10、南葉青
瑞雪が城市にある南邸に向かう日が訪れた。
「半年ぶりだわ。後宮の外に出るのは」
南氏といえば地方に広大な荘園を持つ貴族だ。宮廷でも上級官職に南家の男性が就いている。
宿舎の部屋で、仕事着の中でもきれいなものを瑞雪は着用した。いつもは適当に結んでいる髪も、今日は後れ毛がないか確認する。
瑞雪は宿舎の部屋を一人で使っている。「特別待遇だ」と文句が出ないのは、誰も薬命司と同室になりたくないからだ。
生薬のにおいが臭いから——うん、それなら司薬司も一人部屋でいいはずだよね。
毒で暗殺されるかもしれないから——悪口を言われたくらいで暗殺する必要があるなら、後宮の女官も宮女も半減してしまう。
「よしっ、叔母さまのためにも薬命司のためにもがんばるぞ!」
こぶしを握り締め、瑞雪は宿舎の部屋を出た。
白苑後宮をぐるりと取り囲む赤い壁は、見上げると首が痛くなるほどだ。今日の空は青が鮮やかで、鳶が円を描いてのんびりと飛んでいるのが見えた。
瑞雪は西の門へと向かった。
「おい、外出の届け出はあるのか。貸してみろ」
後宮の門番の閽人が、瑞雪を見下ろしてくる。宦官である閽人はあごを上げて、さっさと出せと手を突き出してくる。
「隙あらば逃げようとする宮女もいるからな。届け出も文字の書ける者に代筆してもらったんじゃないだろうな」
「うわー、横柄」
「何か言ったか?」
閽人が瑞雪を睨みつける。
いけない、また本音が口から出てしまった。瑞雪は手で口元を押さえた。
「あ?」
手渡された書状と佩玉を見て、閽人は目玉が飛び出そうなほどに目を見開いた。次に口をあんぐりと開けて、佩玉と瑞雪を交互に指さす。
さすがに皇帝の臣下であることを示す、翡翠の蟒は効く。
「お、お、おま、お前……陛下の」
閽人の声は上ずっている。
「不備がないなら通してもらってもいいですか?」
これから何度も通行することになるのだから、悪い印象は避けた方がいい。さっきの「横柄」という言葉を忘れてくれたらいいなぁと思いながら、瑞雪はにっこりと微笑んだ。
「早く門を開け」
閽人は思い出したかのように背筋を正し、他の宦官に命じた。
ぎぎぃと軋んだ音を立てながら、門扉がゆっくりと開かれる。
「そんな大門じゃなくて、あっちの小門でいいんですけど」
瑞雪は脇にある通用門を指さした。通用門は壁に門扉をつけただけの簡素な造りだ。そちらは帰省などで後宮の外に出る侍女や女官、宮女が使う門だ。妃は使用しない。
「いえ、陛下のお遣いでいらっしゃるのであれば、正式な門をお通りください」
今日は南葉青と初めての顔合わせであり、問診だ。この先は薬膳料理を作るため、何度も外に出ることになる。そのたびに大層な門を開けてもらうのも心苦しいし、何より目立ってしまう。
(通用門を使わせてもらうように、陛下にお願いした方がいいかも)
布に包んだ荷物を抱えて、瑞雪は門をくぐった。
白苑後宮は宮城の奥にある。瑞雪は門を出て延々と歩いた。さらにいくつかの門を越えねばならない。
身分の高い妃嬪や公主であれば、輿や馬車に乗って移動するのだろうが、女官は脚力が勝負だ。瑞雪はひたすら歩いた。
外廷は政務を行う場所なので、白苑後宮よりも一つ一つの殿舎が広大だ。通りも広く、白い敷石が光を弾いて眩しい。
当たり前だが、後宮を出ると見かける人はほとんどが男性になる。武官と文官はその姿勢や体格で、遠目からでも見分けがつく。
他国からの使節もいるようで、髪と瞳の色が明るい、ひときわ背の高い男性の一団も見える。
瑞雪も女官になる時は通ったことのある場所なのに、当時は緊張で目に入っていなかった。
「これが陛下がご覧になっている世界かぁ」
そして今から会う南葉青が、いずれ朱文護と共に治めていく国だ。
皇后候補が健康になるか否か。自分の判断と葉青の体力や気力次第で、未来が変わってしまう。
責任重大だ。必ずや葉青さまを元気にしてさしあげないと。
瑞雪はごくりと唾を飲み込んだ。
宮城の濠に架かる白い石橋を渡ると、ようやく京師である伊河に出る。
「確か地図によると、南邸はこっちのはず」
京師といえど、宮城の近くは整然とした街並みだ。瑞雪の実家がある伊河の外れは畑も多い。そしてその道中は市も立ち、店や食事処も多く賑わっている。
雑然とした京師しか知らぬ瑞雪は、高く長い塀が延々と続く道をぼうっと眺めながら歩いた。とにかく塀がとぎれない、一邸当たりの敷地が広すぎる。
それもそのはず。宮城近くに邸を構えているのは、有力な貴族ばかりなのだから。
「えーっと、この先はどう進むんだったかな」
辺りを見回した瑞雪の視界に、門の番をする男性が入った。門の上部には「南府」と記された扁額が掛けられている。
「え! もう南家なの?」
後宮から宮城の外に出るまでの方が、よほど時間がかかっている。
瑞雪は門番に皇帝からの書状を見せた。事前に話が通っているので、びっくりするほど簡単に屋敷に入ることができた。
「葉青お嬢さまはあちらの離れにいらっしゃいます」
案内に出てきた使用人の女性が、池にかかる橋の向こうを指し示す。侍女のようだ。四十代だろうか、紅梅より少し上の年齢に見える。足が悪いのだろう、杖を突くほどではないが少し引きずる歩き方だ。
水の匂いがして、瑞雪は顔を上げた。
(すごい。橋どころか、庭の池に舟が浮かべてあるわ)
池のほとりに植えらえた菖蒲の鋭い葉が、水面を渡る風に揺れた。その池を近くに露台を広くとった建物がある。池を眺めながらの酒宴が開かれる場に違いない。
春には枝垂れ咲く薄紅の花海棠を、夏には蛍を、秋には月と赤く染まった紅葉を、冬には雪を。季節ごとの美しさを想像して、瑞雪はため息をこぼした。まさに雅を形にしたような庭だ。
視界の端を白い影が横切ったと思うと、それは白鷺だった。池の中に配置された岩に舞い降りると、翼をたたみ、白鷺はすっとした姿で止まった。
(はーぁ、お金持ちってすごいのね)
この美観を維持するために、どれほどのお金と人手がかかっているのだろう。しかも伊河は北にあるので、繊細な花は麦わらなどで保護しなければ枯れやすいというのに。
薬草畑で日々はびこる雑草や、忍び寄る竹と戦っている瑞雪は、完璧な庭の管理に感心した。
広大な母屋とは別の離れに、瑞雪は通された。
光溢れる庭と違い、離れの中は薄暗い。侍女に声をかけられて、椅子に座っている女の子がゆっくりと顔を上げた。
「お初にお目にかかります。薬命司の夏瑞雪と申します。南葉青さまのお加減を伺いに参りました」
瑞雪は揖礼をして、頭を下げる。
返事はない。まさか後宮の外にまで、薬命司の汚名は伝わっているのだろうか——
いや、実家の薬舗は宮城へ生薬を納品することはなくなったけれど、営業はできている。叔母の事件を後宮外で広めぬよう箝口令を敷いてくれた人がいると聞いたこともあるし、一桐も叔母をかばってくれた。
けれど人の口に戸は立てられない。噂は漏れるものだ。
悶々とする瑞雪の耳に、虫の羽音のような微かな声が聞こえた。
「あなた……」
声をかけられ、顔を上げた瑞雪が目にしたのは、青白い顔の少女だ。確か年は皇帝より一つ上の八歳と聞いている。目が大きく愛らしい面立ちなのに、葉青の表情は乏しい。
「あなた、つかれているわ」
「あの、疲れているんですか?」
年端もいかない女の子に指摘され、瑞雪は瞬きをくり返した。確かに後宮からかなり歩いたから、疲労はしているけれど。だるさを悟らせるほど、失礼な態度はとっていないはず。
「ううん、ちがうの。憑かれているの。ええっと、妖に気にいられてませんか?」
「えっ!」
予想外の指摘に、瑞雪は素っ頓狂な声を上げた。
葉青は左右に分けて結んだ黒髪に、芍薬を模した花飾りをつけている。髪は子供らしい艶もなく、ぱさついている。もしこれが牡丹の花ならば『牡丹燈記』の怪談を連想させるだろう。
新手の嫌がらせだろうか? やはり薬命司ではお気に召さなかったのか?
いや、皇帝は葉青を評価していた。裏表がある性格とは思えない。
「葉青お嬢さま。何ということをおっしゃるんですか」
「……でも、本当のことだもの。ソンウー」
宋舞という侍女に窘められても、葉青は引かない。瞼を半ば伏せているので、睫毛の影が落ちている。体は弱そうだが、芯は強そうだ。
宋舞に椅子を勧められ、瑞雪は葉青の向かいに座った。「薬命司に椅子など不本意ですけどね」と宋舞はぼやいた。
「あの、宋舞さんもお座りになれば如何ですか」
「まさか侍女の私が座るわけには参りません」
瑞雪の提案に、宋舞はつんと顎を上げる。足が悪いだろうから、無理をしなくても。
「ソンウーもすわればいいのに」と、虚弱な葉青に勧められてもやはり応じない。
仕方がない。瑞雪は話を進めた。
「妖のことですが、今の白苑後宮には妃嬪がいらっしゃいません。夜になっても明かりも灯らぬ場所が多いのです。怪異が起こったとは聞きませんが、何か関係があるのでしょうか」
「はくえんこうきゅうは、くらいの?」
返事に困り、瑞雪は頷いた。「葉青さまが皇后におなりになれば、後宮も明るくなりましょう」とは言えるけれど。それはつまり、皇帝である文護の妃嬪がそれぞれの宮で暮らすということだ。
「そう、くらいのね。それなら、妖もいるかもしれないわ」
え? なんで目を輝かせているの? 瑞雪は呆気にとられた。
葉青は顔の前で両手を揃えて微笑んでいる。
「あのね、やくめいしさん。わたくし、妖にきょうみがあるの」
部屋の壁に置かれた書棚へと、葉青は進む。
「これがね、西国のあやかしのお話をあつめた本よ。こちらが南国、東国、北国は岷のことだから『岷国図経』ね」
さっきまで蚊の鳴くような声だったのに。ずらりと並んだ巻物を紹介する葉青の声は生き生きとしている。
「妖だけじゃないの。きしんも書かれているわ」
「きしん、ですか?」
葉青の言葉が「鬼神」であると気づくのに瑞雪はしばし時間を要した。
皇帝の文護から聞いた感じでは、虚弱で大人になるのも難しいかと思われたのに。目の前の葉青は元気とまではいわずとも、気力がありそうに見える。
「まずは望診をさせていただきます」
葉青が椅子に戻るのを待って、瑞雪はその前に立つ。侍女がすぐに瑞雪の椅子も用意してくれたので腰を下ろして、筆を執る。
望診は顔や上腕の皮膚の色を見て診断することだ。
たとえば左頰には肝、右頰には肺の色が現れる。鼻には脾の色が現れるので、酒毒は鼻が赤くなる。脾は消化吸収、栄養代謝に関わる機能のことだ。
「葉青さま。舌を出していただけますか?」
医者に診てもらうのに慣れているのだろう。葉青は「べー」と言いながら、舌を出した。
(これは、過剰な水分が舌に溜まっているわ)
葉青の舌の左右は、ぼこぼこと凹んでいた。舌の側面に歯形がついているのだ。
「起きた時に、舌に違和感がおありではありませんか?」
「……あります。いたくて、おもいの」
葉青の表情が重く沈む。
「お食事はあまりお召し上がりになれませんか?」
瑞雪の問いに、葉青はこくりとうなずいた。
「ほら、お嬢さま。やはりお食事をほとんど残されるから、具合が悪いんですよ」
「でも、たべられないんだもの」
「食べたくないの間違いではございませんか?」
傍に控える侍女が口を挟む。ああ、これではいけない。瑞雪は診断の結果を書き留める筆を止めた。
「葉青さまは水分の代謝がうまくお出来にならないんですね。だから舌がむくんでしまうんです。通常よりも舌が大きくなっているので、歯形がついて痛むんですよ」
「やくめいしさん、おくすりをのまないとダメですか?」
庭を吹く風の音よりも、小さな声で葉青が尋ねる。
「ね? お医者さまがお出しになる薬湯を、お嬢さまは残しておしまいになるでしょう? だから健康になれないんですよ」
「ご、ごめんなさい」
「就寝時間と起床時間を守り、勉強にも精を出していただかないと。皇后に選んでいただけませんよ」
侍女の言葉に、葉青は背中を丸めて縮こまってしまった。
「薬湯は苦くて渋くてえぐみがありますから。苦手なのも分かります」
瑞雪は葉青に顔を向けて微笑んだ。
たぶん環境がよくないのだ。皇后候補という重圧のせいで、葉青は押し潰されそうなのかもしれない。侍女が葉青の生活をぎちぎちに管理しているのだから、きっと自由などないのだろう。




