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【完結】白苑後宮の薬膳女官  作者: 絹乃
三章

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4、毒見の女官

「食材の管理は私に一任されていますからね。保管庫に行って足りぬものを一緒に探しましょう」


 一桐はふっくらとした手で、瑞雪の背中を押した。


「皆さんは調理を続けてくださいね。孫時宜さん、持ち場を離れてはなりませんよ」


 誰も主席女官である一桐の命令には逆らえない。女官たちは顔を見合わせて、再び調理を始めた。


 ダメだ、このまま連れていかれたら。陛下が殺されてしまう。

 さぁ早く出ていけとばかりに、背中に触れる一桐の手が急かしている。どうにかしてこの場に留まる理由を、一桐の注意を逸らせる何かがあれば。


「あっ!」と、瑞雪は声を張り上げた。

 灰色の残像が床に見えたのだ。それは素早く調理台の下へと走っていった。


「どうしたのです、瑞雪。びっくりするではありませんか」


 一桐の手が離れた。呼び名すらも「瑞雪さん」ではなく「瑞雪」と変わっている。動揺している今だ。瑞雪は慌てた様子で調理台を指さした。


「鼠です。鼠が今、走っていたんです! かなり大きいです」


 瑞雪の指摘に、女官たちが「きゃあああっ」と悲鳴を上げる。


「そこです! 足を登られますよ」


 瑞雪は女官たちの足元を指さした。


「どこよ」「いやぁ、猫を連れてきて」「誰か捕まえて」


 穀物や食材を扱う場所に鼠がいるのは当然だが、やはり目にするのは怖いのだろう。開いた窓から逃げようとする者、まさかの調理台によじ登ろうとする者までいる。


「お静かに! 落ち着きなさい」


 一桐の叱責すらも、女官の耳には届かない。部下たちの混乱を一桐はなんとか収めようと焦っている。

 この隙だ。瑞雪は室内に目を凝らした。


 毒として用いられるのは干した莨菪ろうとう。見た目は藍苺と変わらない。そして小甜餅に細工をしてどれが無毒であるのか分かるようにするには


——毒見みずから菓子を作るはずだ。


 もし伝達に間違いでもあれば、女官がその場で死んでしまうのだから。

 誰だ、どこにいる。一桐に買収され、毒見を託された女官は。


「尚食さま。外に出てもいいですか、あたし鼠が本当に怖くて」


 おろおろとしながら一人の女官が一桐に頼み込んでいる。手に小さな蓋つきの壺を包んで。


(これか、莨菪の実)


 瑞雪は瞬時に調理台に目を向けた。そこには藍苺の入った器が残っている。小甜餅に持って逃げねばならぬほど、高価な香辛料は用いない。そう、毒以外は——


 壺を大事そうに両手で包んだ女官は痩せていた。

 この顔、覚えている。瑞雪は目を見開いた。以前、瑞雪に足をかけて転倒させようと企んだ女官だ、言い争いをしたから覚えている。確か杏杏シンシンと呼ばれていた。


 瑞雪は戸口から廊下に出ようとした杏杏の前に立ちふさがった。


「退いてよ。こっちは急いでいるのよ」

 杏杏が肩で瑞雪を突き飛ばす。だが残念なことに杏杏は痩せこけて細く、薬草畑での作業に慣れている瑞雪の体はぐらつかない。むしろ杏杏の方がよろけた。


「あっ」


 壺が杏杏の手から離れる。一桐が「落とすでないっ」と絶叫に近い声を上げた。何事かと室内にいる女官たちが一斉に一桐に視線を向ける。もはや鼠どころではない。


 宙に浮いた壺を瑞雪は叩き落とした。握り締めたこぶしで目にも止まらぬ速さで。

 壺の蓋が外れ、本体が割れる。割れ残った底の方が床を転がっていく。萎んだ藍紫の粒が散乱した。


「あ、あっ、あああっ」


 杏杏は慌てて莨菪の粒を拾おうとした。その時だった、調理台の下から走り出た鼠が毒の実を咥えたのは。

「やめて、返して」と、杏杏が鼠を追う。


「あの鼠を捕えなさい。瑞雪、お前ならできるでしょう? 今、藍苺は貴重なのです」


 一桐に命じられたが、瑞雪は動かなかった。


「……わたしでは無理です。一桐さま」


 そう、あなたが叔母さまを陥れたと知った今では。もう命令は聞けません。


「使えない奴め」


 一桐は忌々しそうに眉をひそめて、舌打ちした。そして鼠を追ったが遅かった。鼠はすでに莨菪の実を食べてしまったのだから。

「何てこと」と呟いて、一桐は立ち尽くしている。杏杏は急いで鼠を追いかけて走った。


 鼠は怖いと言っていたばかりなのに、泡を吹いて倒れた鼠を杏杏は素手で掴む。他の掌膳の女官たちは顔を見合わせて息を呑んだ。

 苦手でなくとも誰も鼠を手づかみなどできない。


「その者を捕えよ! そいつは毒を隠し持っていたのだぞ」


 一桐の鋭い命令が廊下に響いた。


「その者って、誰?」

「杏杏のこと? 毒見が毒を持っていたの?」


 女官たちはおろおろと互いに顔を見合わせる。廊下には死んでしまった鼠と散乱した藍苺、そして絶叫しながら床をこぶしで叩く杏杏。


「そうだ、呉杏杏ウーシンシンは毒見でありながら陛下を毒殺しようと企んでおった。誰が宦官を呼んで参れ」

「違います、あたしは……」

「何も違わぬ。ええい、見苦しい。この逆賊が」


 訴えようとする杏杏の言葉を、一桐は遮る。


(ああ、こうやって叔母さまは正当な主張すらも聞いてもらえずに罰せられたのか)


 瑞雪は目の前が暗くなるのを感じた。かつて同じようなことが後宮で繰り広げられた。鼠の代わりに侍女であった宋舞が毒に倒れ、叔母の無実の訴えは聞き入れられることはなかった。


 当時はもっと慎重に一桐も動いたことだろう。欣然ですら自分を陥れたのが一桐であると分からなかったはずだ。もし知っていたら、一桐には気をつけろと伝えていたはずだから。

 瑞雪はしゃがんで床に落ちた莨菪の実を拾った。一粒、二粒……十粒。干した実は皴が寄り、黒っぽく見える。


「一桐さま。貴重な藍苺ですよ、どうぞ」


 てのひらに載せた毒の実を一桐に差し出す。


「床に落ちたものを陛下の菓子には使えませんね。一桐さまが召し上がってください」

「何を言っているのだ? 瑞雪。私も床に落ちた藍苺など」

「でも貴重なのでしょう? 捨てるのも勿体なくありませんか。それとも……」


 瑞雪は言葉を切って立ち上がった。


「藍苺にそっくりな莨菪を食べたら死んでしまうから。だから一桐さまは食べることができないんですか?」

「瑞雪……」


 一桐の声がかすれている。莨菪を決して受け取るまいと、短い指をぐっと握り締めながら。


「ああ、ごめんなさい。尚食ともあろうお方が食材と偽って毒物を購入するはずないですよね。えっと、これも薬命司であるわたしの責任になるんでしょうか。先代の薬命司の時も確か同じ莨菪でしたよね?」


 今は焼き菓子である小甜餅、かつては杏仁汁粉きょうにんじるこ。そこにどんな事情があるかは知らぬが、食の安全を確保すべき人間が一番危険とは笑えない。


「どうしますか? 一桐さま。やはり今度も薬命司が悪人ですか?」


 なぜ一桐が、廃止された薬命司を復活させたのかようやく分かった。


 文護に毒を盛った実行犯を杏杏に、毒の入手先を瑞雪にするためだ。これまで隠していた欣然と瑞雪の血のつながりを暴露して、自分は逃れるつもりだったのだろう。皇帝暗殺という大罪から。


「ちが……私ではない。私はただ欣然の悪行を止めようとしたのだ」


 唇を震わせながら、一桐は言葉を必死で紡ぐ。


「そうだ。欣然の減刑を嘆願したのは私であるぞ。そんなにも薬命司の立場を慮る尚食たる私が、毒を盛るはずなかろう」


 瑞雪から逃れようと一桐は後ろに下がった。そして壁にぶつかって止まる。


「ええ、毒じゃないんですね。なら、これはあくまでも藍苺。どうぞ、一桐さま」


 一桐のふくよかな手首を掴み、右手で彼女の指を開いていく。そして瑞雪は一桐のてのひらに毒の実を落とす。

 指の間から実がこぼれていく。


「やれやれ、往生際が悪いですね」


 決して一桐の手首を離さぬまま、瑞雪は莨菪を拾ってまた渡す。一桐は再び毒の実を落とし、瑞雪は拾う。


「……しつこいぞ、瑞雪」


 憎々しげに歯を見せて、一桐が瑞雪を睨みつける。眉根を寄せたその表情のどこにも、瑞雪を可愛がっていた面影はない。

 目を閉じて、瑞雪はかつての一桐を思い出す。


 ——こちらですよ、阿雪(アーシュエ)。欣然ばかりじゃなくて、私にも抱っこさせてくださいな。


 両手を広げて小さな瑞雪を抱きしめた一桐は、元から幻だったのか。


「ええ、わたしはしつこいです。叔母さまの人生を奪われたのですから。どこまでも食い下がりますし、諦めません」

「誰か! 薬命司が乱心した。取り押さえよ!」


 しびれを切らした一桐が叫ぶ。その時、女官が動いた——杏杏だ。


「そうだ、呉杏杏(ウーシンシン)。お前の名誉を守ってやろう。薬命司にその藍苺を食わせるのだ」


 ゆらりと立ち上がった杏杏が莨菪を握り締めて、歩き出す。


「やめなさい! 呉杏杏」


 時宜の声が廊下の天井や壁に響く。

 その時だった。廊下の窓の格子が鈍い音を立てて砕けたのは。割れた格子ごと紙窓しそうが廊下に落ちてくる。一瞬遅れて、黒い影が飛び込んできた。


 誰もが呆然と立ち尽くす中、影は瑞雪の体を後ろに引っ張った。まるで重さを忘れたかのように、瑞雪の足が地面から離れる。

 視界には黒い服。そして明るい色の柔らかな髪。床が遠い。


「何事もないか? 瑞雪」


 問いかけてきたのは星宇だった。瑞雪を右肩に担いで、すっと立っている。枠だけになった窓から入る四角い光に照らされて、星宇は銀の光を纏っているように見えた。


「星宇さん。どうして。陛下は?」

「すでに陛下と他の護衛に異変は知らせた。案ずるな、瑞雪。私は足が速い、知っているだろう?」


 瑞雪を肩に担いだまま、星宇が低く優しい声で囁いた。


「……うん、知ってる」


 足が速いことも。どこまでも走って、そして戻ってきてくれることも。

 天雷の、星宇の向かう先には光がある。いつも、いつまでも。


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