グラックスの能力
静かだが、凛とした響きの声音の主は、グラックス先生だった。
グラックス先生の少し後ろに、メイベルさんが心配そうに首を出している。きっと、騒ぎを聞いたメイベルさんが先生を呼びに行ったに違いない。
「ボンズー・タン」
グラックス先生に名前を呼ばれて、ボンズー・タンは、ぴくっ、と体を揺らして先生を見た。
「ラグロック島の跡取りであるあなたが、こんな騒ぎを起こして、いったいどうなっているんです。今がどんな時か、あなたにもお分かりなはずです。仲間内で争うなど、お父上、…いや、ナブー女王もお聞きになれば、どれほど落胆するでしょう」
グラックス先生に叱責されたぽっちゃり若様、ボンズー・タンは、黙って俯いたまま立ちつくしていたが、やがてぶるぶると体が震え出した。
「こいつは…、こいつはスパイだ…」
「何を…」
「だから、ナブー女王のためにも、俺がここで始末するのだ」
絶叫したボンズー・タンは、隣の男から銛を奪って構え、肩で息をしているライアンめがけて転がるように走り出した。
「馬鹿な真似を」
走り出したボンズー・タンを見たグラックスは、素早く顔の左側を覆う眼帯を取り、左手をボンズー・タンに向かって突き出した。
色彩を失っていたはずのグラックスの左眼が白く光り、突き出した腕の周りを白い霧のような煙が渦巻きはじめた。白い煙は腕の周りを舐めるように蛇行しながら、グラックスの手元へと集まっていく。
グラックスが、「はっ」、と短く気合いを放つと、広げた手のひらの前でひとつになっていた霧の塊りが、弾かれたように猛烈な勢いでボンズー・タンに向かっていった。
チノンばあちゃんを庇って身を固くしていたライアンの目の前で、グラックスの手から飛び出た霧の塊りが、勢いよく走りこんできたボンズー・タンに正面からぶつかった。その瞬間、目が眩むほどの閃光が煌めいた。
その場にいた誰もが、眩い光に目を閉じた。
光が収まり、恐るおそる目を開けると、信じられないことが起こっていた。
必死の形相でライアンに襲いかかっていたはずのボンズー・タンの姿が、かき消えていたのだ。
「若、おい、若はどこに行った」
男たちがきょろきょろと辺りを探す。が、どこにも若様の姿は無かった。
「あんたがやったのか」
ボンズー・タンの横に常に寄り添っていた男が叫んだ。
「グラックス先生、あんた、いま何をやった。妖術で、若に何をやったんだ」
男はグラックスの胸ぐらを掴んで詰め寄った。
「心配するな。診療所の前を探してみろ」
「な、なにっ」
少しの間顔を伏せて考えを巡らせていた男は、「そんな馬鹿な」と呟いて、もう一度グラックスを見た。
「お前ら、診療所の前を探してこい」
配下の男たちに指示を出した男は、グラックスに向きなおった。
「人を、瞬間的に別の場所に移動させたっていうのか。あんた、化け物か」
「もっと恐ろしい術が、まだまだあるよ。私の診療所で暴れたんだ。それなりの罰を受けてもらうのは当然だろう」
男はグラックスから目を離すと、ちっ、と舌打ちした。
「隊長ぉ、若様がいました。腰が抜けて立てないみたいだけど、大丈夫そうです」
部下の報告を聞いた隊長は、腕組みをしたままグラックスを睨みつづけている。
「今度同じようなことを起こしたら、次はラグロック島まで飛ばすよ、とボンズー・タンに伝えておいてくれ」
グラックスはチノンばあちゃんを背負ったライアンを立ち上がらせ、メイベルに支えられながら診療所の中へ入っていった。
部屋に戻り、少しぐったりしているチノンばあちゃんをベッドに寝かせると、思い出したようにシャルロに打たれた背中が痛み出してライアンもベッドに横になった。
しばらくするとメイベルさんが部屋に入ってきた。
「あらまあ、二人ともお疲れだったわね」
メイベルはチノンばあちゃんの体を触り、「少し熱いわね」と言って毛布をかけてあげた。
「夕飯の支度はいいから、少し寝なさい、ばあちゃん。後でお薬持ってくるわね」
いつもなら「年寄り扱いするな」と悪態をつきそうだけど、よほど怖い思いをして疲れたのだろう。チノンばあちゃんは目を閉じたまま何も言わなかった。
メイベルが振り返って、「あ、そうだ」と言った。
「ライアン、先生が呼んでいるけど、診察室に行けそう」
ライアンはちょっと呻きながら身を起こし、「はい」と言った。
「病院の中で暴れるなんて、あの人たちには出ていってくださいって、先生に言っておいてよ」
部屋を出るライアンに、「診察室にパグナー茶を淹れてあるから、飲んでね」とメイベルが付け加えた。
診察室に行くと、グラックスもベッドに横になっていた。
顔色は真っ青で、眼帯を外したまま露わになっている顔の左側には網目状の痣が濃く広がっている。チノンばあちゃんより具合が悪そうだ。
「大丈夫ですか。だいぶ具合が悪そうですよ」
「このまま少し静かにしていたら、すぐによくなるよ」
ラグロック島の船乗りたちを黙らせたほどの大声とは程遠い、弱々しい声でグラックスは笑った。
「いったい何があったんだい」
乱闘騒ぎの経緯をライアンが話すと、「銛を物干しに、ね。チノンばあちゃんらしい」とグラックスは笑った。
「ラグロック島は、ゴダール諸島の中でも漁業が盛んな島で、特に島の南の漁場で獲れるキュッシという大型の回遊魚はとっても美味しい魚でね。ラグロックの猟師は、その大きな魚を海に飛び込みながら銛一本で仕留めるんだ。だから彼らにとって、銛は大切な体の一部だといってもいい。それを物干しざおに使われて怒る気持ちも分からんではないが、ボンズー・タンはやりすぎだ」
「グラックス先生が使った術。あれも、アグーの涙の力を使ったんですよね」
ライアンが椅子に腰かけると、「そこのパグナー茶、メイベルさんが淹れてくれたんだ。飲むといい」とグラックスが言った。
蜜入りのパグナー茶を飲むと、少し気が落ち着いてきた。
アグーの涙の力で、人を丸ごとどこかに飛ばしてしまう術が使えるなんて、先生は教えてくれなかった。光石の効力を隠していたことに、ライアンはなぜか少し腹を立てていた。
「実は、あの術を、人に使ったのは初めてなんだ」
「え…」
「これを動かしたいと思ったとき、例えば、そこらへんにある本とか果物なんかだけど…、動かしたい気持ちでふと手をかざすと、白い霧が飛び出して本や果物が思っていた場所に勝手に移動していたことが何回かあってね。これもアグーの涙の力なんだと気づいていたんだが、この術は気力を激しく使うようで、体へのダメージが大きいんだ。だから何年も使っていなかったんだが、あのときは君とチノンばあちゃんに危害が及ぶかもしれないと思って咄嗟に使ってしまった」
「術の名前はなんですか」
「術の名前なんか無いよ。そう、瞬間移動術とでも言っとくかな」
「そのままですね」
「どういう理屈で瞬間移動できるのかは分からないが、本や果物とは違う、生身の人間だ。ボンズー・タンの体に、何も影響が出なければいいのだが」
「見に行った人が無事だと言っていたから、大丈夫なんでしょう」
「そうだね。後で、謝りがてらボンズー・タンの様子を診てみるとしよう」
「ほかに、どんな恐ろしい術があるんですか」
グラックスはちょっと首を傾げ、「はは」と笑った。
「さっきの私の言ったことだね。ほかに恐ろしい術なんてないよ。ちょっとお仕置きの意味も込めてね。脅しておいたんだ」
うっすらと露で曇った窓の外に目をやると、外はもう真っ暗だった。薪焚き小屋で温められた温水が床下を通っているので部屋の中は暖かいが、日が落ちて外の気温はだいぶ下がっていることだろう。
ぐう、と腹が鳴った。
「ふふ。メイベルさんに言って、夕食を用意してもらいなさい。しばらく横になっていれば、そのうち回復するから、私のことは心配しなくていい」
「はい」
グラックスの毛布を掛け直して、ライアンは部屋を出ていった。




