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第4章 風変わりな家庭教師

 それから一週間後の夕方、でっぷり太った中年のおばさんが、カズのマンションにやってきた。そのおばさんは短めの髪にゆるやかなパーマをかけていた。顔は太った体と同様にまん丸で、銀縁眼鏡の奥には人懐っこい目がのぞいていた。深い紺色のスーツとシンプルな白いブラウスという服装は、あっさりとした印象をカズに与えていた。彼女は母が見つけた家庭教師で、橋本と名のった。

「まあ、ゆっくりぼちぼちとやっていきましょうね」

 橋本さんは甲高いけれども芯のある声で、カズに笑顔で語りかけた。その言葉を聞いて彼は拍子抜けしてしまった。家庭教師というからには若くてきりっとしていて、颯爽としたイメージがあったからだ。

 しかし橋本さんはベテランだった。カズが勉強でつまずいているところを、たちどころに見つけ出した。

「カズオ君、一番大事なことは文章を読むことよ。あなた、本、読まないでしょ」

「うん、でもマンガ本は読んでいる」

「マンガ本は絵を見てからセリフを読むでしょ。あれって、ほとんど脳が働いていないのよ。まあ、たしかにマンガは面白いけどね」

 橋本さんはそう言いながら、自分の鞄の中からジュニア向けの本を何冊か取り出した。

「この中から面白そうな本を一冊選んで、来週までに読んでおくこと」

「えっ、マジ?」

「わからない漢字は適当にすっとばしていいから。ともかく大体の意味がわかればいいの」

 カズはこの家庭教師のおばさんが気に入った。彼女は小学校の教師みたいに細かいことを言わない。冷ややかな眼差しも感じられない。それから自分のことを結構マジメに考えてくれるみたいだ。

 その日は算数を教えてくれた。

「だいたい算数がわかんなくなるのは、四年生ぐらいからだからね」彼女はそう言うと、さっそく鞄の中から四年生の問題集を取り出した。たしかにカズが算数を嫌いになったのは、四年生くらいのときだ。カズはこの太った家庭教師の話が的をえているので感心した。それに小学校の教師みたいに嫌味なことをひとつも言わず丁寧に教えてくれるので、カズにしては珍しくやる気が持続していた。

「カズオ君、すごく長いこと集中して勉強できるじゃない。すごいわねぇー。それだったら本一冊、来週まで読めそうね」

 橋本さんは丸い顔をさらに丸くして言った。

 カズは生まれて初めて勉強をしていて楽しいと感じた。そのことについて自分自身も驚いていた。

(母さんの人脈もたいしたものだ)そう思いながら、彼は母の得意そうな顔を思い浮かべた。

 カズは橋本さんの言うとおり本を読もうと試みた。最初は本の世界になかなか入っていけなかったが、我慢して読み進めるとだんだん面白くなってきた。当初は少年向けの推理小説しか読まなかった。そのうちにファンタジー小説、伝記、ノンフィクションとジャンルが少しずつ広がってきた。

 カズは自分がこんなに本が読めるとは思ってもみなかった。一時間二時間と長時間読書に集中ができるなんて、小学校の授業では考えられないことだった。橋本さんから借りる本だけでは満足できず、小学校の図書室を利用するようにもなった。そして図書室で会った同級生のタナカと本のことでいろいろ話したりもした。自分を飾らないで、本当に興味のあることを話し合えるということは素晴らしく楽しいことだと、カズは感動した。(ウソの自分じゃなく、本当の自分を出して話ができる。なんて楽しいのだろう!)カズは本に感謝したい気持ちでいっぱいだった。

 また、いろんな本を読むことによって、カズの頭の中で様々な物事が繋がるようになってきた。彼がこれまで見たり聞いたり感じたりした世界が一挙に拡がったのだ。世界は汚いことや偽りや暴力以外に知的で美しいものが存在している。そして楽しいことや面白いことがたくさんある。カズはいじめられているときには全く見ることができなかったものが、少しずつ見ることができるようになっていった。

 橋本さんはカズあるとき、こう語りかけた。

「勉強するってことは、この世界の成り立ちを理解することよ、カズオ君。私たちが日ごろ接している場所以外にも世界は存在しているの。それから表面的には見えないけれど、その見えないものの中に大切なものが含まれている場合もある。学ぶということは、あなたがこの世界をどういうふうに見て、あなたがその世界にどう関わっていくのか、それを自分で、自分自身で考え決定することなのよ」

 カズはその言葉の意味を、半分も理解できていなかった。しかしその言葉はカズにとってとても大事だと本能的に感じたので、忘れないようにノートにメモしておいた。

 橋本さんはカズが小学校を卒業するまで、毎週一回やってきた。彼女が来るようになって、カズの学校の成績は母も驚くほど急激に伸びた。


 カズは九月からいじめられることはなかった。カズの代わりにいじめの標的にされたトオヤマは十一月くらいから遅刻や早退、欠席を繰り返し、三学期からはまったく学校に来なくなった。まわりの同級生はトオヤマのことを「根性なし」「いくじなし」「ヘタレ」と罵っていたが、カズにはそうは思えなかった。学校を休む、そのことはカズがいじめられているとき、ずっと考えていたことだった。トオヤマが学校へ来なくなったとき、カズはどうして自分は学校を休まなかったのだろうと疑問に思った。いじめられて、授業もわからなくて、学校が大嫌いだったのに。おそらく母にいじめのことを知られることが恐ろしかったのだろう。カズは母にだけはよけいな心配をかけたくなかった。一生懸命働いて二人の生活を必死で支えてくれる母を、カズは大好きだった。だから学校を休むことはどうしてもできなかったのだ。


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