4、幼帝、文護
幼い皇帝の勅命を受けた瑞雪は、奔流となった感情を押し殺すのが精一杯だった。
まだ瑞雪が幼い頃。白苑後宮で薬命司として働いていた叔母の璠欣然は、侍女に毒を盛った罪で笞打たれた。その傷は深く、後宮を追われて長らく実家で寝込んでいた。
ようやく起き上がれるようになった叔母を待っていたのは、国外追放の罰だ。
しかも死を運ぶ虫がいるという南方。北方にある岷国からは遥かに遠い。……そんなの生きて帰れるはずがない。
『違う、私はやっていないわ。毒なんて盛るはずがない、生薬だって必要以上に使ってはいない』
まっすぐに立つことすらも難しい叔母は、何度も司法をつかさどる大理寺に訴えた。だが却下された。
下品といわれる薬草は、量を誤れば毒になる。叔母はあえて下品を侍女に食べさせて、暗殺を企てた。その訴えがあったのだと。
叔母には極刑が下された。だが、親友である一桐が減刑を願い出たのだ。一桐は優秀で尚食としての出世が速く、かろうじて叔母は命拾いをした。
流す涙すらとうに枯れ、虚ろな瞳のままで国を追われた叔母、璠欣然の姿が蘇る。
瑞雪は不名誉な事件を起こした叔母と同じ「璠」の姓を使うことすらできずにいる。
岷国を追放となるその日の朝。叔母の手が薬草のアクで茶色く汚れていたのを、瑞雪は覚えている。
笞打ちのせいで熱が引かずとも、叔母は薬草畑の様子を見に行っていた。雑草を抜き、薬草を摘んで乾かし、木の実の種子を分別する。
白苑後宮からは追い出されても、生薬を必要とする誰かのため。欣然はいつでも、どこでも、いつまでも薬命司であった。
『可愛い阿雪。どうか薬命司の名誉を取り戻してちょうだい』
瑞雪を愛称で呼びながら、叔母は薬草の束を瑞雪に手渡した。
『アーシュエがめいよをとりもどしたら、おばさまはかえってこられる?』
叔母にしがみつく小さな瑞雪は、その返事を聞くことはできなかった。降る雪の中に去っていく叔母の背中を追って、瑞雪は走った。
瑞雪が走って転んだ時、叔母は立ち止まった。けれどいつものように駆け寄って『大丈夫? 阿雪』と助け起こしてはくれなかった。
伸ばしかけた手を下ろし、唇を噛みしめて、叔母は瑞雪に背を向けたのだ。
地面は雪の白で覆われ、瑞雪の握りしめたこぶしも頬もすぐに冷え切った。
『いやだ、おばさま。いやだよぉ』
涙で滲んだ視界のどこにも、もう欣然の姿はない。
ようやく立ち上がった瑞雪を慰めるように、飛仙が寄り添った。
今も瑞雪の心の傷は癒えていない。叔母に続いて、可愛がっていた飛仙までも姿を消したのだから。
あの日から、瑞雪の心はぱっくりと傷口が開いたままだ。後宮での嫌がらせも、叔母や飛仙が消えた時の絶望を思えば大したことじゃない。
存在するだけで女官や宮女たちに睨まれても、同じ尚食局の孫時宜に馬鹿にされても、どうでもいいことだった。
この時のために、自分はのらりくらりと批判を躱して白苑後宮に居続けたのだ。
瑞雪の目は鋭い光を帯びた。
「おもてをあげよ」
文護が瑞雪に命じる。
だが渦巻く感情に飲み込まれそうな瑞雪は、すぐに反応できなかった。
「あの……かおを上げてください。ルイシュエさん」
か細い声が、小雨のように降ってきた。
いけない。陛下の御前だった。瑞雪ははじかれたように顔を上げた。見れば、目の前に文護がしゃがむのが見えた。
「陛下っ! あなた皇帝ですよ!」
突然の事態に、瑞雪は大声を上げてしまった。もしあの侍女が近くにいたら、飛んできて大変なことになるだろう。勿論、瑞雪の身が。
「陛下。お立ちください」
それまで静かに控えていた星宇が、文護に手を差し伸べる。護衛の助けを借りて、文護は立ち上がった。その錦袍の裾を星宇は軽く払ってあげる。
侍衛親軍の武官とは思えないしぐさだ。文護は「えへっ」と照れ笑いしながら、星宇を見上げた。明らかに侍女よりも、星宇に文護は心を開いているようだ。
「ありがとう、ルイシュエさん。ぼくのおねがいをきいてくれて」
素直な感謝の言葉に瑞雪は頰が緩んだが、星宇は眉をひそめた。
「陛下、即位なさって如何ほど経ちますか」
主に問いかける星宇の声は地の底から響いているのではというほどに低い。文護はびっくりしたのか、瑞雪の背後に隠れた。
「一年です」
「そうです。亡き先帝がご覧になれば、今の陛下のお姿をどうお思いでしょうか」
「……たぶん、あたまをかかえます」
「そうですね」
星宇は、分かっておいでではないですかという風に肩をすくめた。
「あと『はぁー、まったくおまえは』とおっしゃいます。それからおせっきょうされます。それで……」
瑞雪の袖を掴む小さな手に、ぎゅっと力がこもる。
「おこられてもいいから、おとうさまにあいたいなぁ」
文護の願いは、瑞雪の衣に吸収されてくぐもって聞こえた。
ああ、そうだ。幼い陛下の心の傷が癒えることなどない。たとえ皇帝の座に就こうとも、陛下はまだ父を亡くして間もない子供なのだ。
寂しさの中に閉じこもることも、嘆くことも許されぬ立場なのだ。
「お気持ちは、よく分かります」
これまで纏っていた氷雪に似た硬い雰囲気が、星宇から失せた。その目も言葉も柔らかい。まるで星宇自身、大切な誰かを見送ったことがあるようだ。
もし皇帝と護衛という間柄でなければ、星宇は文護を甘えさせてあげたいのかもしれない。
「恐れながら陛下。先ほどの皇后候補のお嬢さまのお話を伺ってもよろしいですか?」
瑞雪は文護に声をかけた。
「うん、おねがいしたいのはナン・イェチンって子です。イェチンはなんでもしってて、ぼく、すごくたすけてもらったから。でもイェチンはからだがよわくて、このままじゃこうごうになれないって。ううん、おとなにもなれないかもっていわれてて」
南葉青。貴族の南家の令嬢だろう。
「葉青さまはご病気でいらっしゃるのですか?」と瑞雪は問う。
病気なら薬命司よりも医者が適任だが。皇后候補ともなれば、すでに医者に診てもらっているだろう。
「びょうきじゃないって、ききました。でもイェチンはよわくてつかれやすくて、ねこむことがおおいって。まえは元気だったのに」
未病だ。瑞雪は直感した。
まだその葉青という少女に会ったわけではないから、実際のところは分からないが。葉青は皇后候補という重圧に押し潰されそうなのかもしれない。
皇后は国母となる存在。しかも白苑後宮の妃嬪を取り仕切り、政にも無関心でいるわけにはいかない。
先帝亡き後、皇太后……文護の母親は表に出てこない。文護の後ろ盾となり、岷国を治めているのは先帝の信任厚き宰相だ。
——皇太后はずっと喪に服しておられるのだろう。元々、表にお出になる方ではなかったらしい。
白苑後宮ではそう噂されている。
(陛下が、お母さまを恋しがらないのは、お会いになる機会があるからなのね)
皇太后は、すでに皇太后宮に移っているのだろう。内廷ではあるが、後宮とは離れた場所に皇太后宮はあるので、瑞雪は皇太后の姿を見ることもない。
病弱であった先帝の崩御と共に、白苑後宮は文護へと明け渡された。妃嬪や彼女たちに使える侍女はもうおらず、残っているのは事務や後宮の建物を管理する女官や宦官、掃除や洗濯をこなす宮女ばかり。
だからこそ皇后候補である南葉青は、臣下や官吏のみならず、岷国の諸侯にも注目される。そんな少女が病弱であると知られたなら、別の候補が立てられる。文護の気持ちなどお構いなしに。
——已病を治せずして、未病を治す。
医書である『黄帝内経』の一文を、瑞雪は思い出した。
発病後に治療するのではなく、まだ病にならぬ内に養生して治癒する。今まさに病に向かっている葉青の未病を食い止めることが必要だ。
「もしこうごうになるために、イェチンがびょうきになってしまうのなら……ぼくはイェチンをこうごうにするのをあきらめます。さびしいけど、元気でいてほしいから」
文護の目に影が宿る。
きっと葉青とは仲が良いのだろう。
(陛下は是が非でも葉青さまを皇后にするために、未病を治してほしいのではないのだわ)
大事な人だから健康で笑っていてほしい。その時、そばに自分がいなくとも——
「陛下。南家のご令嬢の体調管理は、わたしにお任せください」
きっと文護は良い皇帝になるだろう。瑞雪はそう確信した。
「ほんとう?」
「はい。未病でしたら医師よりも薬命司が対処するのが相応しいでしょう。ですが私は尚食局に勤める身です、後宮から出ることは難しいのですが」
「それならだいじょうぶだよ」
文護は袖口に手を入れて、紐のついた物を引き出した。
「ルイシュエさん、これをあなたに」
文護のてのひらに載せられているのは、しっとりと湿った光を宿す玉だ。森の奥に存在する泉を閉じこめたような、淡い翠をしている。
表面には龍に似た姿が彫られているが、よく見ると爪の数が少ない。厳星宇が腰から提げているのと同じ模様だ。
「四本爪の蟒の透かし彫りですね」
瑞雪の言葉に、文護はこくりと頷いた。
「りゅうはこうていしか使えないので。つめがすくない『もう』は、ぼくの臣下のあかしです。これはルイシュエさんが、こうきゅうの外にでるときのつうこうてがたです。イェチンのいえに行くことができます」
通行手形って……
文護から直接手渡された薄い玉が、重さを増したように思えた。
後宮で暮らす女性はその身分を問わず、勝手に外に出ることは叶わない。けれどこの佩玉があれば、厳しい制約を無にすることができる。
瑞雪は息を呑んだ。
皇后候補の少女の話を聞いた時、これこそが薬命司の名誉を挽回する好機と心が弾んだ。
けれど、それだけじゃない。自分が任されたのは、この岷国の将来を担うという重責を課された女の子の養生だ。




