「俺の嫁はお前で良い。なにか問題があるか?」
「アンナ、早くしろ」
「早くしろと言われましても」
ディオ王子は私を見降ろし、鋭く命令する。それに対し、素直に顔をしかめると、彼は眉根を寄せた。なぜ俺の命令に従わないのだ。たぶんきっと、この言葉で今の彼の心の中はいっぱいだろう。
彼が私の夢の中にあるどこぞの国の王子なのだとしても、私にとってはただの“変な人”である。上から目線で下される訳の分からない命令に、従う理由などどこにもない。
彼から、彼の後ろへと、視線を移動させ、私はしかめっ面具合を三割増しにした。井戸から溢れだす水は、いまだ金色の輝きを放っている。
水が大嫌いだ。
大人になった今、プールや海水浴などとは完全無縁の生活を送っている。そんな私にこの王子は、井戸の中へ、水の中へ飛び込めと言ってくる。しかもこの得体の知れない水の中に、だ。
じっと奇妙な井戸を見つめていたら、だんだんと、そこは天国への入口なのかもしれないと思えてきた。いや、地獄かもしれない。この王子は、天国よりも地獄の住人だと言われた方がしっくりくる。
「早く行け」
「あのー、ディオ王子ー」
王子が私に命令する。そして犬モドキが王子の足元で沈痛な面持ちを浮かべ、私はひたすら首を振る。そのループが三回ほど続いた後、王子が苛立たしく息を吐き出した。
「行けと言っているだろう!」
「水が、嫌いなんです!」
怒りの声を上げられたことにカチンときて、私も荒々しく言い返す。すると、王子の片眉がピクリと動いた。
「水が嫌い?」
「はい、大嫌いです」
「……それは初耳だな」
「えぇ。そうでしょうとも! 今日初めて貴方と喋りましたから!」
言いながら、私は拳を握りしめた。
王子は初耳だと呟いた後、そっと井戸の縁に腰掛け、考える人のポーズを取り始めたからだ。
私の話、ちゃんと聞いてますか!?
「あのー」
王子をあふれ出る水の中へ突き落とすべく一歩を踏み出した時、犬モドキが私に声をかけてきた。
視線を下に落とすと、黒目がちの瞳と目が合った。声音と目線から、犬モドキの気遣いを感じる。
「……あのー」
再び犬がそう繰り返すのを耳にすると同時に、私はハッと顔を上げた。誰かの気配を真横に感じたからだ。
「うっ、ぎゃあっ!」
いつの間にか、王子が私の隣に立っていた。そして王子と認識するよりも前に、横抱きに抱え上げられてしまった。
「なっ、何するんですかっ!」
「怖いというのなら、仕方がない。俺が手伝ってやろう」
「手伝う!?」
「あぁ。放り込……いや、お前は知らなくていい。目でもつぶっていろ」
今、絶対、この(変)人、放り込むって言おうとした。
「離して! 絶対嫌! 水嫌い! しかも輝いてるし、もうほんと訳わかんない! 降ろして!」
「分からないことなどあるわけないだろう。お前は本当に何を言っているんだ。変だぞ」
それはお前だーー!
グーで王子の胸元を叩くと、珍しく、王子の足がふらつき、止まった。
彼は眉根を寄せ、「うっ」と微かな唸り声を口から漏らしたあと、私をぎろりと睨みつけてきた。口元だけに笑みを湛えて。
「お前は俺に掴まった。逃げ切ることが出来なかったのだから、お前の負けだ。もう反抗するな」
私は開きかけていた口を閉じてしまった。
反抗するなって言われても、人違いであり、着いて行きたくもないので、それは無理である。けど、王子の凄みにぞっとしてしまった。
もともとの冷ややかな面持ちに、怒りを足されてしまうと、恐い。ひやりとした気持ちにさせられ、体感温度もぐっと下がってしまった気がする。
あぁ。どうしよう。
王子が歩き出せば、どんどん井戸が近くなってくる。これからどうなってしまうのか、想像もつかない。
逃げ出したい。けど……この手から、逃げられない。私の体を支え持っている彼の手を見て、私は小さく息を吐き出した。
「うっ、わっ」
王子が跳ねた。飛び乗ったのは、先ほどまで彼が座っていた井戸の縁である。
私を抱えていた手が、そっと動き出す。彼の腕が前に伸びていく。自分の体を支えていた箇所に不安定さを感じ取り、私は恐怖でうろたえてしまう。
身体のすぐ下には、輝く水が溢れだしている井戸の穴がある。このまま王子は私の体を落とすつもりなのかもしれないけど、私の身長よりも穴の直径の方が短いから、頭や足を打つことは確実である。絶対痛い。
「何も恐いことなどない。大きく息を吸え」
ハッとし王子を見たあと、私は言われるがまま息を吸い込んだ。
「俺もすぐに追う」
彼がニヤリと笑った瞬間、支えていた腕から力が抜けた。ぐっと歯を食いしばり、ぎゅっと目を閉じた。
次に私を襲ったのは、予想していた井戸にぶつかることによる衝撃ではなく、温かな水の感触だった。恐々と目をあければ、私はきらきらと輝く金色の粒子に取り囲まれていた。
緩やかな流れが生まれれば、粒子は光の帯へと変化し、私と一緒に流されていく。泳げないから、私はその流れに身を任せることしかできない。
そっと腕を掴まれた。顔を向けると、王子がいた。力強く引き寄せられ、彼と体が密着した。
この人が原因でこんなことになってしまっているのだから、こんな気分になるのはおかしいのだけれど……彼の顔が見えた瞬間、彼が言葉通り追いかけてきてくれたことに、私はホッとしてしまった。
ホッとすれば、だんだんと息が苦しくなってくる。どこに連れて行かれるのか分からないけれど、それまで私の息はもつだろうか。
私たちに寄り添い流れるように、すぐ脇に犬モドキの姿も見えた。
犬って、こんな風に泳げたっけ?
テレビか何かで見かけた、プールで犬が犬かきする姿を思い出しながら、そんなどうでも良いことをぼんやり考えていると、突然、王子の体がビクリと震えた。
視界の先にいる犬モドキも、何かに気付いたかのようにピクリと顔を上げる。
何ごとかと不思議に思ったその瞬間、私たちの進む流れと逆らうように、一人と一匹の姿が、すぐ脇を流れていった。
薄い笑みを浮かべてこちらに手を振ったその女性は……私だった。
いや、違う。
夢の中で見た、私に激似のあの女性だ。
その脇には、やはり夢の中で見たあのキツネのような生き物もいる。
女性と一匹は、勢いを弱めることなく、そのまま私たちの目の前を通りすぎていった。
王子が女性に向かって指をさし、その直後、ゴボッゴボッ――……っと、口から大量の空気の泡が排出された。
犬モドキが慌てて王子の肩もとに噛みつくと、私たちのまわりに拡散されている光が濃くなり、流れも一気に早くなった。
ひたすらその早さに耐えていると、またもや前触れもなく、水の流れが勢いを消した。
動きが止まった私たちに向かって、真上から光の帯が降りて来る。視線を上昇させると、遥か頭上に何か円形のものがあるのが見えた。
そしてもう一つ気づいたものに、私も危うく息を吐き出しそうになってしまった。王子が白目を剥いている。早く水の中を出ないといけない。そう思い、必死にもがいてみるけれど、私たちの体は僅かに上昇するだけだ。
危機なのは、王子だけじゃない。私ももう息がもたない。苦しい。
驚きと動揺と焦りの中、足元から地響きのような音が聞こえてきた。水が振動している。水底は見えない。けど大きな力の気配はびしびし伝わってくる。
じっと眼を凝らしていると、光の塊が見えた。押し上げられているかのように、近づいてくる。
すぐに私たちは光に取り囲まれ、巻き込まれるように、一気に上昇し――……上昇し……、水の外へと放り投げ出された。水でできた生物の体内から、吐き出されたような気分である。
短い草の上へと、王子と共に落下する。
荒い息を繰り返し、そしてむせかえりながらも、私は彼の顔を覗き込んだ。
ぐったりしている。顔の青白さと、乱れた前髪が顔に張り付くさまが、具合の悪さを引き立てている。
「しっかりして下さい!」
一気に体を起こそうとしたけれど、それはできなかった。王子の手がしっかりと私の腰を掴んでいたからだ。
こんなひどい状態でも、私を捕まえた手が離れていかないことに、複雑な気持ちになってしまう。
「ねぇ……」
彼をどう呼んでいいのかわからず、口ごもってしまった。
「お願いだから、しっかりして。眼を開けてください」
そっと体を揺すると、眉根がぴくりと動いた。
王子が反応してくれたことに口元を綻ばせたとき、近くに転がっていた犬モドキがむくりと起き上がり、ぶるぶると身を震わせた。そして王子の様子に気付き、大きく目を見開いた。
「アンナ様、ちょっと王子から離れてください!」
「えっ?……あ、はい」
可能な範囲で身を引くと、犬モドキがぴょんと王子の胸の上に飛び乗った。
「王子!」
「――ぐっ」
「ディオ王子!」
「――うぐっ!」
「起きてください!」
そして、その場で力強く跳ねまくっている。
「痛いっ!」
ディオ王子はぱちりと目を開けると、素早く身を起こし、手で犬モドキを弾き飛ばした。
彼はしばらくごほごほと咳き込んだ後、ふうっと息を吐き出し、私を見た。無表情を崩さぬまま、問いかけてくる。
「お前は、誰だ」
私は大きく口を開けてしまう。
「今更それ聞く!?」
立ちあがり、王子をビシッと指さした。
「だいたい、私は最初から人違いだって言ったじゃない。それを貴方が聞く耳持たずで」
王子はそっと視線を彷徨わせた後、私を見た。
“そんなこと言っていただろうか?”なんて顔をされてしまったから、怒りのボルテージが上がっていく。
「言いました! 何度も言い続けました!」
「俺も、途中でおかしいなって思ったんで、王子に言おうとしたんですけど」
体に草をつけたまま、犬モドキがトテトテトテと近づいてくる。
「気づいてくれてたんだ」
思い返せば、確かに犬モドキは王子に何度も話しかけていた。
「はい。ぎゅっと抱きしめられた時、いつもより胸が小さ――……」
じろりと睨みつけると、犬が黙った。
王子は片膝を曲げ、膝に肘を突き、前髪をかき上げた。おまけにため息もつく。
「ということは、水流の中で会ったのが、本物のアンナということなのか?」
本物という言葉に、胸がちくりと痛む。その言い方だと、まるで私が偽物みたいじゃないか。
王子は私をじっと見て、再びため息をつく。
「俺にはお前もアンナに見える。アンナにしか見えない。違うのか? 何が違うんだ? ……あぁ、頭が混乱してきた」
頭を抱え出した王子から目をそらし、私は現状を把握するべく辺りを見回した。
森の中にある長閑な湖畔のほとり。豊かに広がった芝生の上に、私たちは腰を下ろしている。現在いる場所を一言で説明すると、そんな感じだ。
目と鼻の先にある湖の水が金色に輝いている。井戸から溢れだし、私をここまで運んできた水の色と一緒だ。井戸と湖の水がなんらかの形で繋がっているのかもしれない。
私は湖面を指さした。
「良いんですか? 早くあの女性を追いかけなくても」
「そうだよ、ディオ王子。休んでなんかいられないって。どっちにしても、この女性をあっちの世界に帰さなくちゃいけないんだし、さっさと行きましょう」
犬モドキ、良く言った。帰ろう。帰りたい。
感謝の気持ちを込めて、犬モドキに微笑みかけると、尻尾を振って答えてくれた。
「また行くのか……あの寒い所へ」
私と犬モドキの気持ちとは裏腹に、王子は嫌そうに呟いた。
「……そう言えばお前、先見の力を使って俺から逃げていたじゃないか」
「先見?」
なんだそれはと言い返そうとしたけれど、思い当たる節があることに気付いて、私は口を閉じた。予知しただろうと言われてしまうと、確かにそうなのだ。目の前に王子が現れ、捕まってしまうことを、私は予知していた。
「その上、瓜二つだ。だから俺は、お前がアンナ本人だと信じ疑いもしなかった」
本当に、何で私、あの女性に似ているんだろう。ここまで似ていなければ、巻き込まれなくて済んだのに。
それに“特技”のことだってそうだ。予知できなければ、結果も変わっていたかもしれない。王子の言葉を受け、しんみりしてしまう。
気持ちが沈んだまま、王子に視線を戻し……私は眉根を寄せた。王子は両足を前に投げだし、くつろいでいる。
ぼんやりと遠くを見つめるその顔からすっかり休息モードに切り替わっていることが伝わってくる。動く気なし!
「王子! 休んでないで、もう一度行きますよ!」
犬モドキも、王子のやる気のなさに気づいたらしい。焦り気味に喝を飛ばす。
しかし、当の本人はそれに対して、ほんの一瞬煩わしそうな顔をしただけだった。何か言いたそうにじっと私を見つめてから、小さく息をつく。
「……別に、もう行かなくてもいいんじゃないか?」
「良くないです! 私を元の世界に連れて行って下さい!」
恐怖の言葉を吐き出され、たまらず私も口を挟んだ。
勝手に帰れとひとりこの場に残されてしまったら、どうして良いのか分からない。途方に暮れてしまう。
あの金色の水の中に飛び込めば、いいのだろうか。ちらりと湖へと目を向けると、ぶるりと体が震えた。恐い。嫌だ。水以外を通って自分のいた世界に戻る方法はないのだろうか。
「……あ……れ?」
私は湖を見つめたまま、瞬きを繰り返す。徐々に、黄金色の輝きが消えていき、透明度が増していく。驚きと共に嫌な予感が湧き上がってくる。
「湖が」
ぽつり呟けば、犬モドキが私の隣に並び、同じように湖に目を向けた。
「あぁ。だめだ、消えちゃう。これじゃあ、しばらくあっちに行けない」
「えーー!? そんなの困る!」
湖へと走りだそうとすれば、後ろから腕を掴まれてしまった。
「こうなってしまうと、飛び込んでも意味がない」
腕を掴んできたのは王子だ。そして人の気も知らずに、平然とそんなことを言ってくる。
「安心しろ。これは一時の休息のようなものだ。時が過ぎれば輝きは戻り、向こうの世界との繋がりも復活する」
「一時って、どのくらい!?」
「七日も経たずに戻ると思いますよ」
七日……軽く言ってくれる!
私の中で一週間はほんの一時ではない。それだけ家に帰らなかったら、家族は涙ながらに捜索願いをだし、仕事は無断欠勤で……確実にクビだ!
「ヤダヤダ、本当に困――……っ!」
声を大にした瞬間、耳鳴りに襲われた。
頭を手で支え、身を折り、治まるのを待とうとしたが、ダメだった。耳鳴りから眩暈へと移行し、立っていられなくなり、私はその場に両ひざをついた。
「おい! しっかりしろ!」
瞳を閉じ、暗転した世界の中に、王子の声が響き渡っている。
聞こえるのは王子の声と、もう一つ。軽やかに近づいてくる、馬の蹄の音。
「誰かが、近づいてきている」
木々に挟まれた小道を猛スピードで近づいてくる、馬を操る男性の背中が見えた。
その背に太い剣。
男は紺色の軍服を身に着けている。詰襟の下には、十字を模った勲章のようなものが揺れている。
口元が見えた瞬間、男がぐっと歯噛みした。
男の気迫に圧倒され、私は勢いよく目を開けた。
「男の人がここに向かっている」
ものすごい執念のようなものまで伝わってきて、そっと両腕で自分の体を抱きしめた。
「男?」
「怒ってるかも……もしかしたら、逃げた方が良いかもしれない」
王子は私の言葉に眉を寄せた後、視線を上げる。その足元で、犬モドキも警戒するように辺りを伺っている。そして、何かに気が付いたらしく、ぴくりと耳を動かし、ついでにクンクンと匂いも嗅ぎ始めた。
「……あちゃー。ここにいるって気付かれちゃったみたいだ。もしかしたら、アンナ様の失踪も勘付かれているかも」
そう言うなり、ピンと立っていた耳が後ろに倒れた。
「かもな」
王子も気づいたらしいが、おどおどしている犬モドキとはちがい、表情は変わらない。
「どうする?」
犬モドキは、王子に話しかけながら、困った瞳で私を見た。反射的に身構えてしまう。
「どうもしない」
ふっと王子が笑みを浮かべた。
「中身が偽物だろうが、本物だろうが関係ない。一時でも俺から逃げられるくらいに先見の力を使えているのだから、問題はない。俺の嫁はお前で良い」
「はぁっ!?」
王子は私に体を向け、偉そうに顎をそらした。
「なんだ? なにか問題があるか?」
「大問題です!!」
噛みつくようにそう反論すると、王子が一気に私との距離を詰めてきた。
冷たい指先に顎を持ち上げられ、至近距離には王子の顔。
「お前はしばらく、フィルネイ国第二王子である俺の嫁だ。くれぐれも粗相のないように」
冷たくも優美な微笑みを浮かべられ、しばらくの間、私は息をするのを忘れてしまった。




