第十五章:盤上から消えた駒
(視点:主人公レビルス)
ムンダの戦いが終わった夜、カエサル軍の陣営は、奇妙な静寂に包まれていた。
勝利の雄叫びはとうに止み、兵士たちは皆、口を閉ざして、黙々と後始末に当たっている。
負傷した仲間を運び、夥しい数の死体を埋葬し、壊れた武具を修復する。
その光景は、勝利に沸く軍隊というよりは、巨大な嵐が過ぎ去った後、静かに身を寄せ合って傷を癒す、生存者たちの集落のようだった。
その夜、陣営の一角で、ティトゥス・ラビエヌスの、簡素ながらも階級にふさわしい、丁重な葬儀が執り行われた。
カエサル自らが、その亡骸の横に立ち、弔いの言葉を捧げた。
それは、敵将へ送る言葉ではなかった。
ただ、一人の偉大なローマ軍人の死を悼む、静かで、そして短い言葉だった。
その葬儀が終わった後、レビルスはカエサルの司令部天幕に呼ばれた。
天幕の中には、主君が一人、静かに座っていた。
テーブルの上には、葡萄酒の杯が二つ。カエサルは、レビルスに無言で席を促した。
二人きりで、静かに葡萄酒を酌み交わす。
天幕の外からは、負傷兵のうめき声や、見張りが立てる物音が、風に乗って微かに聞こえてくる。
どちらからともなく、言葉を発することはなかった。
この戦いの凄惨さと、その勝利がもたらしたものの重さを前にして、いかなる言葉も空虚に響くことを、二人とも理解していたからだ。
どれほどの時間が、過ぎただろうか。
沈黙を破ったのは、カエサルだった。
彼は、杯の中の赤い液体を、まるで遠い過去の記憶を覗き込むように見つめながら、独り言のように、静かに呟いた。
「……彼は、最後まで私の知るラビエヌスだった。頑固で、不器用で、そして、誰よりも誇り高い男だった」
その声には、勝利者の傲慢さも、敵を打ち破った満足感もなかった。
ただ、あまりにも大きなものを失ってしまった男の、深い、そして癒しようのない疲労と悲しみが滲んでいた。
レビルスは、何も答えなかった。
ただ、自らの頭の中にある、巨大な計算盤の上から、一つの駒が、永遠に消え去ったことを、静かに実感していた。
ティトゥス・ラビエヌス。
それは、この内乱という長大な戦いにおいて、最も予測困難で、最も手強い「駒」だった。
彼の動きは、常にレビルスの計算の斜め上を行き、デュッラキウムでは、完璧なはずだった自らの計算を、完膚なきまでに打ち破ってみせた。
その存在が、レビルスに計算の限界を教え、そして彼を計算者として、さらに成長させたのだ。
その駒が、もう、ない。
盤上から、完全に取り除かれた。
これから先の戦いは、どれほど楽になるだろうか。
だが、レビルスの心に満ちたのは、安堵ではなかった。
彼は、目の前で静かに杯を傾ける主君の横顔を見つめていた。
そして、悟った。
ラビエヌスという駒を盤上から取り除いたのは、カエサル自身だ。
それは、カエサルが、自らの片腕を、自らの手でへし折ったのだということに等しい。
ガリアで十年、背中を預け合った最高の戦友。
自らの戦術を、誰よりも深く理解していた最大の好敵手。
その存在を、このローマから、永遠に消し去ってしまった。
その喪失感は、一体どれほどのものだろうか。
ラビエヌスは、自らが信じるDignitas(尊厳)のために死んだ。
ポンペイウスへの恩義という、彼がどうしても譲ることのできなかった、たった一つの誇りのために。
そしてカエサルは、その亡骸に最大限の敬意を払うことで、かつての友が命を懸けて守ろうとしたDignitasに、応えたのだ。
レビルスは、この長すぎた内乱が、今、本当に終わったのだと、静かに悟った。
ポンペイウスが死んだ時でもなく、小カトーが自決した時でもない。
カエサルが、自らの半身とも言えるラビエヌスを、この手で葬り去った、この瞬間こそが、内乱の、本当の終わりなのだ。
盤上から、最強の駒が消えた。
そして、その盤上には、あまりにも大きな、そして決して埋まることのない空虚だけが、残されていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
面白いと思っていただけましたら、ブックマークや下の評価(★★★★★)で応援していただけると、大変励みになります!




