逃げられないことを、分かっていたのかもしれない
「アンナ、いい加減にしろ」
「貴方こそ、いい加減にして下さい!」
雨の降りしきる中、濡れた電柱にしがみつく私と、口元を引きつらせ私を睨みつける男。
腕を掴まれ連れて行かれること五分。
だんだんと人気がなくなっていくことに恐怖を感じ、とうとう私は電柱にしがみついてしまった。
「帰るぞ」
「お願いだから、一人で帰ってください!」
しばらくそんなやり取りを続けていると、仕事帰りのサラリーマンが、また私たちの横を通りかかった。彼で三人目だ。やっぱり、何事かという顔でこちらを見ている。
そりゃ、傘もさしてないし、いい大人(私)が電柱に抱きついているし、不思議に思われて当然だ。
でも私だって必死である。なりふり構っていられない。この電柱を離したら、間違いなく私は、この王子にどこか遠い所へと連れて行かれてしまう。
人違いだと言葉にしても全く聞く耳を持ってくれないのだから、行動で反抗の意を現すしかない。
けど、サラリーマンは僅かに歩調を緩めただけで、立ち止まってくれなかった。先の二人もそうだった。
後ろに立っている男の目つきの悪さと薄着に疑問くらい持つかもしれないけど……一見、害がなさそうに思えるらしい。
もし、王子が力づくで私を無理やり連れていこうとしているのなら、サラリーマンもただ事じゃないと感じ、介入してくれる可能性もある。
けど王子は私の気が済むのをしばらく待つことに決めたようで、気が付けば、怒り心頭の彼女(私)を、いらつきながらも見守る彼氏(王子)という構図になってしまっていた。
二回目に通りすぎて行ったサラリーマンは、私たちの様子に笑みを浮かべただけだった。そして今もまた同じように、スーツの後ろ姿が遠ざかっていく。
“助けて”って叫べば良かったのかな。
ちょっぴり後悔し、ため息をつくと、サラリーマンの足が止まった。改めるように、こちらを振り返り見た。
希望の光が見えた瞬間、頬に微かな暖かさを感じた。そっと体に重みがのしかかってくる。なぜか後ろから、王子が私を抱きしめてきた。息が頬にかかる。くすぐったくて、体に変な力が入ってしまう。
遠くから小さな笑い声が聞こえてきて、私はハッとする。サラリーマンが私たちを見て、苦笑している。そのまま踵を返し、歩き出してしまった。“単なる痴話げんか”と判断されてしまったに違いない。
そうだよね。電柱ごと彼女を抱き締める彼氏なんて、なかなか見ないシチュエーションだよね。結局仲良いんじゃんって、勝手にやってろって思うよね。
「何で後ろから抱きついてくるんですか。早く離れてください」
「寒い。そろそろ限界」
「じゃあ早く帰ってください、一人で」
目と目を合わせそう答えれば、舌打ちが返ってきた。と同時に、王子の手が腹部へと降りていく。そのまま力を込め、私を電柱から引きはがしにかかった。
もちろん、私も電柱を離すものかと、しがみつく手に力を込める。でも寒さでかじかんだ指先に、思うように力が入らない。
「ボクもアンナ様の体温が恋しいんだけどー」
突然、声をかけられた。私はゆっくり視線を下げ、声の主を確認する。
足元に犬がいた。見覚えのあるソレに、ぞくりと背筋が震えた。さきほど、王子に捕まる前に私に話しかけてきた犬だ。
「さ、さっきの、喋る犬ーー!」
「アンナ様。めっちゃ寒い。ボクのこと、ギュウッッとして。できれば素肌で抱き締め――……オフッ!」
私を電柱から引きはがしにかかっていた王子が、長い足をすっと伸ばした。そして犬の眉間に向かって、勢いよく踵を落とす。
苦悶の叫びあと、言葉になっていない悲鳴を上げながら、喋る犬はその場でグルグルと円を描いた。そして私の後ろにいる人物に向かって、恨みのこもった眼差しを向ける。
「いきなり何するんですかっ! いっ、痛いじゃないですかぁーーっ!」
肩越しに後ろを振り返ると、王子の口元が見えた。それが突然、にやりと笑みを形作る。
「そうか。痛いか」
しごく嬉しげに、王子がそうのたまった。そして再び、犬の眉間に足をぐりぐりと押し付ける。
(……こっ、こっ、この人……あぶない!)
体感温度が、一気に下がった気がした。
王子と犬モドキのやり取りに気を取られていると、指先が滑り電柱から離れてしまった。慌てて掴み直そうとしたけれど、出来なかった。一瞬の隙さえも、王子は見逃してくれなかったのだ。
視界が回転する。気が付けば、私は王子の肩の上だった。担がれてしまった。
「さ、帰るぞ」
「いやーーっ! おろしてーーっ!」
腕に下げていた鞄を両手で持ち直し、背中をバシバシ叩いてみたけれど、足取りは全く乱れない。私の抵抗は、まったく効いていない。
彼の肩に手を置き、ぐっと上半身を持ち上げた瞬間、くらりと視界が揺れた。思わず、手に力がこもった。
いつも自分が見ている景色より、今見えている景色はずっとずっと高くて、激しく恐い。この後どうなるのか分からないという恐怖を感じているから余計かもしれない。実は私、極度の高所恐怖症だったりする。
ぴたりと王子の足が止まる。
様子を伺えば、王子は私の手に視線を向けている。彼の肩をぎっちり掴んだ私の手をだ。
腰に添えられていた大きな手から、強い力が伝わってきた。その瞬間、視界がまた変化する。彼と向き合う形で、私は地面に降ろされた。
地面に足が付くと同時に肩から離れた私の右手を、彼が掴みとる。掴んだ手をじっと見つめたのち、彼は両手で私の手をそっと包み込んだ。
「冷たいな……凍ってしまいそうだ」
力加減も触れ方も、なんだか不器用に思えた。彼の手の熱が、じわりと私の中に染み込んでくる。大切なものを分けてもらっているような、そんな気持ちになってしまう。
手を振り払おうとは思わなかった。
……なぜか、彼の熱に心地良さを感じてしまったのだ。
そんな自分の気持ちに戸惑っていると、王子が再び可愛らしいくしゃみを繰り返し始めた。
そのくしゃみ、全く似合っていない。イメージとかけ離れている。
笑っちゃ悪いかなと思う。けど、やっぱり堪えることが出来なかった。笑ってしまう。王子が鼻をすすった後、“笑われていることが心外だ”という顔をしたから、余計面白くなってしまう。
体の芯まで冷えてしまっているというのに、心がほんのり温かくなった気がした。
足元に近寄ってきた喋る犬が、私を見上げた。
くりくりと大きな瞳。ちょっとだけ傾けられた顔。微かに震えている身体。改めて見ると、可愛らしいなぁと思ってしまう。
「あのー……アンナ様……?」
でも言葉を発せられると、怖い。ほんと、喋らなければ良いのに。
思いが通じたのか、犬は私と王子を交互に見た後、口を閉じてしまった。そのまま黙ってしまう。
王子は前髪をかきあげたあと、私の手を掴み直し歩き出した。前のめりになりながら、そしてぬかるみに足を取られながら、私は彼に続くことを余儀なくされる。
そこから五分も歩かなかったと思う。
休日、家族で楽しめる森林公園として、比較的名の通っている公園に入り、遊歩道をずんずんと進んでいく。
この森林公園は、一部有料のスペースがある。その中には、昔々、この地を開拓し発展させたとされる人物が住んでいた古いお屋敷が残されている。ここ周辺の小学校では、社会科見学で必ず来る場所だ。
遠くに、入口の門が見えてきた。
公開時間は午後四時くらいまででとっくに門は閉まっているし、雨が降る公園に人気もなく、ひっそりとしている。
けど、王子はまっすぐ突き進み、ぴたりと閉ざされた門の前で立ち止まった。と同時に、私は再び担ぎ上げられてしまった。
「……え?……ぎ、ぎゃーーー!」
そして、高く高く飛んだ。地面が遠くなっていく。
目の前に壁のように存在していた門を、まさか上から見降ろす日が来るなんて。
肩の上でも怖いというのに、五メートル(体感)くらい飛びあがられ、気を失いそうになった。口から何かが出て行きかけた。
地面に降りると、肩の上から降ろされる。足元がおぼつかない。
「それは……雨か、涙か、鼻水か?」
王子が私の顔をじいっと見つめながら、問いかけてきた。たぶん、全部当てはまっていると思う。言われなくても分かる。私の顔はいろんな水分でぐちゃぐちゃだろう。
王子は、とてとてとてと近づいてきた喋る犬の首根っこを、がしりと掴み上げると、そのままこちらへと差し出してきた。私は訳も分からず受け取ってしまう。
「それで拭け」
「「えーーっ!?」」
犬と叫び声のハーモニーを奏でてしまった。
獣臭いと思いながら腕の中にいる喋る犬を見降ろせば、汚いなぁというような瞳と視線があわさった。
「ついて来い」
王子はそれだけ言うと、再び奥に向かって歩き出した。
肩越しに、後ろを振り返り見た。門は閉まっているし、塀は私じゃ越えられない。例え、この門が開いても、塀を乗り越えられたとしても、逃げられない気がする。
諦めの気持ちをため息にし吐き出して、私は前を向く。
行きたくなんてないのに、大きな背中に従うかのように、足がゆっくり動き出した。ひっそりとたたずむ屋敷の隣りを通り、裏庭へと向かう。
裏庭の林はそれなりに広い。
いくつか点在している水田を繋ぐように、ちょっぴり複雑な散策路が造られていて、小学校の時は探検でもしているような、ワクワクしたものだ。
今はちっともワクワクしない。このまま道をそれ、迷子になってしまいたい。
王子はこの道を知っているのだろうか。ふとそんな疑問が頭をよぎった。
彼は辺りをキョロキョロすることなく、まっすぐ前を見て歩いている。初めてここを歩く人にはとても思えない。
これで王子が道に迷っていたら面白いけど……たぶん、それはないだろう。私は犬を抱きかかえる手に、ぎゅっと力を込めた。どこに行くのだろう。激しく不安だ。
抱きしめる力が強すぎたせいか、喋る犬が腕の中でもがき始めた。
「降ろしてください」
「あ、はい」
力を抜けば、喋る犬は地面へと飛び降り、前足を踏ん張り、ぐっと背筋を伸ばした。
犬なだけに温かかった。ぽっかりと胸元に隙間が空き、そこに容赦なく寒さが吹き込んできた気がして、私は犬の代わりに自分の鞄を抱きしめた。
突然、前を歩いていた王子が急に振り返った。悲鳴を上げてしまった。
「先に行け」
「はい?」
私は一歩横にずれ、王子の向こう側を見た。井戸があり、道はそこで切れている。私にどこに行けというのだろう。林の中の道なき道を進んでいけということだろうか。
眉根を寄せると、トントンっと王子が井戸を叩いた。
まるで王子の呼びかけに反応したかのように、井戸が徐々に発光し始めた。水が溢れだす。眩いほどに輝く水が、だ。驚きすぎて言葉が出ない。
「あのー……ディオ様ー……あのー……」
喋る犬が、王子の足元に歩み寄っていく。
「アンナ、先に行け」
言葉を探している様子の犬に目を向けることもなく、王子は私に再びの命令を下した。
この人は私に何をさせようとしているか、全く分からない。けどもし、その溢れる水の中に私を飛び込ませようとしているのなら……。
「絶対無理」
私が苦手なのは高い所だけじゃない。他にあと二つある。そのうちの一つが“水”である。子供の頃、おぼれたことがあるのだ。
ぶんぶんと首を横に振ると、王子は私に視線をとどめたまま、こちらに向かって一歩進み出た。
「なぜこんなに手間をかけさせる」
ゆっくり、しかし確実に近づいてくる王子に対し、鞄を振り回し抵抗する。
けど雨で濡れた持ち手が滑り、私の手から鞄が飛んでいってしまった。近くにいた犬から苦痛の声が上がる。当たってしまったらしい。
「無事、役目を果たした暁には、お前を解放してやる。それは前から約束してあるだろう?」
王子が私の腕をガシリと掴んだ。互いの顔の距離が一気に近くなる。
「今離れることは……俺から逃げることは、絶対に許さない」
王子の厳しく冷たい声音が、心に突き刺さった。彼がニヤリと笑みを浮かべのるのを目にし、ぞくっと背筋が震えた。
逃げられないことは、たぶん、分かっていた。
朝、彼とのことを予知したあの瞬間から、私は分かっていたような気がした。