第3章 新学期の衝撃
憂鬱な新学期がやってきた。いじめられっ子にとっては、今日からまた心に鎧をつけて、いじめを受け止めなければならない日々が始まる。
カズはクリーム色の重そうなドアの前で一瞬立ち止まり大きく深呼吸した。それからおもむろにドアを開けて教室に入っていった。クラスの誰とも目を合わさないように、うつむきかげんで自分の席につく。
教室は妙に静かだ。夏休み中の出来事について自分以外の者は楽しそうに話しているはずなのに、とカズは不思議に思った。
担任の教師が少し強張った顔をして教室に入ってきた。ホームルームの始まる時刻になっていた。
担任の教師は、クラスのハセガワ君が夏休み中に交通事故で死んだことを緊張した面持ちで告げた。彼はクラスの中心的な存在だった。カズに対するいじめに関しても残虐なアイディアを次々と考え出し、そのリーダーシップを遺憾なく発揮していた。
カズは教師の話を聞き、驚いて反射的にあたりを見回した。しかしクラスのほかの人間はすでにその事故のことを知っていた。のけ者にされているカズだけが、ただ一人そのことを知らされていなかったのだ。
カズはハセガワが死んだということを聞き、悲しいとも淋しいとも想わなかった。勉強もスポーツもでき、楽しそうに学校生活を送っていた彼が、もう二度と目の前に現れることがないと思うと不思議な気がした。そのときカズが生まれて初めて死というものを、身近に感じた瞬間でもあった。あんなに元気で楽しそうに笑っていたいじめっ子があっけなく死ぬのに、俺のようないじいじしたいじめられっ子がどうして生きていられるのか、そんな疑問も湧き起こった。自分は何のとりえもなく、自信も当然なく、人からは馬鹿にされ、いじめられ、笑われて(唯一母親だけは例外だったが)どうして生きているのだろうとも考えた。だが彼は不思議なことに、これまでに死にたいと考えたことは一度もなかった。死を初めて身近に感じた今でさえ、そうだった。
しかし彼はそんなことを今まで考えたこともなかったので、だんだん頭の中が混乱してきた。そして精神的にも疲れてきてしまったので、そのことについて考えることをやめてしまった。
その日、カズに対するいじめはなかった。授業が終わって校門を出てからも、カズは半信半疑だった。頬をつねったり、顔を叩いたり、尾行されていないか後ろを振り返りながら、自分のお気に入りの場所に向かって急いだ。
次の日もその次の日も、カズはいじめられなかった。彼にとって、こんなことは初めてだった。いじめられ続けると、何もない状態はかえって不安になってくる。もしかすると、みんなはものすごく手の込んだひどいいじめを考えて準備しているのかもしれない。彼はそう思い始め、臆病な小動物のように四六時中あたりを見回したり、机の引き出しや自分の鞄をチェックしたりした。けれども何事も起こらない。(どうも変だ)
彼は自分に対する視線が、以前と変化していることに気がついた。これまではいつもクラスのみんなから軽蔑をふくんだ冷ややかな視線を感じていて、常に緊張していた。クラス中にカズがなにかの罠にはめられて、無様な姿をさらすことに期待する雰囲気もあった。そんな悪意に満ちた空気がカズのまわりにはなくなっていた。
いじめがなくなって四日目のことだった。
昼休み、クラスの男の子が数人近づいてきた。
「おい、カズ、話があるんだけど」
カズは緊張した。やっぱりいじめられるんだと身構えた。
「これからトオヤマとは口きかないようにしてくれないかな」
「あいつエラソーだよな。カズもそう思うだろ」
カズは思いがけない言葉にびっくりして、「ああ、ウン」と答えるのが精一杯だった。
「トオヤマは勘違いしているから、しめないとなぁ」
そう言いながら男子たちはカズの席から離れていった。
カズは胸のうちで(やったぁ!)と叫んでいた。ついに自分に対するいじめが終わったのだ。そして哀れな生贄としてカズの身代わりにトオヤマが選ばれたのだ。(トオヤマは交通事故で死んだハセガワの後を、いつもついてまわっていた奴だ)
カズはトオヤマの席を見た。彼は硬い表情で下を向いていた。ふと視線を感じたのか、彼は顔を上げカズと目が合った。その目は哀れな色を帯びていた。そして何かにすがるような光もあった。カズはトオヤマの悲しそうな表情に一瞬胸をつかれたが、その感情を振り払うように首を振り右手で自分の胸を叩いた。もし自分がトオヤマに同情するような素振りを見せたら、その瞬間からまたカズに対するいじめが再開することになる。カズにとって、その行為は絶対にしてはいけないことであり、いじめ世界では悪しき行いであった。世間一般でよいことはここでは悪いことなのだ。そのことを身にしみて感じていたし、いじめ世界で学んだ教訓だった。
それにカズには、今からやらなければならないことが沢山あった。それは彼が再びいじめの標的にならないように、自分自身を変えることであった。たとえばみんなと共通の話題を持つことができるように、情報を収集しなければならないといったことだ。くだらないテレビ番組について楽しそうに話をしたり、騒音に聞こえるいわゆるヒット曲もチェックしなければならない。ファッションにも気を使わなければいけない。(ともかく、みんなと違っていてはだめだ!)出しゃばらないように、自然と溶け込むように、集団に同化しなければならないのだ。カズはこのチャンスを逃してはならないと本気で思っていた。ともかく表面的でいいから、みんなと仲良くしなければならなかった。
しかし彼には大きな弱点がひとつあった。テレビや音楽、ファッションそれに顔の表情は、努力すればなんとかなりそうだ。けれども勉強がまったくできない点については、彼自身の努力だけではどうしようもならない気がした。少しくらい成績が悪いのはたいしたことではないが、明確に他の生徒たちと劣っていると、圧倒的に不利な立場になってしまう。
「そんなこともわからないの」と軽蔑されて蔑まれる。カズは再び周りからの冷たい視線を浴びている自分を想像すると、胃がきりきりと痛んだ。
けれども小学校の教師たちに教えてもらう気は毛頭なかった。彼は教師たちをみんな高圧的でおまけに表面的なところしか見ることのできない人間だと思っていた。教師たちの目には、カズは落ちこぼれで目つきの悪い陰気な子、クラス全体の成績のレベルを下げている問題児としか映っていなかった。カズはそんな人間たちに教えを請うことなど、死んでも嫌だった。
いかにして成績を上げるか思い悩んでいるある日、母が夕食をレストランでどうかと誘ってきた。カズは、また生命保険の大口の契約がとれたのかなと思った。母の機嫌のよい日は、きまって豪華な夕食となるのだ。
カズは肉汁が滴るステーキを頬張りながら、自分がこれまでゴキブリやなめくじを食べさせられたことを母さんに話したら、どんな顔をするだろうと想像した。その言葉を聞き、
「あなたがだらしないから、いじめられるのよ!」と非難されるだろうか。それとも、いじめっ子の家や小学校の校長室に怒鳴り込むだろうか。はたまた「ふーん」と聞き流すのだろうか。カズはいつも母が何を考えているのか、よくわからなかった。他の親みたいにわが子にべたべたするわけでもないし、そうかといって放置しているわけでもない。どちらかといえば彼にとって、非常に居心地のよいスタンスに彼女はいた。
「最近何かいいことあったの、カズ?」
母もステーキを口に運びながら、突然訊いてきた。
「えっ、どうして」
カズは少し驚いて、口の中にあったもので、食道が詰まりそうになる。(この人はいつも突然、こんなことを言ってくる!)
「そりゃあ母親だからね。いわゆる母は何でも知っているっていうことよ」
「ふーん」
「まあ、あなたもいろいろ大変だと思うけど、よく我慢して学校に行っているよ。私だったら今の学校なんか行かないと思うけどね」
カズは母が自分のおかれていた状態をすべて知っていたのかと思った。また逆に全然わかっていないのかもしれないとも思った。しかし彼女の話はなぜかすんなりと胸に入ってくる。
「母さん、俺さ、頭悪いだろ」
「うーん、頭は悪いとは思わないけど学校の成績は確かに悪い。まあ勉強していないからしょうがないか」
「なに他人事みたいに言ってんだよ。自分の息子のことだぜ」
「学校の勉強で役立つのは、読み書きと四則計算くらいなものでしょ。母さんなんて学歴はないけど、親子二人まともに暮らしていけてるじゃない。学校の成績がよくても、仕事ができない人はたくさんいるよ」
母は白ワインを飲みながら、何だか楽しそうだった。
「それはそうだけど、やっぱり勉強がわからないと学校に行ってもつまらないし。俺も少しは真面目にやろうと思っているけど、今の授業、ちんぷんかんぷんなんだよ」
「あれだけ怠けていたら、そりゃあわからないでしょう」
「なに評論家みたいなこと言ってんだよ。まったく、それでも母親かよ!」
「おお、コワッ!」
「真面目に聞いてくれよ。それで俺、塾へ行こうかと考えているんだけど、いいかな」
「へーぇ、本気なんだ」
母はワイングラスに入った透明な液体を見ながら笑っている。カズは食後のコーヒーをしかめ面で飲みながら、嬉しそうな母の顔を不思議そうに眺めていた。
「カズ、母さん、あなたが勉強をする気になったことは嬉しいよ。どういう理由かわからないけど。だけど塾に通っても多分、あなたの成績は変わらないと思う。落ちこぼれ専門の塾ならいいけど。それよりも、いい家庭教師つけてあげる。あなたが勉強でつまずいたところを見つけてもらって、しっかりケアしてもらったほうが手っ取り早いよ。母さんにまかせなさい」
母は芝居がかったように、左のこぶしで豊かな胸をたたいた。そしてまた白ワインを飲み続けていたが酔っ払っているわりには、彼女の話はまともで説得力があった。カズはとりあえず彼女の言ったことに従うことにした。




