第2章 緑色の夢
六年の夏休みが終わる頃のことだった。勉強が苦手のカズは、夏休みの宿題がほとんどできていなかった。また同級生からばかにされ、担任の教師から甲高い声で叱られると思うと、気分がむしゃくしゃした。いつもの遊びで気を晴らそうと思い、木々が鬱蒼と茂っている神社に足を運んだ。陽はかなり西に傾いており、ときどきツクツクボウシの鳴き声が寂しく聞こえる。あたりは誰もおらず広い神社を独り占めしているようで、それだけで彼は気分がよくなってきた。
ふと大きな木を目に留めるとカズは愛用のカッターナイフを取り出した。その木に傷をつけてやろうと思い、目には陰険な光が宿った。しかしその大きな木はカズの思いどおりにはならなかった。その木は硬くそして強かった。彼のカッターナイフでは、ほとんど傷つけることはできなかった。カズはなんだかその木に馬鹿にされているような気がして、だんだん腹が立ってきた。「ちくしょうー」と叫びながら、彼はカッターナイフを思いっきり木に突き刺した。するとカッターナイフの刃は「バキッ」と乾いた音をたて、あっけなく折れた。次の瞬間カズの左目の上に鋭い痛みが走った。折れたカッターの刃が跳んできて、彼の左眉に突き刺さったのだ。そしてそこから流れ出た血が、彼の左目の視界を奪った。辺りの光景が赤薄くぼやけたようになり、「ひーっ」と情けない声をあげ、腰を抜かしてしまった。
だが幸い傷はさほど深くはなく、カズは恐る恐るカーターナイフの刃を引き抜いて、傷口を水道の水で洗い流すと人心地ついた。それから辺りを見回し、誰もいないことを確認した。もしクラスの誰かに見られたら、それこそ一生このことでからかわれ、馬鹿にされ、笑われ続けられるだろう。彼はいつもそんな風にしか考えられなかった。
その夜、カズは夢を見た。暗い森の中を一人で歩いている夢だった。緑がかった靄に覆われ視界が悪い。彼はどこまで歩き続けても森を抜けることができない。それどころか道は徐々に険しくなっていく。まるでけもの道のようだ。足元から疲れが少しずつ這い上がってくる。
突然、頭上からパラパラと何かが落ちてくる。「蛭か!」と思い、あわてて首に吸い付いたものを無理やり剥がす。(しまった。蛭を無理やり剥がすと、皮膚がむけてしまうんだ)そう思い手に剥がしたものを見ると、それは太ったミミズだった。(ミミズなら血を吸われることはない。よかった)と夢の中で安心している自分がいる。しかし、手のひらを見ると真っ赤な血がべっとりついていた。心臓が大きく鼓動する。(なぜだ! どうして血がついているのか?)血は左眉からだらだらと流れ出ている。しかし不思議と痛みはない。早く水道の水で洗い流さなきゃと焦る。(水道はどこ、水道はどこ、どこにあるんだ?)カズはハンカチで傷口を押さえながら、早足に歩き続けた。そのうち気がつくと、血が止まっていた。傷口を覆っていたハンカチもまったく汚れていない。そして辺りを見回すと、すでに森を抜けていた。どこか見覚えのある神社の境内にカズはいた。目の前を見ると、大きな木の幹にカズのカッターナイフが突き刺さっている。その部分から、緑色の液体がだらだらと流れ落ちていた。また突き刺さったカッターナイフはブルブルと細かく震えている。(その緑色の液体は、その大きな木の血なのだ。カッターナイフに刺されて、木は痛がって、血を流して、苦しんで、泣いている。泣いているんだ。どうしよう、どうしよう!)
「うわーぁ!」
カズは自分の泣き声で目をさました。目のふちはうっすらと涙で濡れている。はあはあと息が荒い。心臓の鼓動が部屋中に鳴り響いていると思えるくらい大きく聞こえる。今見た夢はまるで先ほどまで、自分が体験したようにカズには感じられた。薄暗く湿っぽい森の雰囲気、太ったミミズが蠢く感触、大きな木が流した緑の血、それらはすべて現実のものであるような気がしていた。そして緑色の靄がかかった森の空気がいまだにカズの体はまとわりついている感覚があった。
カズはその後眠ることが恐ろしくて、再度眠ることはできないだろうと思った。けれどもその不思議でリアルな夢を見たことで疲れたのか、知らないうちに眠りこけてしまった。今度は夢をまったく見なかった。