死から目覚めた私
朝のラッシュ時の電車。人と人が押し合い、汗も香水も誰かの朝食も、ごちゃ混ぜの匂いになって押し寄せてくる。
私はイヤホンを耳に差し込み、指先で画面をひと撫でする。
それだけで、世界との間に一枚のガラスが挟まる。
私は別に、孤独を好む人間というわけじゃない。
クラスでの人間関係は、むしろ良好なほうだった。話しかけられれば普通に返すし、会話だってそれなりに弾む。
ただ、面倒くさいのだ。
人の多い場所で誰かと話すのは、一曲丸ごと演奏し終えるよりも体力を使う。私の社交エネルギーは、たぶん一日に一目盛りしかない。
そして、その一目盛りは、すべてバンドのために取ってある。
放課後の古びた音楽室。
ギター、ドラム、キーボード。それに私が適当にベースを弾き加える。
誰にも気を遣わなくていい。余計な言葉もいらない。
イヤホンなしでもうるさいと思わない時間は、一日の中でそこだけだった。
短髪に、左耳のピアスが二つ。
中学の頃は髪を伸ばしていたし、男子に告白されたこともある。全員、断った。
見た目を変えれば少しは静かになるんじゃないかと思って、髪を切り、ピアスを開けた。
目論見どおり、男子は寄ってこなくなった。
代わりに、後輩や同じクラスの女子から、ラブレターやお菓子を渡されるようになった。
……いや、これは予想してなかった。
まあ、別にいい。
漫画も小説も映画も、それなりにたくさん見てきた。おかげで、すっかり理想が高くなってしまったらしい。
私は十分、楽しく生きていた。
ただ、まだ誰も、本当の意味で私の世界に入ってきたことがない。
それだけの話だ。
十月最後の金曜日、夕方。
学園祭前、最後の練習。
トリを飾る曲を通して演奏したけれど、最後のサビの締めだけ、どうしても全員のタイミングが合わなかった。
「続きは来週、詰めようぜ」
「うん。来週こそ、絶対に合わせよう」
私はそう答えた。
校門を出る頃には、雲が低く垂れ込めていた。誰かが汚れた雑巾で空を拭いたような色だった。
イヤホンをつけ、駅へ向かって歩道橋を渡る。
歩道橋のちょうど真ん中まで来た、その時だった。
視界の端で、白い光が閃いた。
イヤホンからは、まだ私たちが録音した曲が流れていた。
そして、すべてが途切れた。
まるで誰かがハサミで、フィルムを一瞬にして切り落としたみたいに。
そのまま、私は暗闇へと落ちていった。
目を覚ましたのは、何かの音に叩き起こされたからだった。
低く、しゃがれた、ねっとりとした声。
何層にも重なったそれが耳の奥へと押し寄せてくる。まるで何百、何千匹もの虫が、一斉に鼓膜の上を這い回っているみたいだった。
誰かが何かを唱えている。
大勢の人間が。
同じリズムで、同じ音程で、ひとつの言葉から次の言葉へと、抑揚もなく繰り返している。
……うるさい。
目を開ける前に浮かんだのは、それだけだった。
次に、匂いがした。
鉄錆の匂い。
甘ったるさを感じるほど濃いその匂いの下に、さらに深い腐臭がこびりついている。
腐った肉に、香草でも振りかけて誤魔化したような匂いだ。
気持ち悪い。
私は目を開けた。
石。
黒い石を積み上げて造られた、巨大な空間だった。
天井は高すぎて、その頂上が見えない。何十本もの太い石柱が、まるで骨のように暗闇を支えている。
壁に掛けられた松明は、陰惨な緑色の光を放っていた。
床には溝が縦横に刻まれている。
暗赤色の液体が、その溝をゆっくりと流れ、私が横たわっている石台へと集まっていた。私の周囲には、幾重もの魔法陣が描かれている。
背中に触れている石は、濡れていた。
べたついていた。
それが何なのか、私は考えないことにした。
石柱の間の壁には、小さな壁龕がいくつも埋め込まれていた。
そのひとつひとつに、頭蓋骨が置かれている。
中には、干からびて黒ずんだ皮膚がまだこびりついているものもあった。どれも口を大きく開いていて、まるで死ぬ間際まで何かを叫んでいたみたいだった。
壁際には、何かが積み上げられていた。
整然と。
白い布が掛けられているが、その端からは暗い色の染みが滲み出している。
私はそこから目を逸らした。
魔法陣の外側には、黒いローブをまとった人々が輪を作って立っていた。
フードは深く被られ、顔は見えない。ただ、口だけが一斉に開閉している。
胸元には、全員同じ紋章が刺繍されていた。
欠けた月の上に、瞳のない巨大な目が開いている。
そのさらに外側には、骸骨が一列に並んでいた。
小道具なんかじゃない。
骸骨たちは錆びた槍を握り、微動だにせず立っている。眼窩の奥では、青白い炎が揺らめいていた。
そのうちの一体が、かすかに下顎を震わせた。
カチッ。
私の脳は、三秒間、完全に空白になった。
無意識に手が持ち上がり、左耳へと伸びていく。
イヤホンを探そうとしたのだ。
指先に触れたのは、見覚えのない、冷たい耳の輪郭だった。
ピアスもない。
イヤホンもない。
何もない。
……ない。
その瞬間、私は初めて、本当の恐怖を感じた。
視線を落とす。
石台についている手は、細長く、青白く、骨ばっていた。
爪は不自然なほど整っていて、生きた人間のものとは思えない。
私の手じゃない。
さらに下を見る。
そこには、平らな胸板があった。
私はそれを、長い間、ただ見つめていた。
そして、その胸の奥で、何かが熱を帯びている。
肩から長い髪が滑り落ちた。
白い。
月光のように白い髪が、腰のあたりまで長く垂れている。毛先は石台の縁に溜まった血の中に浸かり、少しずつ赤く染まっていた。
私は身体を起こした。
石台の傍らには、石でできた鉢が置かれている。中には、暗赤色の液体がなみなみと満ちていた。
私は恐る恐る顔を近づけた。
血の水面に、顔が映った。
血の気のないほど白い肌。
額に乱れて垂れかかる白髪。
まるで刃物で削り出したかのように鋭い眉骨と鼻筋。
そして、熟れたザクロの種のような、宝石めいた深紅の瞳。
緑色の火明かりの中で、その瞳がかすかに輝いていた。
そこに映っていたのは、現実離れするほど美しい男だった。
学校にいる「ちょっとイケメン」なんてレベルじゃない。
これまで見てきた漫画の主人公も、ゲームに登場する悪役貴族も、深夜に何度も聴き返したアルバムのジャケットも。
それらの中から一番美しい部分だけを選び出し、さらにもう一段階、上へと引き上げたような顔だった。
私の審美眼には、それなりに自信がある。
……そして今、その顔は私のものだった。
……私、男になったのか?
深紅の瞳と目が合った瞬間、不思議なことに、その問題はそれほど重要ではないように思えた。
私は口を開き、これが幻覚ではないことを確かめようとした。
舌先が上顎に触れた時、何かに引っかかった。
かすかな痛み。
口の中に、薄い血の味が広がった。
もう一度、舌先で確かめてみる。
二本の犬歯が、異様に尖っていた。
普通の歯よりも、明らかに長い。
……吸血鬼?
ちょっと似ているとか、そういう話じゃない。
漫画なら間違いなく、「高貴なる血統を受け継ぐ夜の種族」とかいう説明がつくタイプの吸血鬼だ。
こんな状況で、よくもまあ、そんなことを考えられるものだ。
だが、次の瞬間、私の笑みは凍りついた。
ずっと吐き気を催していた、あの鉄錆の匂い。
それがいつの間にか、以前ほど不快ではなくなっていたのだ。
それどころか……少し、いい匂いにさえ感じる。
喉が締めつけられる。
胃の奥で、何かがかすかに動いた。
飢えるように。
私は咄嗟に口を押さえた。
違う。
違う、違う。
私は人間だ。
十七歳の高校生だ。
ステーキだって、必ず中まで火を通してもらうくらいなのに――。
私は歯を食いしばり、その飢えを無理やり押さえ込もうとした。
尖った犬歯が下唇に食い込む。
新鮮な血の味が、再び口の中に広がった。
……この身体は、血を求めている。
骸骨よりも。
死体よりも。
周囲を取り囲む邪教徒たちよりも。
それが、何より恐ろしかった。
この身体は、私に告げているのだ。
怪物じみた世界に迷い込んだんじゃない。
私自身が、すでに怪物の一部になってしまったのだと。




