7、後宮の飛仙
「えっと元紅梅さまの口内炎は決明子で治るだろうし。あと気になっていらっしゃる症状は、夏でも手足が冷えて肌が乾燥する。頭痛がひどく、肩と首も痛い……と」
司薬司の部屋に戻った瑞雪は、紙にしたためてある紅梅の症状を確認した。
立ったまま元紅梅の症状を書き留めた紙を確認している時、瑞雪の足首の辺りをぬるりと撫でるものがあった。
「えっ、うわっ。何?」
慌てて机の下を覗きこむと、長いものがゆらりと動いた。
「尻尾?」
「にゃ……にゃあ」
ためらいがちな鳴き声が聞こえた。子猫のようだ。
「なーんだ、猫か。そうよね、ネズミを退治してくれるから白苑後宮では猫は大事にされてるもんね。もしかしてミル貝の匂いがついていたかな」
瑞雪は自分の袖の匂いを嗅いだ。そもそも料理の時は袖に布を巻いて汚れがつかないようにするので、よく分からない。
「おいで、猫ちゃん。外に出ようね」
しゃがんだ瑞雪が子猫に手を差し伸べる。けれど警戒心が強い猫のことだ、犬のように簡単に近寄っては来ない。
「な、なぁぁ」
あとちょっとで猫の前脚に触れることができるのに、どうしても届かない。
「お前、まるで天雷みたいに警戒心が強いね」
懐かしくなり瑞雪はふふ、と微笑んだ。
瑞雪が小さい頃、璠の実家で飼っていた飛仙の名前は「天雷」。
飛仙は地精である。だがその見た目が愛らしいモモンガであり、さらに毛皮が絹のような手触りであることから法外な値段で取引きされることもある。
若き職人が飛仙もモモンガも構わず狩りまくり、その緻密で薄い毛皮を完璧に縫い合わせて妃へ献上したことがある。その職人は後に岷国でも有名な大店を構えるほどになった。
数も少ない貴重な飛仙、さらに天雷の被毛は光に当たれば銀の光を散らすかのような美しさだ。
無理はあると分かっているが、天雷が飛仙とばれてはならない。
飼い主である瑞雪はおろか、兄も叔母の欣然も何なら両親までが『これは子猫です』『しかも足も短いんです』『猫っぽくないって欠点を指摘するなんて、うちの天雷が可哀想』と言い張った。
むしろネズミの方が似ているのかもしれないが、生薬を売っている店にネズミはご法度。客もネズミは嫌がるはずだ。
客が『いやいや、絶対に飛仙だって。それも白銀ってすごいだろ』と指摘すれば『ほら、天雷。鳴いてごらん』と家族の誰もが促した。
きっと家族は誰もが鬼気迫る顔で、小さな天雷に迫っていたに違いない。
飛仙の鳴き声は甘えているときは「チチチッ」喜んでいるときは「キュキュキュ」であり、「にゃあ」はどう考えても無理がある、と今なら突っ込むのだが。
当時は愛らしい天雷を守るのに家族全員、精一杯。賢い天雷も頑張って期待に応えてくれた。
毎日毎夜、猫のふりをして鳴く練習は続いた。何しろ天雷の毛皮は美しいし、そのくりっとした瞳は眺めている人間が蕩けてしまいそうなほどだ。捕まることなど決してあってはならない。
幼い瑞雪は床にしゃがみ、天雷と顔を寄せて「にゃあ、にゃあ」と繰り返していた。
練習こそが天雷の命を繋ぐ。特訓あるのみ。
『ほら、「にゃあ」だよ? おくちをあけて』
『チチ……ニャ』
天雷はひたいにしわを寄せて、苦しそうに声を絞り出す。けれどなかなかうまくいかずに、尻尾をぱたぱたと気忙しそうに振る。
『うんうん、だいぶ「にゃあ」になったよ』
瑞雪が褒めると、天雷は黒水晶のような瞳をぱちっと開いた。
『すごいね、えらいねティエンレイ。ルイシュエのいうことがわかるんだね』
頭を撫でてあげると、天雷は気持ちよさそうに目を細める。
今にして思えば、無茶苦茶な特訓に音を上げずについてきた天雷はえらい。見上げた根性の塊だ。
思い出に浸っていると、いつの間にか机の下に潜んでいた子猫が消えた。
廊下につながる扉が開いていたから逃げたのかもしれない。
「あの子、本当に天雷だったらいいのに」
かつて当たり前のように撫でていた、天雷の絹のような手触りは今も指に残っている。
余韻に浸っていたいけれど、そろそろ紅梅の夕食を作らなければならない。
「元紅梅さまは瘀血の体質だったわね」
問診をした時、元紅梅は目の下に隈がありシミも目立った。かつてのように濃い化粧をしていないので、本人は頰に浮かぶシミをとても気にしていた。
「瘀血なら、冬瓜や豆腐は控えた方がいいわね」
まだ季節には早いが、西瓜や秋の梨、林檎もとらない方がいい。血の巡りの悪い瘀血は、女性がなりがちである。
「韮と金針菜、それから木耳を使おうかしら」
食材を入れている籠を覗きこみ、瑞雪は献立を考える。
まずは血を巡らせる食材を選ぶこと。そして依頼主の好みに合うように仕上げることが重要だ。口内炎を治すための大麦の粥も追加しよう。
「それにしても皇后候補のお嬢さんの養生かぁ。責任重大だなぁ」
口覆いの布を垂らすように後頭部で結びながら、瑞雪は呟いた。
前掛けである圍裙も身に着けて、サイカチの実を泡立てて手を洗う。それから甕から柄杓ですくった水で、野菜を洗った。
「陛下の昼食が樟茶鴨だから、今日は鴨肉があるはず」
水辺に棲む鴨は利水作用がある上に、赤身の肉なので血も補ってくれる。
食材の仕入れなどの管理は尚食である斉一桐の仕事だ。一桐は同じ食材をまとめて大量に購入することで、仕入れ値を安く抑えている。
以前は光禄寺に属する宦官が食材を調達していたが、今は尚食局に一任されている。それほどに先帝に重宝された、尚食である一桐の存在は大きい。
ひんやりとした食材の保管庫に行くと、確かに鴨肉が残っていた。それと必要な野菜を揃えて籠に入れて部屋へ戻る。
「鴨と韮、金針菜と木耳を炒めて。あとは大麦のお粥は、昼食とは趣を変えて姜黄で炊こうかな」
金針菜は本萱草という花のつぼみだ。つぼみなのに、菜という名前なのが不思議だけれど。生薬にしては苦くなく、ほんのりと甘みがある。
姜黄はウコンともいう濃い橙色の生姜の仲間で、産地は南方だ。薬命司の部屋には、こうした生薬が保管されている。
かつては瑞雪の実家が、白苑後宮に生薬を提供していたのだが。叔母が罪人となってからは取引を中止されている。
「うちの薬舗の方が、生薬は品質がいいんだけど」
薬命司の厨房に入り、大麦と少量のうるち米を研いで浸水させている間に姜黄を擦りおろす。それから野菜だ。ザクザクと小気味いい音を立てながら、包丁を動かして食材を切っていく。
調理法を確認せずに薬膳を作れるのは、叔母である欣然の教えがあってのことだ。他の部署は調理担当の厨師の女官も多いが、司薬司の部門で薬膳の調理をするのは瑞雪ただ一人。
たとえ尚食の一桐が厨師をつけると言ってくれても、誰も薬命司の元で働きたくなどない。
黙々と韮を切ると、濃く強い匂いが立った。韮は猫には毒なので、あの猫が出て行ってくれてよかったかもしれない。
「毒……か。叔母さまが侍女に毒を盛るなんて、やっぱりあり得ないわ」
実際に薬命司として働き始めたからこそ瑞雪には分かる。どうにもならない不調を抱えて日々を過ごすのはつらい。医者には病気ではないと診断されても、それで体調が改善するわけでもない。
だからこそ人は生薬や薬膳料理に頼るし、その信頼を裏切ってはならない。
そう教えてくれたのは欣然であった。
粥は温かいうちがいいので、夕方に奥の宮に運ぶ前に火を入れよう。炒め物は、どのみち奥の宮に運んでいる間に冷めてしまうのでしかたがない。
「さてと、野菜と鴨肉も炒めておかなくちゃ」
料理は同時に複数の工程をこなさなければならない。油を敷いた鍋に韮と金針菜と木耳を入れて強火で炒める
陛下に出す料理であれば、それぞれの具材を炒める前に油通しをすることだろう。大量の熱した油にさっと入れることで、食材は色が鮮やかなままで歯触りもよくなる。
しかし調理の手が足りない瑞雪は、油の後片付けが大変な油通しまでする余裕はない。
火の通った野菜を皿に取りだし、次に鴨肉を炒める。別々に炒めることで、水っぽくならずに仕上がるからだ。
薬膳料理だからこそ美味しく、最後まで食べきってもらいたい。
「ああ、いい匂い」
鴨肉の皮の部分が加熱され、脂が溶けだしてくる。そこに酒と甘めのしょうゆを加えると、じゅっと音がして鍋から香ばしい匂いが立ちのぼる。煙ですらおいしそうだ。




