動きだす歯車
裂氷草を託されたライアンは、ミローブ山の山小屋からグラックスの診療所を目指して空を駆けた。降下と上昇を繰り返し、王宮が面する湖を一気に飛び越えて先を急ぐ。東の空がうっすら明るくなって、眼下に見える雪を被ったセリーン廟が次第に色を取り戻しつつあった。広場に着地して、すぐに石畳を蹴って空へ飛び出す。広場に人気は無かったが、ライアンの姿を見た人は、大きな鳥が急降下して地面に降り、すぐに空に飛び立っていったように見えただろう。
体の重さを変えることで、考えられないような速さで移動することができる。スダジイがくれた、ザレのこの能力。考えずに意識することで、この能力を前と同じように使えている、とライアンは思った。
だけど…、何だろう、この不思議な感じは。
落ちるときと上がるときに感じる空気の流れ。東から西に向かって吹く、やや強い風。それ以外にも、身体の周りに風を感じる。自然にできる風ではなく、大気と一体となった自分の思考に連動して、自分自身が操る風のようなもの。
ライアンは大きく弧を描いて跳ねながら、身体の周りに存在を感じる風の正体は何なのか、それを探りながら先を急いで行った。
陽が昇り、辺りが完全に明るくなったころ、ライアンは診療所に着いた。そして幸いなことに、グラックスは診療所にいて、もう起きていた。
挨拶もそこそこに、ライアンが裂氷草を手渡して事情を説明すると、グラックスは手にした草を何度も眺めまわした。
匂いを嗅ぐと、小さな花びらには匂いはないが、葉の方には微かに揮発性のツンとした独特の匂いが鼻の奥に残った。いい匂いではないが、確かに薬の原料となるような野草の匂いだと、グラックスにはこれまでの経験から思えた。
茎から伸びるぎざぎざとした葉は透き通るような灰色で、葉脈が透明な葉の中に閉じ込められた血管のように見える。形状は、間違いなく伝説の裂氷草である。驚きながらもグラックスはすぐに薬の調合に取りかかった。ライアンがザレの能力を発揮して、まさしく空を飛ぶようにして戻ってきたことは、話していないし見てもいないので、グラックスはまだ知らない。
それよりも、初めて見る裂氷草にグラックスは興奮していた。マーサ女王の裂氷草の物語はもちろん知っていたが、処方した薬をどのように調合したのかまでは残っていない。しかも、手元にある裂氷草は一本だけ。
そして、薬は時に毒にもなるということを、グラックスは恐れていた。
製法、分量、服薬の仕方に副作用。薬に関する情報が全く無いなかで、いきなり人に投与するにはリスクが大きすぎる。だがしかし、イゲルの母親の容態を考えれば、早くこの裂氷草を処方したい。伝説が本当ならば、症状からみて、イゲルの母親にきっと効くはずだ。危険を顧みず、伝説の裂氷草を採ってきてくれたライアンたちの苦労にも報いなければならない。
それから三日をかけ、裂氷草を調合した薬の試作が三つできあがった。
裂氷草を煮だした煮汁を冷ました液体が一つ。擂り潰して寒天に混ぜたものが一つ。そして火で炙って乾燥させ、それを擂って粉状にしたものを丸く固めたものが一つ。マーサ女王の物語では、『裂氷草を薬として与えた』としか記されていないから、他のものを混ぜたり、何か特別な方法で精製したりというよりは、ごく普通のやり方で作ったのではないかと考えると、思いつくものはこの三つだった。
グラックスは試作した三つの薬を少しだけ、時間を空けて口に入れてみた。特に病の症状の無いグラックスには、何の変化も起らない。検証するには時間があまりにも短いが、どの方法を取っても人体に害になるようなものではないと結論付けた。
グラックスは三つの薬をイゲルの家に持参して、母親にまず冷ました煮汁を飲ませた。充分な食事をとっていない状況では、胃腸に吸収されやすい液体がいいと考えたからだ。症状に改善がみられなければ、あと二つの薬を試すつもりだった。
昼と夜の二回、裂氷草を煮だした飲み薬を飲んだイゲルの母は、次の日の朝、目を覚ますとすぐに、「お腹が空いた」、と枕元にいたイゲルに言った。熱も下がり、血色も良くなって、グラックスも驚くほど劇的に良くなったのだ。
万病に効くというマーサ女王の伝説の裂氷草が実在したことと、その驚異的な効能に、皆は驚嘆した。危険を顧みず、雪山に登って裂氷草を探しに行ったイゲルは、帰ってきたときはその短慮を怒られたり冷やかされたりしたが、実際に元気になった母親の姿を見ると、子どもながらに勇敢だった、偉い子だなどと、ちょっとした英雄扱いをされるようになった。はじめはかんかんになっていたイゲルの兄も、皆に褒められているイゲルをそれ以上は怒れなくなったようだった。
薬を処方したグラックスも、さすがはベリー家の先生だ、と下にも置かない丁重な扱いを受けたが、イゲルの母があまりにも簡単に具合が良くなったことで、逆に本当に裂氷草の効果だったのか疑わしい思いもあった。たまたまイゲルの母が快方に向かっただけではなかったのか。だが状況を見れば裂氷草の薬が効いたことに疑いの余地は無いように思える。診療所に戻って、残っている裂氷草のことをもっと詳しく調べたい。標本が少ないから、調査隊を出して、ほかに自生している裂氷草を採取したい。もし採取できれば、それを育て、栽培して増やすことはできないものだろうか。などとあれこれ考えていたが、回復祝いの宴会に半ば強引に誘われて、帰るに帰れなくなってしまったのだった。
イゲルの母に処方する裂氷草の薬をつくることにグラックスが忙殺されている間に、ジン王女が熱を出した、と朝早くに王宮から往診の要請が届いていた。ミローブ山に登って風邪をひいてしまったらしい。イゲルの無事を心配するあまり、心労が溜まったのかもしれない。
手が空かないグラックスは、シャルロに代診を頼んだ。
無表情に引き受けたシャルロは、往診用の鞄を持って王宮へと向かう途中、シナイ商会に立ち寄った。
ギリコは居なかったが、対応に出た柔和な顔の男に診療所のシャルロだと伝えると、男は「ああ」とほほ笑んで、「少しお待ちください」と言って奥に消え、しばらくして戻るとシャルロの前に小さな小瓶を置いた。
「ああ、済まない。いくらになるかな」
ギリコに値段を聞いていなかったので、あまりにも高かったら諦めようとシャルロは思っていた。
「いりません」
「え」
「シャルロさんからお代はもらうな、とギリコから聞いていますので」
そう言われたものの、受け取るべきか悩んだシャルロは手を伸ばすのをためらっていた。
「何の薬か私は知りませんが、効くと良いですね」
男の言葉に促されるようにシャルロは小瓶に手を伸ばし、往診用の鞄に詰め込んだ。ギリコに勧められた『惚れ薬』を手に入れたのだ。
伏し目がちに男を見たシャルロは何も言わずに店を出て、鞄を胸に抱え、辺りを見回しながら、誰もいない雪道を歩いて行った。
その頃、ルナデアの浮き島が、誰にも気づかれることなく、ゴダール島にかなり近い海にまで移動して停泊していた。島がいくつもあるゴダールは、浮き島が隠れるのに好都合な海域でもあった。
その浮き島に、ゴダールの商船と比べて一回りは大きい船がゆっくりと近づいて接岸した。その船の両舷からはムカデの足のように櫂が突き出ている。




