堕落の霊光
深呼吸。
落ち着け、澪。
こういう展開なら、漫画で何度も見たことがある。主人公が目覚めると、邪教徒に器として利用されようとしていて、周囲には骸骨が並び、祭壇は血まみれ。
こういう時、主人公に残された結末は大抵二つだ。
死ぬか、相手を全員殺すか。
私は死にたくない。でも、喧嘩なんてできないし、する度胸だってないんだけど!?
だから、まずは状況を把握しよう。これは何の儀式なのか。こいつらは、私に何をしようとしているのか。
「……器が、動いた?」
黒いローブの集団の中から、裏返った声が漏れた。
詠唱が、半拍だけ乱れる。
いや、待て。そもそも、これは日本語じゃないはずだ。なのに、どうして私には理解できるんだ?
「あり得ない。器の魂は、まだ――」
「誰が目を覚まさせた!?」
「続けろ! 儀式を止めるな、詠唱を続けろ!」
詠唱が再開された。先ほどよりも速く、切迫した声で。まるで、何かの綻びを速度で無理やり塞ごうとしているかのようだった。
今度は、ひとつひとつの言葉がはっきりと聞き取れた。
「無瞳の眼よ、魂を盗みし主、ネル=ゼイラよ――」
「あなたの神使を捧げます。その清らかなる魂を、どうかお啜りください」
「主なき器を捧げます。その空虚なる肉体に、どうかお入りください」
「誓いよ、ここに腐り果てよ。聖なるものよ、ここに穢れよ――」
神使?
立ち上がろうとした瞬間、強烈なめまいに襲われ、私は再び膝をついた。
揺れる視界の中で、ようやく胸の奥にある熱の正体が見えた。
無数の細い白金色の光糸。十歩ほど先から、私の胸元へと伸びている。
点滴の管のようでもあり、へその緒のようでもあった。
その光糸のもう一方の端は、魔法陣の最も内側に跪く少女へと繋がっていた。
腰まで届く黒髪は、洗ったばかりのように濡れている。飾り気のない白いローブ。裸足の足首には、鉄輪で擦れたような赤い痕が残っていた。
光糸は、彼女の胸元から一本ずつ引き抜かれている。顔色は、透き通るほどに青白い。それでも彼女は両手を組み、わずかに顔を上げて、唇をかすかに動かしていた。
祈っているのだ。
黒ローブの連中とは違う。あいつらの詠唱は耳障りなのに、彼女の祈りは静かだった。まるで、深夜にひとつだけ灯る明かりに向かって、話しかけているみたいに。
「……どうか、応えてください」
かすかな声。詠唱に呑み込まれてしまいそうなほど、小さな声だった。
何の返事もない。
彼女は、ずっと待っていた。長い、長い時間。やがて睫毛がかすかに震え、すぐに伏せられた。
その姿を見て、私はふと、子供の頃に見た光景を思い出した。
すでに通話が切れている電話の受話器を握りしめ、相手からの折り返しを待ち続ける人。
『生贄』。
最初から最後まで、そう呼ばれていたのは彼女だった。
――パキッ。
かすかな音がした。限界まで張り詰めた弦が、切れるような音だった。
胸の奥で、熱を帯びていた何かが激しく震えた。光糸の一本が、空中で弾ける。細かな光の粒となって、消えていった。
続いて二本目、三本目。無数の光糸が、目に見えない何者かに一本ずつ断ち切られるようにして、彼女の胸元へと引き戻されていく。
詠唱が、ひとつ、またひとつと途切れた。
最後に残ったのは、松明がぱちぱちと燃える音だけだった。
死んだような静寂。
「……儀式が、止まった?」
「光糸が切れた! 魂が器に入っていない!」
「生贄が生きている! 神使が……神使が生きているぞ!」
「器が目を覚ました……どうして、どうしてこんなことに……」
黒ローブの集団がざわめき始めた。フードの下から、押し殺した動揺が漏れてくる。後ずさる者。よろめく者。骸骨たちが握る槍さえ、わずかに揺れていた。
少女の身体がふらりと傾き、前へ倒れ込む。彼女は両手をついて、どうにか地面に身体を支えた。
私は、他人のことに首を突っ込まない人間だ。
それが私の主義だった。人の多い場所には行かない。自分に関係のないことには関わらない。近づいてくるものは、すべてガラスの向こう側に隔てておく。
十七年間、誰も私の世界に入ってこなかったし、私も誰かの世界に踏み込もうとはしなかった。
なのに。
何かが、私と彼女を繋いでいた。引力のようなものが、私を彼女のもとへと駆り立てる。
頭で考えるより先に、脚が動いていた。
石台から転がり落ちる。膝を地面にぶつけ、目の前が真っ暗になるほどの痛みが走った。血の溝から跳ねた液体が、すねに飛び散る。べたついていて、温かかった。
それでも私は、這うようにして十歩の距離を駆け抜け、彼女が倒れる寸前に、その肩を支えた。
彼女の身体は、死体のように冷たかった。
彼女が顔を上げる。
そこにあったのは、とても静かな瞳だった。恐怖も、困惑もない。ただ、子供のような純粋な好奇心だけが宿っていた。彼女は数秒間、私を見つめた。まるで、今まで見たこともないものを観察するように。
「あなたの魂……形が、とても奇妙ですね」
……は?
「……あのさ」
私は、聞き慣れない低い声で、乾いた返事をした。
「今、それを評価するタイミング?」
彼女は首を傾げ、真剣に考え込んだ。
「わかりません」
そう答えてから、彼女はもう一度言った。
「でも、とても奇妙です」
少し間を置いて、彼女は小さな声で付け加えた。
「それと……私のものが、あなたの中にあります」
私は固まった。
「……どういう意味?」
彼女は答えなかった。ただ、ゆっくりと顔を上げ、暗闇に覆われた天井を見つめた。
「……神よ」
彼女が囁く。
「あなたは、見ていらっしゃいますか?」
返事はなかった。
彼女はしばらく静かに待っていた。そして、ごくかすかに笑った。
「……ああ」
その声は、ひどく穏やかだった。
「もう、聞こえないのですね」
その笑顔を見た途端、胸が苦しくなった。
「……震えていますね」
彼女が言った。
「……は?」
私は視線を落とした。彼女の肩を掴んでいる自分の手が、震えていた。
「静まれ」
黒ローブの集団の最前列から、枯れ葉を擦り合わせたようなしゃがれ声が響いた。
「何を慌てている」
先頭に立っていたのは、老人だった。黒いローブには小さな骨飾りが一周するように縫いつけられ、手には髪の毛がびっしりと巻きつけられた骨の杖を握っている。
「光糸が切れたということは、神使の神力が大半、抜き取られたということだ」
老人は、ゆっくりと言った。
「今のあれは、普通の人間より少し長く息ができるだけの抜け殻にすぎん」
そして、私へと視線を向ける。
「器が目覚めたところで、問題はない。儀式が中断されたのなら、残りの手順は我々の手で補えばいい」
老人は、そこで一度言葉を切った。
「まず神使を殺し、残った魂を直接、器に注ぎ込む。それから儀式を続ける」
ざわめきが収まっていく。黒ローブの人々は、一人、また一人と頭を下げた。
「……仰せのままに」
老人が骨の杖を掲げる。
「冒涜の名のもとに――」
私には、その声が聞こえていた。けれど、振り返ることはなかった。
「万の亡魂よ、闇の底より目を覚ませ……」
その言葉は、水に落ちた石のように、私の意識の中へ沈んでこなかった。なぜなのか、自分でもわからない。私の視線は、ただ彼女の顔に釘付けになっていた。
「……ごめんなさい、異界の旅人」
彼女が、涙を浮かべた瞳で私を見つめる。
「あなたの命まで、私が暗闇に巻き込んでしまいました」
間違いなく、私の人生で数えるほどしかない、どう答えればいいのかわからない瞬間だった。
この時、心の奥底で、何かが共鳴しているような気がした。
心臓? それとも……魂?
いや、待て。私は一体、何を考えているんだ?
「空虚なる口を開き、語られなかった悲鳴を吐き出せ……」
頭上の光が、少しずつ暗くなっていく。
何か細かな音が聞こえ始めた。無数の歯が、暗闇の中でかちかちと触れ合うような音。それがひとつ、またひとつと増えていき、私たちの頭上へと集まっていく。
それでも、彼女は私を見つめていた。
私もまた、彼女を見つめていた。
「網となれ、霊光となれ。聖なるものを僭称するすべてを、あなたの深淵へと引きずり込め――」
「七階魔法――『堕落の霊光』」
カチッ。
その瞬間、私はようやく顔を上げた。
石台の上方、暗闇の中に、いつの間にか半透明の骸骨の頭が浮かんでいた。数百、いや、千を超えるほどの数。それらが密集し、逆さに吊るされた網のように、祭壇全体を覆い尽くしている。
空洞の口が、ひとつずつ、ゆっくりと開いていく。喉の奥では、陰惨な緑色の光が渦巻いていた。
そのすべてが、私たちに狙いを定めていた。
考える暇などなかった。
身体が、先に動いた。
不気味な緑の光が、一斉に降り注ぐ。
私は彼女を抱き寄せ、その身体を胸の中に押し込んだ。
そして、自分の背中を、降り注ぐ光の前へと差し出した。




