第54話 湖畔から眺める
「どうですか、釣れますか?」
「うーん、まあまあですね……、って、殿下?!」
薬師の仕事を見学した後、屋敷近くの湖畔へとやってきた2人は、小さな椅子に腰を掛けて釣り糸を垂らすメイドを見つけた。
フィリーから声を掛けられてよっぽど驚いたのか、よろけて倒れそうになる体を、リーリャが椅子ごと支えてなんとか体勢を立て直す。椅子のすぐ横にあるバケツの中には弱った魚が5匹ほど泳いでいた。
「ああ、座ったままで大丈夫よ。少し声を掛けただけだから」
急いで立ち上がろうとするメイドを制止したフィリーは、興味深そうにバケツの中で泳ぐ魚を見つめる。
「これはなんていう魚なの?」
「これはトラウトです。ここら辺ではよく釣れます」
「夕食用なの?」
フィリーに促され、釣り糸を垂らしたままのメイドはその質問には答えにくそうであった。しばらく葛藤したような表情を見せた後、気まずそうにこちらを見上げ、竿の先をわずかに動かす。
「えっと、これは私のおやつです……。非番の時にはこうして釣りをして、自分で料理をするんです」
「なにそれ、とても楽しそうじゃない!」
「いいなぁ……、ウチもしたいニャ」
「是非是非! 私の釣り竿で良ければお貸ししますし、屋敷にたくさん釣り竿がありますので」
非番なのにメイド服を着ている理由を尋ねると、メイド服は自分のアイデンティティーなので、こうしてずっと着ているとのことだ。汚さなければ問題はないし、汚したとしても王女付きのメイドであるならば容易に落とすことができるだろう。
それに、屋敷のそばで私服の女性が釣りをしていたら怪しい目で見られる可能性がある。非番であっても敷地内でメイド服でいるのは、所属を示すという意味で理にかなっているのかもしれない。
「よく屋敷のお食事に出てくる魚は、こうやって釣っているの?」
「そうですね……、釣っているときもあれば、投げ縄で一気に捕っていることもありますし、市場で買ってくることもあります。屋敷は人数が多いので、罠を仕掛けて大きめのナマズを捕っていたりもします」
「そうなのね」
「ただ、時折一人前のトラウトを丸々塩焼きやムニエルで提供させていただくことがあると思うのですが、そういうときはメイドや手の空いた使用人で釣っていたりします。息抜きも兼ねさせていただいています」
実は、私が釣ったのを食べていただいたことがあるんですよ、と恥ずかしそうに、でも少しうれしそうに彼女は教えてくれる。風に吹かれて、静かなこの湖畔で釣りをする休日というのは、王都ではできない豊かなことであろう。
普段は屋敷の中から眺めている湖を、こうして日の本で眺めてみる。
風が頬を撫でると、しばらくして湖面は風の動きを表すように揺れて、時折飛び跳ねる小魚は、着地点から円状に模様を作り出す
わずかな波が打ち付けられる岸にしゃがみ込み浅瀬を見ると、一センチにも満たない小魚が群れをなして泳いでいて、冷たい水に手を付けると、それを避けるように塊になって移動する。
自然の音は一定ではない。ただ木々がざわざわ揺れているだけではないし、小鳥がさえずると言っても必ずしも同じ声ではない。
ピョロピョロと声高々にさえずる鳥もいるし、ホーホーと静かに歌う鳥もいる。鳴くではなくくちばしを木に打ち付けて音を立てるものもいるし、ただ羽の音だけを響かせるものもいる。
同じ種の鳥であっても、個体によって鳴き方は違う。上手な個体もいれば、リズムのおかしい囀るのが下手な鳥もいる。そんな多種多様な生き物たちにより形成された自然は、常に違う音を奏でる。
必ずしも風は同じ強さで同じ方向から吹いているわけではない。その細かな違いに目を向けること、固定的に物事を捕らえるだけではわからないこともある。
フィリーとリーリャは依然釣りを続ける彼女を見て穏やかな気持ちになった。息抜きは大事だ。こうして休みをもらって、敷地内を歩いてわかった。
フィリーは今の使用人達の働きに感謝している。屋敷内で大きなトラブルが発生することはないし、領土内を回るときの準備は滞りなく行ってくれる。頼んだことはすぐにやってくれるし、それでいて過干渉はしてこない。
王宮とは違い、嫌みを言ってくる人はいない。王宮の使用人は皆なんとなく疲れたような表情をしていた。彼ら彼女らは皆笑みを浮かべていて、穏やかそうに仕事をしている。
自らの疲れやいらだちを表に出すことはない。それでも、空気がピリリとしている。でも、ここは違う。息抜きの効果なのか、自然の効果なのか、それはわからない。ただ、フィリーにとって居心地の良い環境であることは明らかである。
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