だった自分を屋敷に引き取り、ずっと付き添ってくれていたダイアナさんが心配そうな顔で見ている。
それでも、2・3歩進むうちに歩く感覚を取り戻していった。
「うん、だいじょうぶ」
これまでにもこんな事は何度もあった。
何度も何度も死線を彷徨って、その度たくさんのヒトに助けられて現世に帰ってきた。
自分はやっぱり相当幸福な星の元に生まれたらしい。ねえちゃんがつけてくれた名前――ラック、という名前の通りに。
でもこんな風に死にそうになるまで戦ったと知ったら、またねえちゃんは怒るだろうか。
それとも生きていてよかったと喜んでくれるだろうか。
数歩進んだところでまたベッドに戻り、腰掛けた。
「ねえちゃんに会いたいなあ……」
「まだ無理よ、ラック。まずは回復しなくちゃミーナ様の元には行けないわ」
そう言いながらダイアナさんは髪をといてくれた。
「漆黒星騎士団のヒトたちはどうしてるかな?」
「今も訓練所で一般志願兵の訓練に携わっているわ。ヴィッキーはよくここへ来てくれたのよ、覚えていないかしら?」
「んー……なんとなく」
「あと、可愛らしいカチューシャの女の子と小柄な男の子が来ていたわね」
「メリルとルークだ」
やっと頭が動き始めた。
コインを失くした事、探し当てた事、それからライディーンが悪魔との契約に失敗して暴走した事――
「ライディーンはどうしてる?」
「彼もこの屋敷にいるわよ。あなたと同じ、ずいぶん長い間眠っていたわ」
「……会える?」
「ええ。少しだけなら」
ダイアナさんに連れられて、自分が眠っていた部屋からすぐの扉に入った。
真っ白なシーツに包まれて、紅の髪が広がっていた。
固く閉じられた瞼は不安を誘った。
「……ライディーン」
静かに名を呼ぶと、かすかに瞼が動いた。
「ライディーン」
今度はうっすらと目を開けた。
藍色の瞳にはわずかに光が灯っていた。
「ラック」
かすれるような声が喉から絞り出された。
ベッドの傍に跪いて、藍色の瞳をじっと見つめた。
「よかった、生きてた」
心の底からほっとした。
「ごめんなラック……俺、失敗しちまったよ」
「そんなことない。ちゃんと生きてる」
契約は死の危険を伴う。悪魔に殺される者や、暴走してやむなく処分される者も多いのだという。
ライディーンはちゃんと生きてここにいる。
「……ゼデキヤ王が先ほどここにいらっしゃったんだ」
「王様が?」
「まだその気があるのなら、レメゲトンの地位は残しておく。まだその魂が挫かれないのならもう一度契約に臨むことも出来る、って言われた」
「王様はライディーンを信頼してるんだよ」
「ゼデキヤ王はすごいな。あの人の目を見ると全て見透かされた気になるよ」
ライディーンは自嘲的に微笑んだ。
「ラック、俺はまた回復したら挑戦してみる。命ある限り」
「そう」
ライディーンはやっぱり強い。一度失敗してもまた立ち上がることができる。
きっとこの数日でたくさん落ち込んで、いろんな痛みに耐えて、多くの事を考えたんだろうけれど。
最後にその結論にたどり着けるのは彼の強さだと思った。
「おれもがんばるよ。戦場にだって先に行く」
今ならアレイさんの気持ちが少し分かる。同じ位置に立てるようになるまで待っている、と言ったときの気持ち。
逃がしてやる事は簡単だ。やめろって言葉も簡単だ。
でも、ライディーンは納得しないだろう。
サンに逃げ道を与えられた自分がそうだったように。
「ありがと、ラック。命がけで……助けてくれたって聞いた」
ぽつりと呟いた言葉に笑顔で答えた。
きっと理由はそれだけでいい。
強くなれるのかとか、自分に力はあるのかとか悩むのはもうやめた。
守りたいから。強くなりたいから。
ただ、それだけでいい。
ライディーンがもう一度目を閉じたのを確認してから、部屋を後にした。
3日後には登城し、王に謁見を求めた。
王様はまた書類に囲まれた部屋で迎えてくれた。
「今回の事は大きな功績だ。破壊の悪魔レラージュを撃退し、被害を最小限に食い止めた。衛兵にも死者は出ていない。ラック、君とフォーチュン騎士団長の功績だよ」
「でも、神殿はめちゃくちゃになっちゃったよ」
「建物はまた建て替えればいい。だが、ライディーン=シンの命は何者にも代えられない」
王様はにこりと笑った。
「彼はきっとまた立ち上がり、国のために尽力してくれるだろう。今度は必ずレラージュを従えて」
「うん、そうだね」
きっとそうなるだろう。
強い心を持つ藍色の瞳の剣士は必ずまた立ち上がるだろう。
「あのね、王様。もう一つだけ言わなくちゃいけない事があるんだ」
「何かな?」
「あの、おれの中にはもしかしたらもう一人悪魔さんがいるかもしれないんだ。前からおでこが熱くなる事があって、知らない声がしたりしてたんだ」
「それは以前、ファウスト女伯爵に報告を受けている」
「うん、それでね、最近夢を見るんだ。夢だから本当かどうかは分からないんだけど、どうもそれはおれの過去らしい」
フラッシュバックの時に酷似した世界が夢の中には存在している。
「その中に、天使さんなのか悪魔さんなのか判らないヒトが出て来るんだ。銀髪で、6枚翼があって……そう、ミカエルさんにそっくりなんだよ」
闇の中に浮かぶ銀の光は柔らかく温かかった。
「夢の中でおれはそのヒトの名前を呼んだよ」
焦がれるように月に向かって、闇の中で痛みに耐えながら。
「おれと同じ名前だったんだ」
繰り返し繰り返しその名を呼んだ。
「あの悪魔さんの名前はルシファ、っていうんだ」
王様の顔色は変わらなかった。
でも、何かに耐えるように固く唇を結んでいた。
「ヴィッキーはリュシフェルって言ったよ。とても有名なヒトらしい」
「ラック」
王様はそこで割って入った。
「それはもう二度と口にしてはいけないよ。たとえファウスト女伯爵とクロウリー伯爵の前であってもだ。そして、二度とその悪魔と話してはいけない」
金の瞳が黄金の煌きを呈した。
その威圧感に思わず声を失った。
「ねえちゃんもダメなの?」
「すまない、ラック。できる事ならそれはもう忘れて欲しい」
真剣な王様の顔はとても辛そうだった。
どうしたらいいんだろう。
忘れようと思って忘れられるものではないけれど、とても思い出したくて仕方のないものではない。
フラッシュバックの嫌悪感を思い出してぶるりと体を震わせた。
「分かった、もう言わないよ」
「ありがとう、ラック」
王様は険しい顔だった。
ルシファの名はあまり聞きたいものではないらしい。
ヴィッキーは魔界を作った堕天の悪魔だと言った。
夢の中のルシファさんだろうと思われるは悪魔さんはとても優しかった。天使のミカエルさんと全く同じ姿かたちをして、同じ銀色のオーラを持っていた。
この夢は本当に過去なのか。
自分は本当にルシファさんと会ったのか。
いったい過去、自分に何が起きていたのか――
本当は知りたかったけれど、王様が言うのならこれを突き詰めていくとあんまりいい事は起こらないのだろう。
忘れよう、と思った。
でも、深い群青の瞳のとても悲しげな視線だけは忘れられそうになかった。




