108.信じているから
崖から飛び降りるとすぐに、ミネイの姿が視界に入った。
距離はあるが、イリスは落下の勢いに任せて壁を走るようにして駆ける。
長くは持続しないが、わずかでもミネイとの距離が縮まればいい。
(少しでも、距離を近く……!)
落下するミネイの叫び声が耳に届く。
高さはあるが、海の中に落下すれば、怪我をすることはないだろう。
だが、ここの付近の海には《魔物》が出る。
イリスが危惧したのはそこだ。
数歩、壁を走るように移動したイリスは、強く絶壁を蹴りあげる。
加速するように斜めに落ちるイリスは、丁度ミネイが落下する付近へと飛び降りた。高く水飛沫を上げながら、イリスは海中で周囲の状況を確認する。
ミネイはバランスが取れずに数メートル、海の底で藻掻いていた。
(泳ぎはまだ下手だけど……っ)
アルタに教わったことを思い出す。
潜水の技術はないが――今はそんなことを考えている場合ではない。
イリスもまた、藻掻くようにしながら海の底へと進んでいく。
《紫電》が重りとなって、深く沈むのにはそれほど負担はかからなかった。
(っ!)
イリスはすぐに、異変に気付く。
海の中で藻掻くミネイに反応して、魔物達がやってきたのだ。
イリスの呼吸は長く持つわけではない。
それでも、慣れない水の中で――イリスは剣を振るう。
いつも以上に鈍くなる動きの中でも、イリスは確実にやってきた魔物を打ち倒す。
サイズはそこまで大きくないが、鋭い牙を持った魚類の魔物が数匹。それらをイリスは打ち倒し、ミネイの身体を支えた。
だが、パニックを起こしているミネイは、イリスが身体に触れても暴れるような動きをする。
(くっ、何とか落ち着かせないと――!)
その時、すぐ近くに何者かが落下してくるのが見えた。
それが、アリアであることに気付くのには、時間はかからない。
アリアの飛び込みに反応して、再び魔物がやってくるが――それらをアリアが難なく処理しながら、イリスとミネイの下へとやってくる。
水の中でも自在な動きを見せるアリアが、ミネイの首の後ろに強い一撃を加える。
ビクリ、と大きな動きのあと、ミネイが意識を失ったのが分かった。
アリアがミネイを抱えて泳ぎ、イリスはその後に続く。
海岸沿いの方まで泳ぐように移動して、何とか海から出ることができた。
「はっ、はぁ……」
――呼吸もギリギリ。
それこそ、泳ぎが得意ではないどころか、昨日アルタから習ったばかりのイリスは、本当に命がけだったと言えるだろう。
他方、アリアの方は一切呼吸を乱すことはなく、イリスの方へと近寄ってくる。
「まだほとんど泳げないのに、無茶しないで」
「……仕方ないでしょう。アリアだって、ロットーさんにあんな無茶を……」
「それは仕方ない。この子、イリスの跡をつけてたみたいだったから」
「私を……?」
「アルタ先生とイリス――それにわたしも、かな。一緒にいることが多いから、何か気になってたみたいだよ」
ちらりと、アリアがミネイに視線を送る。
ミネイは気絶したままだが、どうやらイリス達とアルタの関係について、探ろうとしていたようだ。……おそらく、彼女からすれば、学園の講師と大貴族の娘の『スキャンダル』のようなものでも期待していたのかもしれない。
当然、そのようなことなど起こるはずもなく――イリスとアルタの近くでは、いつも戦いばかりだ。
だが、ミネイに怪我がなかったことに、イリスは心底安堵する。
「……起きたら色々説明しないといけないかもしれないけれど……無事で良かったわ」
「この子は大丈夫。それより、早く上に戻らないと」
アリアが崖の上を見据えて言う。
おそらく、すでに崖の上では死闘が始まっていることだろう。
《剣客衆》のゼナス・ラーデイと、ルイノ・トムラ。いずれも実力者であることには違いない。
ただ、ルイノはすでに圧倒的な強さを以て、剣客衆の二人を打ち倒している。
ゼナスに対しても、遅れを取るようなことはないかもしれない。
それでも、イリスはあらゆる可能性に備えて、上に向かうつもりだった。
「……そうね。すぐに戻るわ」
「うん。早く行こう――」
「アリア、あなたはロット―さんをお願い」
「! イリス……?」
イリスの言葉に、怪訝そうな表情を浮かべるアリア。
おそらく、アリアにとっては想定外の言葉だったのだろう。
「まだロットーさんの意識が戻っていないわ。それに、敵もこれで全員とは限らない。あなたは、他のクラスの子のこともお願いしたいの」
「……イリスは、一人で戦いに行くの?」
「ええ。……心配をかけて、いつもごめんなさい。でも、私が決めたことだから」
イリスはアリアにそう言うと、アリアが小さくため息を吐きながら答える。
「いいよ。イリスはそういう子だから。……だから、心配なんだけど。それでも、灯台のところには先生もいるだろうし。何かあれば、きっと先生が助けてくれると思う」
「……そう、ね。でも、今回は――違うの。私が、先生を守りたいと思っているわ。そんなこと、言える立場にはないのかもしれない。けれど、先生は私のこと、信じてくれていると思うから」
イリスが危機に陥れば、きっとアルタは助けてくれる。
その考えは、きっとイリスの中にある甘えだった。
アルタはイリスに『頼ってもいい』と言ってくれる。
本当に困った時は……イリスもアルタに頼るつもりだ。
けれど、イリスにも夢がある。
『最強の騎士』になるという、誰にも譲れない大きな夢が。イリスにはそれを叶えるだけの力があると――アルタは認めてくれている。
だからこそ、イリスのやるべきことは、すでに決まっているのだ。
「アリアも私のこと、信じてくれる?」
「……その聞き方はずるいよ。でも、イリスが決めたのなら、わたしはイリスのこと――信じる。だから、絶対に負けないでね」
「ええ、もちろんよ」
イリスは微笑みを浮かべて、アリアの頭にそっと手を置く。撫でるようにすると、アリアは安堵したような表情を浮かべた。
そんな二人の時間はすぐに終わり、イリスは真っすぐ崖の上を見据える。すでに始まっているだろう頂上の戦いに、イリスも足を踏み入れるのだ。
これより始まるのは――信念をかけた、『三つ巴』の戦いだ。
本日続刊が決まりまして、2巻も出ることが決定致しました!
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