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白苑後宮の薬膳女官  作者: 絹乃
一章

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8/11

8、雨の夕暮れ

 大麦の粥が炊き上がり、熱い土鍋を布で包む。こうすれば粥はさらに冷めにくい。炒めた野菜と鴨肉の皿には、布巾をふわりと載せた。


「さて、もう一度奥の宮に行かないと。紅梅さまは、決明子でちゃんとうがいをなさっているかなぁ」


 尚食局の廊下を進み、外に出るとひんやりとした風が瑞雪の肌を撫でた。

 見上げると、空には厚い雲がかかっている。土や苔の匂いを強く感じた。


「雨が降る前に急がないと」


 土鍋や皿の載った盆を片手で持ちながら、傘をさすことはできない。

 自分は濡れても構わないが、せっかくの金針菜や鴨の炒め物が水浸しになっては困る。

 ほとんど走るような速さで瑞雪は進んだ。湿気がひどくて髪を重く感じる。裙も足にまとわりついて歩きにくい。


 ぽつり、とひたいに雨のしずくが落ちてきた。


「待って、待って。降るのはもうちょっと待って」


 洗濯を終えた桶を抱えた宮女たちが「雨よ!」と悲鳴に似た声を上げながら走っている。

 雨は急に本降りになった。このままでは料理が台無しになってしまう。一度尚食局に戻って、蓋のついた鍋に炒め物を移し替えた方がいいだろう。


 瑞雪が踵を返したその時、雨が止んだ。

 いや、違う。瑞雪の周囲だけ雨がかからないのだ。

 見上げると、油紙傘ユージーサンが差しかけられていた。竹と桐油とうゆを塗った紙で作られた傘を持っているのは、厳星宇ヤンシンユィだ。


「あ、ありがとうございます」


 こくりと星宇がうなずいた。


「また後宮にいらしたんですか? えっと陛下から何かお達しでも?」

「そういうわけではない」


 相変わらずの無表情で星宇が答える。とはいえ、傘を差してくれるのはありがたい……けれど。


「すみません、尚食局まで送ってもらっていいですか?」

元紅梅ユエンホンメイさまに料理を届けるのではないのか? 行くのは奥の宮であろう?」

「奥の宮は遠いですから。料理に蓋をして、それから届けます。雨はすぐに止みそうにもないですし」


 瑞雪の返答に、星宇は眉根を寄せる。


「それでは君が濡れてしまうだろう。奥の宮まで送っていこう」

「遠いですから、悪いです」


 昼食を運ぶ時は皇帝に呼ばれているという事情があったから、星宇は瑞雪について来たのだが。今は送ってもらう理由がない。それに星宇は、奥の宮に転がっていた倒木を怖がっていた。

 またあの道を通ることになるのだけれど。

 星宇は引くつもりはなさそうだ。結局、一つの傘の下で並んで歩くこととなった。


「なぜそんなに遠慮をするのだ」

「遠慮というか。後宮では信じられるのは一桐イートンさま……えっと尚食さまだけですから。誰かに借りを作るのが嫌という以前に、わたしが頼っては相手が嫌がります」


 食堂の女官のように、薬命司であることを気にしない人もいるけれど。それでも友人になれるわけではない。

 もし瑞雪が食堂で親しげに話しかけたり、世間話でもしようものなら、女官たちは瑞雪を避けるだろう。料理のこと以外の話をしたことがないのだから。


 傘を叩く雨の音は激しくなる。植えられている木々の葉が、強い雨に叩かれていた。


「元紅梅さまはどうなのだ? 顔を合わせる機会は多かろう?」


 星宇の問いに瑞雪は苦笑した。


「なぜ笑う」

「いえ、紅梅さまに頼ることはできません。紅梅さまは先帝の嬪でいらしたお方です。品階は存じ上げませんが、奥の宮に留まっておられるのです。それなりの位であったと思われますから」


 今は隠居生活を送る紅梅であるが、現役の頃であれば侍女の取り次ぎがないと瑞雪は紅梅と対面することもできなかっただろう。


「まぁ、そんなものですよ。わたしは薬命司の地位が向上すればいいだけですから。寂しくても平気です」

「……やはり寂しいのか」


 ぽつりとこぼした星宇の声は小さくて、雨音に紛れてしまった。

 帰ってきた言葉が聞き取れず、瑞雪は隣に立つ星宇を見上げた。料理を守るのが第一とはいえ、星宇は瑞雪の方に傘を傾けている。時折、左肩にかかる雨を左手でやりにくそうに払っている。


 皇帝である文護ウェンフーからの言伝があるわけでもなく、雨が降るからと油紙傘ユージーサンを用意してわざわざ白苑後宮はくえんこうきゅうに出向いてくれたのだろうか。

 瑞雪が夕方も奥の宮に行くと知っていての行動なのだろうか。


(いやいや、それはあまりにも都合が良すぎる考えでしょ) 


 皇帝の文護が雨に濡れてはいけないが、薬命司が雨に濡れても星宇が困ることなど何もない。


(でも、優しい人なんだ)


 今日知り合ったばかりで、人柄を判断するのは尚早だが。たとえ気まぐれであったとしても、星宇のおかげで料理を守ることができた。

 ぽつり、と奥の宮の軒に明かりが灯される。こんな後宮の果てにまで司燈しとうの女官がやって来て、吊り灯籠に火を入れているのだろう。


「大変。雨漏りがしてきたわ。雨を受ける器はないかしら」と、紅梅の声が聞こえる。


 雨に滲んだ明かりを目指して進む自分が、まるで魚のようだと瑞雪には思えた。


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