5、気丈でなければならない理由
白苑後宮に戻った瑞雪は、ふと空気が内廷とあまり変わらぬことに気づいた。
後宮暮らしが長かった叔母から聞いた話では、後宮内には常に濃密な空気が満ちていたという。妃嬪たちが化粧に使う脂粉の匂い、貴重な香も焚かれ、髪を結うのに用いる鬢付け油も甘い香りがしていたらしい。
今の後宮は入宮している妃嬪がいないので、化粧や香の匂いはあまり感じない。
「叔母さま。わたし、頑張るからね」
翡翠の佩玉を、瑞雪はぎゅっと握りしめた。
叔母にかけられた冤罪のせいで、瑞雪は本名の「璠」の姓を名乗ることすらできない。薬命司であるというだけで忌み嫌われ、奥の宮でひっそりと暮らす元紅梅以外は瑞雪を見ると眉を顰める。そんな劣悪な環境だったから、ほんの一時辰ほど前には想像もしていなかったことが起こっている。
瑞雪の裙を初夏の風が軽やかに撫で、木々の浅緑の葉から光がこぼれ落ちているが。今はそんな風景に目を留める余裕はなかった。
近いうちに京師である伊河の南邸を訪れて、葉青の体調を確認しなければ。
「夏瑞雪。仕事を放ったらかしにして、どこで遊んでいたの!」
尚食局に戻った瑞雪に、ぴしりと厳しい声が投げつけられた。
(うっ。また孫時宜さんだ。まずいな、これは)
瑞雪は慌てて懐の中に佩玉を隠す。孫時宜は同じ尚食局に勤める女官だ。といっても時宜は掌膳という皇帝の料理の管理担当なので、薬命司である瑞雪とは管轄が違う。
違うのだが、とにかくすべてに目を配らせて、すべてを知っておかないと気が済まない性質だ。
元紅梅の養生のため、尚食局を空けることの多い瑞雪の動向をすぐに探ろうとする。
「薬命司って名前だけは大層だけど、要は気楽な薬膳でしょ。でも、あなたは司薬司でもあるのよ。常に持ち場を離れずに、生薬を管理しなさい」
無茶言わないでよ、と喉まで出かかった言葉を瑞雪はぐっと呑み込む。
時宜は瑞雪より品階が上かもしれないが、薬膳に関しては部外者だ。体調不良を訴える人の顔色や表情、実際の症状を目にすることもなく、ただ薬膳を作れと命じている。
「それとも見張りでもつけましょうか? あなたじゃ不安だし、毒になる薬もあるんでしょう?」
何それ。瑞雪の頭の奥がかっと熱を持った。嫌がらせは慣れているけれど、薬命司を愚弄されるのは許せない。
(いや、我慢、我慢よ。わたし)
だが言い返さない瑞雪を相手に、時宜はさらに調子に乗る。
「前の璠とかいった薬命司だったかしら。あの人でなしみたいに、あんたも毒を盛るかもしれないものね」
胸の前で腕を組んで、時宜は顎を上げた。無論、瑞雪を見下すためだ。
「被害者が侍女だったから、死ななかったから。だからあの薬命司は死罪にならなかっただけよ。今は妃嬪がいなくてよかったわぁ。もし誰か入宮なさっていたら、きっと狙われるものね」
瑞雪の頭の奥の熱が弾けた。奥歯を食いしばり、こぶしを握りしめ、瑞雪は歩を進める。
「な、なによ」
怯んだ時宜が一歩下がった。
「自分の部下を虐めては問題が起こるから、掌膳ではないわたしを貶めるんですね」
それは問いではなく確認だった。瑞雪はさらに畳みかける。
「わたしを攻撃しやすいんですよね? だってわたしが泣いても落ち込んでも、掌膳の仕事にはこれっぽちも影響がないんですから」
我慢に我慢を重ねたけれど、もはや限界。時宜は言いやすい相手を選んで、八つ当たりをしている。
そして決して聞き逃せない暴言を吐いてしまった。薬命司ならば何をしてもいいと思い上がっている。あの足を引っ掛けてきた女官のように。
瑞雪がどこまでも前進するから、時宜は尚食局の壁まで後退せざるを得なかった。
身長は瑞雪の方が高いし、薬草畑を耕しているので腕力には自信がある。
ドンッ! と瑞雪は木の壁を叩いた。ちょうど時宜の顔の横に当たる位置だ。
「ひっ」
時宜の表情はこわばり、黒目がみっともなく泳いでいる。
「掌膳こそ大変ですよねぇ。手が滑って、陛下の食事に何が入るか分からないんですから。ああ、その為に毒見がいるんでしたっけ」
ねっとりとした口調で、瑞雪は囁いた。
温厚でいたいのに、おとなしくしていたいのに。気丈にならねば生きていけないほど、周囲の環境が劣悪すぎる。
「わ、私が、陛下に毒を盛るとでも? あんた失礼よ」
「わたしに暴言を吐くのは大丈夫で、自分が言われるのはダメなんですか?」
あまりにもまっとうな意見に、時宜はぐっと喉を鳴らした。悔しさにその顔色は赤くなっている。
瑞雪は壁から手を離し、手の側面についた汚れを払った。
今日はよく絡まれるのは、やはり目立つ星宇と共に行動していたからかもしれない。絶対に皇后候補のことは内緒にしておかないと。
瑞雪は尚食局の建物の中へと入った。
妃嬪が暮らす宮と違い、女官が仕事をする六局の建物の柱は茶色いままで赤く塗られてはいない。
日中ということもあり廊下の明かりは灯されておらず、辺りは薄暗い。尚食局の扉は開いたままで、四角く切りとられた白い光の中で時宜が地面にへたり込んだ。




