3、これは勅命である
紅梅の昼食を終え、瑞雪は尚食局に土鍋を戻しに行った。やはり星宇はついて来ている。体格の良い星宇が、影のようにひっそりと瑞雪の後ろを歩くものだから注意が散漫になった。
「うわっ」
瑞雪は驚いて声を上げた。
通りがかった女官に足を引っかけられたのだ。
空になった土鍋が盆の表面を滑り、蓋が地面に落ちていく。
(しまった油断した)
立ち止まった女官が振り返りくすくすと笑っている姿が、倒れていく瑞雪の視界に入った。瘦せていて、前掛けである圍裙をつけている。掌膳の女官だ。確か名前は杏杏と呼ばれていた。
(土鍋、割ったら弁償! 減給! それは嫌だ)
裙の裾を膝でさばいて、瑞雪は足を踏ん張った。一つに結んだ髪が跳ね、裙は揺れるが瑞雪は倒れなかった。
子供の頃から薬草畑に忍び寄る竹を刈り、伸びた筍を見つければ蹴り倒してきたのだ。隙あらば侵入してくる竹との戦いは、毎春繰り返される。なので脚力もついている、のだが——
(土鍋の蓋に届かない!)
放り出された蓋は、瑞雪の指先をかすめただけで掴むことができなかった。
放物線を描いて落ちるその先には、石が敷かれている。
瑞雪が派手に転倒しなかったことで呆気に取られていた女官は、今にも地面に落ちそうな蓋を見て口の端を上げた。
駄目だ、割れてしまう。しかも足をかけた女官は「薬命司が勝手に転んだのよ」と嘘の証言をするに違いない。
「危ないな」
不機嫌そうな声が聞こえた。立った状態の星宇の大きな手には、小ぶりの蓋が掴まれている。
敷石の地面まで、あと一寸のところだったはずだ。星宇が屈んだところも、立ち上がったところも瑞雪には見えなかった。恐ろしいほどの瞬発力だ。
「本当よ、気をつけなさい。この愚図。もしその土鍋に中身が入っていたらどうするつもりだったの? 大火傷よ」
杏杏がこめかみを引きつらせながら、嫌味を放つ。意地悪な言葉に瑞雪は我に返った。
「うわー、面の皮が厚いですね。足をかけておいて、よくもしれっと嘘がつけるもんですね」
「ちょっと! 何よ。あたしがこの足を出したって言うの?」
杏杏が声を荒げて、指で自分の右足を指し示している。
おっといけない、心の声が口に出てしまった。
星宇から蓋を受け取る瑞雪を、杏杏は睨んでいる。
「ふぅん、右足でしたか。素直な人ですね。わたしはどちらの足かなんて言ってませんよ」
嫌味には嫌味で返すのが一番だ。瑞雪の指摘に、杏杏は「ふんっ」と鼻息荒く去っていった。
嫌がらせが多いので、さすがにもう慣れてしまった。いじめてくる相手に、いちいち傷ついた姿を見せて悦に入らせるほど瑞雪は心が広くない。
「これが君の日常か」と星宇が尋ねてきた。
「そうですね。蓋をありがとうございます、給金が減らずに済みます」
瑞雪に蓋を手渡しながら、星宇は自分の顎に指を添えて考え込んでいる。瑞雪を見るその目には、憂いの色が滲んでいた。
初対面だし、陛下の御前に行くまでしか関わることもないんだから。そんなに気にしなくていいのに。
「強くならざるを得なかったのだな」
「え?」
何を言われたのか、瑞雪はとっさには理解できなかった。
「寝床で泣いた夜もあったのではないか? 最初から相手に反論し、撃退できたわけでもなかろう」
「いや、いやいや。わたしのことなんてどうでもいいですよ」
瑞雪は片手で盆を持ち、顔の前で手を振った。
人に気を遣ってもらえるのには慣れていない。背中がもぞもぞして居心地が悪くなるのだ。
尚食局に土鍋を戻した瑞雪は、その足で皇帝の元へと向かった。星宇が先に立ち、案内してくれる。
星宇は霜の華をまとったかのような、冴え冴えとした雰囲気がある。白苑後宮では珍しい男性、しかも端正な星宇が歩くだけで、女官や宮女どころか宦官の視線までが彼に集中する。
星宇は二十代半ばだろうか。瑞雪のことをよく知っていると話していたが。瑞雪より五歳ほど上としても、子供の頃に会っているのなら少年のはず。
(わたしが乳児の頃に星宇さんと出会ってたら、覚えていないのもしょうがないけど)
とはいえ、それは「よく知っている」といえるのだろうか。
(叔母さま。なんだか大変なことになりそうなんですけど。わたしはどうしたらいいの?)
「早く進みたまえ。陛下がお待ちだ」
星宇の大きな手が、瑞雪の背中を押した。その時、星宇の帯に下げられた佩玉が目に入った。
歩みに合わせて揺れる赤い色の房。その根元には円形の翡翠が見える。彫られているのは一見すると龍のように見える、だが爪の数が少ない。
蟒なのか斗牛なのか。どちらも龍に似ていて爪が少なく、皇帝の臣下である証の紋だ。
「何か?」
佩玉を瑞雪が見ているのが気になったのか、星宇が問いかけてくる。「いえ」と答えながらも、謹厳実直を体現しているような星宇が、瑞雪を思いやってくれたことを意外に感じていた。
皇帝が暮らしているのは内廷にある殿舎であり、白苑後宮からも出入りができる。
門の左右には門番が控えており、星宇の佩玉を確認するとすぐに扉を開いてくれた。
司苑の女官が草むしりをし、宦官は枝の剪定や壁の補修をしている。
たおやかな侍女たちが回廊を渡っていく様子は華やいでいる。
指示を出す言葉と、枝が落ちていく音。草の青いにおいが風に乗って漂っていた。
「ああ、人が暮らしている。なんだかほっとしますね」
瑞雪の言葉に、星宇はうなずいた。
「白苑後宮も使用人は多いですけど。どの宮も主がいないから、猫が何匹も住み着いてるんですよね。鼠を退治してくれるので、まぁ助かるんですけど」
「猫を可愛がっているのか?」
意外な質問だった。だがすぐに瑞雪は首を振った。
「いつか、わたしの大事な子が帰ってくるかもしれないから。その子のために猫とは親しくしないようにしているんです」
瑞雪が待っているのは猫ではない。モモンガに似た飛仙だ。
岷国の外れにある高山から降りてきてしまったのだろう。見とれるほどに愛らしい姿で、モモンガにしては白く美しい毛並みと小さな体。
瑞雪が「おいで」おと呼ぶと、広げた腕の中に風を切って飛び込んできてくれた。
ふと、回廊の奥からパタパタと軽い足音が聞こえた。
「あー、シンユィ。おそいよー。ぼく、まちくたびれちゃった!」
「お待ちください、陛下」と、侍女が少年の後を追っている。
朱の柱と、他の宮よりも細工の細かい吊り灯籠がどこまでも続く回廊を、小さな男の子が駆けてくる。少年は絹地の錦袍の袖をなびかせながら、星宇に飛びついた。
星宇は驚いた様子もなく、彼を受け止めた。
岷国の皇帝、朱文護だ。瑞雪は姿勢を正し、揖礼をして深く頭を下げる。
まだ七歳の文護は利発そうな顔立ちをしているが、普通の子供に見える。背の高さも星宇の腰ほどしかない。
「ねぇねぇ、やくめいしをつれてきてくれた?」
「私の隣におります」と、星宇が瑞雪に視線を向ける。
「え?」
ようやく文護が、瑞雪の存在に気付いた。
「なりません、陛下。危険です、薬命司から離れてください!」
息を切らせながら、ようやく追いついた侍女が金切り声を上げる。侍女は必死に手を伸ばして、文護を止めようとした。
(開口一番それ? 本当に薬命司の立場って地に墜ちているのね)
瑞雪は礼をしたまま暗澹たる気持ちになった。本来、白苑後宮に暮らす者たちの健康を守るのが薬命司の務めだ。
だが、叔母の璠欣然が侍女に毒を盛った罪で後宮はおろか、岷国からも追放されてしまい、長らく薬命司は不在だった。
——お願い、瑞雪。どうか薬命司の名誉を取り戻して。
国外追放となる日の朝。まだ幼かった瑞雪を抱きしめて、叔母の欣然は涙ながらに訴えた。悲しさと悔しさ、その両方が混ざった声は重々しく、今も瑞雪の耳の奥に留まっている。
北風に粉雪が混じる、寒い朝。かさついた欣然の手が、かじかんだ瑞雪の小さな手を握りしめた。
そして雪の中に叔母は消えた。追いかけても「おばさま!」と叫んでも、欣然は瑞雪を振り返ってはくれなかった。
吐く息は白く、耳もつま先も痛く、息を吸えば鼻の奥が鋭く痛む。あふれる涙すら凍えてしまいそうに思えた。それでも瑞雪は叔母の消えた道を見つめ続けた。
家族の誰も「もう家に入りなさい」とは言えない。飼っていた飛仙が、ずっと瑞雪の肩に乗り寄り添ってくれた。
「あのね、ぼくはやくめいしにお話があるの。じゃましないでほしいなぁ」
「ですが、陛下……」
侍女は食い下がる。幼い皇帝を案ずる目つきだが、瑞雪に向けられると途端に険しく睨みつけてくる。
「ごえいなら、シンユィがいるからだいじょうぶだよ。ね?」
こくりと星宇がうなずいた。
回廊ではあるが、席を外せと命じられて居残り続けることはできないのだろう。侍女は「異変があれば、すぐにお呼びください」と言いつつ去った。
(やれやれ、わたしはどこへ行っても悪人だわ。もう嫌われるのも慣れたけどね)
瑞雪のことを毛嫌いせずに薬膳料理を食べてくれるのは、元紅梅だけだ。きっと悪評や噂を気にしない性格なのだろう。
文護が「こほん」と、似合わない咳ばらいをする。
「ルイシュエさんをまちきれなくて、おへやから出てきちゃったんですけど。もうここでいい……かな?」
何がいいのか分からないが、とりあえず瑞雪は再び礼をして「はい」と答えた。
文護の柔らかな髪は、まだ結うほどには長くない。回廊に差し込む昼間の日差しに、文護の髪が栗色に輝く。細身であるのに頰はふっくらとして、指で押さえれば蒸し立てでふわふわの饅頭のように違いない。
だが次の瞬間、文護の表情が変わった。子供から皇帝のものへと——
「これはちょくめいである。心してきくがよい」
さっきまでの舌足らずな甘えた話し方ではなく、凛と響く声だった。瑞雪はとっさに回廊の床に跪いた。
「シアルイシュエ。こうごうこうほとなる少女をすくえ」
こうごう、こうほ? 皇后候補。
文護の言葉を理解するのに数瞬かかった。
だがすぐに瑞雪は、脳内で過去の記憶と将来の糸を結ぶ。
冤罪であるはずなのに先代の薬命司である叔母は罰せられた。叔母の切なる願いを叶えるため、瑞雪は白苑後宮に入ったけれど。ただ漫然と薬草畑を耕して生薬を作り、薬膳料理の依頼が来るのを待つばかり。
叔母、欣然の汚名を返上する機会もなければ、薬命司の名誉を挽回することもできていない。
(これは好機かもしれない)
瑞雪はこぶしを握り締めた。胸の奥で鼓動が速くなる。空は晴れ渡っているのに、まるで雷が近くで落ちたかのように、皮膚がぴりぴりする。腕の産毛が逆立つ感じだ。
(この時をわたしは待っていたんだ)
叔母さま。わたしは——
白苑後宮に入って一年、自分はこの日のために心無い言葉に耐え、息をひそめて生きてきたのだ。
「尊命承知いたしました」
瑞雪は深く叩頭した。




