第153話 『母の形見』
ダニアの街。
クローディアの腹心の部下であるアーシュラは、クローディアの私邸の敷地内にある小さな小屋に住んでいる。
クローディアは彼女のためにもっと大きな家を用意すると言ったが、アーシュラはこれを固辞した。
広いところは苦手だった。
アーシュラはその小さな小屋の中でも、さらに手狭な押し入れの中に閉じこもっている。
この自宅にいる時には、ほとんどその場所で過ごしていた。
その狭く暗い場所が彼女に安心を与えてくれるからだ。
母に手を繋がれて島を逃げ出して以降、彼女はずっと何かに怯え続けてきた。
世界は怖い。
人は怖い。
だから誰にも見られないこの場所だけが唯一、心から安心できる居場所だったのだ。
今、クローディアより休暇を命じられ、彼女の私邸からこの自宅に戻ってきたアーシュラは押し入れの中に籠り、息を潜めるように膝を抱えて座っていた。
押し入れの中には一枚の毛布と、一巻きの書物だけがある。
アーシュラは毛布を引き寄せると、その書物を胸に抱いた。
それは死んだ母の形見だ。
かつて彼女の母アビゲイルが、妹であるアメーリアから盗み取った禁断の書物だった。
これは決して人に渡してはいけないもの。
だから内容を全て覚えたら、燃やしてしまいなさい。
母のアビゲイルは病床でそう言っていた。
書物は『秘法の書』と題されていて、中には数々の薬物の生成方法が記されていた。
かつて古の時代の黒き魔女が記したものと言われている。
記された内容の幅は広く、良薬から劇薬に至るまで様々だった。
特に母が忌み嫌っていたのは麻薬の項目だ。
麻薬は常習性が強く、使い始めたら簡単にはやめられないという。
そして人の体を蝕み、廃人に追いこんでいく。
だが、アーシュラの叔母でもある黒き魔女アメーリアは、その麻薬を利用して自らに従う狂信者たちを生み出した。
彼女から麻薬を与えられた狂信者たちは、その麻薬の味を忘れられず、アメーリアにそれを与えてもらうためならば人殺しでも何でもやった。
アメーリアは数々の麻薬を使って多くの人たちを操り、そして破滅へと追い込んだのだ。
人としての心も失い、ボロボロになっても麻薬を求める生ける屍と化した者も少なくない。
それは母アビゲイルが最も憎んだことだった。
だが……アーシュラはその麻薬の生成方法を学び、実際にいくつもの麻薬を作り出した。
クローディアのために諜報活動を行う彼女にとって、麻薬は武器だった。
麻薬の味を覚えた者は、麻薬のために何でもやる。
アーシュラはそうして人を操り、様々な情報を集めることに成功していた。
母が忌まわしく思っていたアメーリアと同じことを自分はやっているのだ。
(クローディアのため……いや、違う)
他人に向ける言葉を偽ることは出来ても、自分に向ける心の声だけは偽れない。
アーシュラは自分が生きるためにそれを覚えたのだ。
恐怖に縛られ囚われた自分が生きていくには、そうしていくしかなかった。
しかしアーシュラは書物を全て読み込み、内容を完全に把握している今も、それを捨てることが出来なかった。
母が残してくれた書物に、母の意思を感じていたからだ。
この書物は母も読み、自分に託されたものだ。
それを燃やしてしまうのは、どうしても忍びなかった。
他者に悪用される恐れもあるというのに。
特にアーシュラが知る中では、クローディアの従姉妹のベリンダなどは、この書を見たらそれを大いに活用しようとするだろう。
だが一番恐れるべきは、これが再び黒き魔女の手に戻ってしまうことだ。
アメーリアがもしこれをトバイアスに渡してしまえば、もっと恐ろしいことになる気がしてならない。
絶対にこの書を誰かに知られるわけにはいかない。
そう思ってこの書はアーシュラが肌身離さず持っていた。
クローディアすらもその存在は知らない。
「……お母さん。黒き魔女がいたよ。お父さんの仇だよ。ワタシ……どうすればいい?」
そう呟きを漏らすとアーシュラは秘法の書を開いて中身に目を走らせる。
薄暗い中でも彼女の目は書面に記された文字をハッキリ見ることが出来る。
いや、開かなくとも、幾度も読み込んだそれをアーシュラは完全に覚えていた。
麻薬の中でも最もおぞましい薬物がここには記されていた。
「堕獄……」
それを常習する者は、痛覚や恐怖を失くし、人としての心も失くす。
そして敵を殲滅するために戦う殺戮兵士となるのだ。
そうなった者は腕を切り落とされようが、足を折られようが、その命が消える瞬間まで戦い続ける。
この書ではそうした兵士のことを『死兵』と記している。
すでに死んでいるために死を恐れぬ兵士という意味だ。
実際は生きているのだが、その様子を見た者はまるで北方の伝承に出てくる夜の死者のようだと言う。
砂漠島で狂信者らとともに恐れられた兵士だ。
アメーリアがこの大陸にいるとすれば、すでにその死兵がどこかに潜んでいるかもしれない。
死兵が闊歩するようになれば、この大陸もかつての砂漠島のようになってしまう。
アーシュラはそれが恐ろしかった。
そしてクローディアがアメーリアの放つ死の影に飲み込まれてしまうような気がしているのに、なにも出来ずにこうして怯えるばかりの自分が情けなくてどうしようもなかった。
「クローディア……」
彼女の無事を祈ることだけが、今のアーシュラに出来ることだ。
押し入れから飛び出していく勇気は、彼女の胸にいまだ湧き上がらなかった。




