1 平穏
七月は暦の上では小暑や大暑と呼ばれ、まとめて暑中と言うだけあって、地上は暑い夏の真っ盛りである。昔からこの辺りの時期には暑中見舞いを出したり、お中元を贈るのが日本の慣わしであったが、最近はだいぶ廃れてきた。
もっとも、大人は暑いからと言って何か変わるわけでもなく仕事も休んでいられないし、子どもだって夏休みが始まるまでは学校に通わなければいけない。
緒小芽市にある緖小芽市役所でも、やはりいつもと変わらず業務が行われている。
市役所5階の農業調整課農業支援係の事務室では、数人の職員が自席で仕事をしていた。
中でも、窓口から2番目に近い席に座る男性はなかなか個性的な風貌だ。しっかりとした口ヒゲも特徴的ではあるが、髪が中央からややそれたところで大きく凹んでいて、その輪郭たるや、まるで精米したてのお米粒である。
見た目が先か、名前に見た目がくっついて来たのか定かでは無いが、上司や同僚からは「おこめ父さん」などと呼ばれている。事情を知らない人からすれば、お米応援のマスコットキャラクターと勘違いするかもしれない。
その名はもちろん本名ではなく、彼には「米田 友蔵」という立派な名前があった。
だが幼少期からのあだ名が変化し、見た目も相まって、いつしか周りは彼を「おこめ父さん」と呼ぶようになっていった。
本人も気を悪くするでもなく、むしろ覚えてもらいやすいからと結構気に入っているぐらいで、たまに窓口で名を聞かれ「おこめ父さんです」と答えてしまうことさえあった。
家族は妻の米さんと、一人娘で11歳になる朝穂がいる(おこめ父さんと米さんからは「朝ちゃん」と呼ばれている)。彼は慎ましいながらも、愛する家族とともに日々を平穏に暮らしていた。
その平穏な暮らしが一時脅かされる事件が起きたのはまだ記憶に新しい所だが、それから半年ほど経った今、彼は再びそれまでと同じような生活を送る事ができているのだった。
この日は七月六日、緖小芽市でも夏が本格化し、稲の成長にも大事な時期だ。
おこめ父さんの職場は、農業を営む人の計画作成の支援や融資の受付・審査、若者や移住者に農業の担い手になってもらうための仕組みづくりなど、農業に関する様々な業務を行っている。中でも担い手不足は全国的にも深刻な問題で、緖小芽市では今年度から、農業に興味がある人向けの相談窓口を設けることになった。
そのために職員も一人増えたのだが、残念ながら期待したほど窓口が混み合うことも無く、せいぜい一日一人か二人相談に来れば良い方だ。しかも軽く話を聞いてパンフレットをもらって帰るぐらいだからその後の支援もさほど増えず、むしろ職場としては職員が増えた分、残業がほとんど無くなった程である。
おこめ父さんがふいに立ち上がった。急ぎがちに席を後にして事務室から通路へと出る。駆け足で通路を颯爽と突っ切ってゆく。急に大事な仕事を思い出したのかと思いきや、向かった先はトイレであった。何のことは無い、のんびりコーヒーを飲み過ぎたせいで急に尿意が襲ってきたのだ。
彼としては、鬼のように仕事に追われる部署もある中で申し訳ないけれど、現状早く帰って家族に会えるし、役所生活でたまにこんなのが有っても悪くはないな…と思っていた。それに、下の世界に行く都合も付けやすい。
トイレでそんな事を考えながら用を足し、おこめ父さんが事務室に戻ってくると、窓口そばのパンフレット台が幾分散らかっていた。そこまでひどいグチャグチャという訳では無いが、今日は特に時間の余裕が有ったので、何となくそのままパンフレットを整理整頓していく。
もう少しみんな、農業に興味を持ってくれると良いんだけどな…
そう思いながら作業するおこめ父さんの背中に、いつの間にか大きな影が重なっていた。気づいて顔を向けると、目の前に体格の良い、外国から来たと思われる人物が突っ立ってこちらを見下ろしていた。
「どわっっち‼」
おこめ父さんが驚いて思わず叫ぶと、相手も少し驚いた様子を見せた。
「Do ua cci…!?」
「あー…その、ドワッチ イズ…state of my …何て言ったら伝わるかな…?that is how I feel…?」
「Che cosa è Douacci?No se encuentra bien?」
大男はそれだけ言うと、じっとこちらを見ている。
(くそっ、聞き取れない…英語クラブやってても、実際に話そうとすると上手く行かないな…)
おこめ父さんが焦っていると事務室から、スッと一人の女性が駆け足でやってきた。
「先輩、たぶんそれスペイン語だと思います」
そう言うと女性は、今度は大男の方を向いて話しかける。
「Lui era semplicemente troppo sorpreso.」
「si!por cierto,…」
恐らくスペイン語と思われる言語で、2人は談笑し始めた。
しばらくして大男はにこやかに「gracias!」と叫びながら去っていった。
「いやあ、舞ちゃんありがとう…さっき何て言ってたの?」
「具合でも悪いの?って心配してたんで『彼はただ、びっくりしすぎただけです』って伝えときました」
的確な返事である。
「さすがだね…スペイン語もペラペラなんだね」
「たまたまです。学生の頃、習ってました」
習っていても、いざ会話となるとどんなに難しいか。それが痛いほど分かるだけに、改めてすごい子だなとおこめ父さんは思った。
この女性は護国舞という。まさにこの相談窓口の開設に伴い4月から臨時職員として雇われているのだが、他の仕事もバリバリこなしてくれている。実は残業がほぼ無くなったのも正直、舞ちゃんの力による所が大きい。確か大学を卒業したばかりだと言っていたが、即戦力で大助かりだ。
同じ職場の貝森先輩や加賀美係長も、本当に良い子が来てくれたと喜んでいる。
仕事時間も終わりに近づき、おこめ父さんが会議室で資料を整理していると、舞ちゃんが入ってきた。
「手伝います」
「えっ、でも悪いよ」
「手が空いたので、大丈夫です。時計回りに一枚ずつ取って行って、最後にホチキス留めすれば良いんですよね?」
「あ、うん…ありがとう、じゃお願いしようかな」
二人はしばし無言になり、黙々と作業をこなしていった。
終わりが見えてきた頃、ふと舞ちゃんが話しかけてきた。
「貝森さんって、いつからこの部署にいるんですか?」
「えっと、確か長かったはずだなあ…僕が来たのが1年ちょい前で、その時点でもう3年とかいたはずだから…そろそろ5年ぐらい経つんじゃないかな」
公務員はその自治体の方針にもよるが、5年ぐらい経つともうその部署のベテランで、別の部署に異動する事も多い。係長になると2〜3年ほどだろうか。
余談だが、おこめ父さんも前の部署では5年間を過ごし、最後の年はそのベテランぶりから「おこめ長老」と呼ばれる事もあった。
視線を向けると、舞ちゃんは少し俯いて何か考えているようだった。
「じゃあ、貝森さんそろそろ、この部署から異動なんですね…」
(えっ、舞ちゃんもしかして、貝森先輩のこと気になるのか!?)
かわいい新入社員の何気ない発言に、おこめ父さんはドキッとした。
(確かに、僕より先輩の方が背もぐっと高いし、顔立ちも濃いしな…いやいや、そんな話じゃない!僕には愛する米さんや朝ちゃんが…ってそう言う話でも無いぞ!)
勝手に心の中で悶えながら、おこめ父さんは何とか平静を装った。
「そ、そ、そうだね…異動の前に色々教わっといた方が良いかもね。僕なんかよりすごく詳しいし、教え方も上手いから」
「あ、そういう謙遜は大丈夫です」
「⁉」
舞ちゃんのハッキリした物言いにおこめ父さんは少々ビックリしたが、次の言葉にはもっとビックリした。
「私、米田先輩のこと、尊敬してますから」
(オワッチ!!)
危うく声に出る所だったがギリギリ堪え、心の中で叫ぶおこめ父さんであった。
(な、何だ今のは…聞き間違いか?いや、確かに言ったよな…そ、そんけ…オワッチ!)
「どしたおこめ父さん、なんか機嫌いいな」
貝森先輩に話しかけられて、おこめ父さんはハッと我に返った。
時計に目をやると、いつの間にか終業時刻を過ぎている。既に係長と舞ちゃんは帰ったようだ。
「あぁ、いや…えっ、機嫌良い感じ出てましたか?」
「ああ、何かずっとニヤニヤしてたぜ…大丈夫か?」
「はい、たぶん…」
そんなに顔に出ていたとは…舞ちゃんに変に思われなかったかが非常に心配である。
「まあいいや…ところで今日、久し振りに飲みにでも行かないか?」
「えっと、すみません…!今夜はちょっと…実は明日の朝早くて」
「おっ、家族とどっか出かけるのか?」
「ええ、そんな感じです」
「そっか、じゃあまた今度な」
「はい、お疲れ様です!」
(明日は朝から色々あるからな…僕もそろそろ帰ろうっと)
おこめ父さんは事務室の電気を消すと、カバンを手にそそくさと役所を後にし、家路へと向かった。
「ただいまー」
「お帰りなさい。豆腐買ってきてくれた?」
「うん、絹ごし2丁で良かったよね?」
「お父さん、お帰りー」
帰宅したおこめ父さんを迎えてくれたのは、妻の米さんと娘の朝穂である。
「ねえお父さん、木ぃやろ、木!」
「ちょっと朝ちゃん、お父さん疲れてるのよ」
「ははは、1回だけね…着替えちゃうから少し待ってて」
米田家では木と称して、おこめ父さんを木に見立てて朝穂が登る遊びが流行っている。流行りと言っても二人の間だけなのだが、娘の木登りへの情熱は冷める事を知らず、かれこれ3、4年は続いていた。
「おととと…朝ちゃん、重たくなったなあ」
「イエーイ、背が高くなったよー」
最後にお決まりの肩車の格好で締め、ゆっくり下に下ろしてあげたところで、米さんがお皿を運んできた。
「さあ、今日は冷奴の冷製スープ仕立てよ」
最近はおこめ父さんの帰りが早いから、家族3人で夕食を取ることも多くなってきた。
「わあ、おいしそう!」
「ほら朝ちゃん、あいさつ言った?」
「今言おうとしてたの!いただきます」
「いただきまーす」
復唱し、親子揃って冷奴から箸を付ける。暑い日の夜にはちょうど良いおかずだ。
「うん、おいしいね。この冷製スープ、食べた事がないなぁ」
「朝穂も!」
「今日はピリ辛風にしてみたのよ。ビールに合うと思って…ってあら、あなた今日はお酒飲まないの?」
「あ、うん…考えてくれたのにごめん、明日出掛けるから…」
「そっか、そう言えば先週、言ってたわね。また地下世界でしょ?」
「あ、はい…そのとおりです」
「一泊二日?」
「いや、日帰りです…」
(米さん、やっぱり冗談だと思ってるんだろうな…)
半年ほど前、おこめ父さんは地下世界に行き、崖から落ちたり電気ショックを受けたり牢獄に入れられたり、脱出して敵を倒したりと色々冒険してきたのだ。
ボロボロになって何とか家に帰還したあと、思い切って家族にだけ、実は自分は地下世界へ行ってきたのだと打ち明けた。
米さんの反応は、「あら、そうだったの…」であった。
余りにリアクションが薄かったので、おこめ父さんは逆に驚いた。地下世界とは交流が続いていたから、たまに土日に行ってくると言うとすんなり「行ってきて良いわよ、気を付けてね!」などと応えてくれた。
(おかしい…余りにアッサリ受け入れすぎている。米さんはちょっと天然な所があるけど…でもとりあえず冗談だと思われてるな、絶対…)
ちなみに娘は余りに突拍子の無い話すぎたのか「絶対嘘じゃん」という顔をしていたから、こちらもきっと信じてないのだろう。
「お弁当はいるの?」
米さんの言葉で、おこめ父さんは我に返った。
「あぁいや…大丈夫っす、向こうで食べて来るんで」
おこめ父さんは明日早いからと、早々にご飯を食べ終えると歯を磨き、寝室に去ろうとした。そこへ米さんが声を掛けた。
「…あなた」
「…ん、どした?」
あれ、もしかして信じてくれるのか?とおこめ父さんは一瞬思った。米さんはおこめ父さんをじっと見つめていたが、やがてプッと噴き出した。返って来たのは全然違う言葉だった。
「…顔にご飯粒付いてるわよ」
途端に朝穂がゲラゲラ笑い出す。
「アハハハ!これじゃ頭とどっちがお米か、わからないじゃーん!」
「ハハハ、これはお恥ずかしい…ありがとね」
米さんと朝穂はリビングで残りの夕食を食べていた。米さんは冷奴の上に箸を載せたまま、難しそうな顔をしている。絹豆腐は柔らかいから、どうやれば崩れずに持ち上げられるか考えているのだろうと、朝穂は思った。
「ねえ、お母さんって、お父さんのどこが良かったの?」
朝穂の言葉で米さんはハッと我に返り、質問に真剣に向き合い始めた。
「うーん…難しいわね…顔はそんなにカッコよくはないし、家事は下手だし、不器用だしね…何でだったかしら」
米さんは頬杖をついて宙を見上げた。
「えっ、覚えてないの?」
「まあ、ありのままの私を受け入れてくれたから、ってとこかしらね」
返事を聞いた朝穂は納得のいかない様子だ。
「ふーん…結婚したのは何で?」
「それは勢いとタイミングね」
米さんは今度は即座に断言した。
「しかもさあ、米田家になったらお母さん、『米だよねー』って言われちゃうじゃん。あと漢字で書いたらさ、上から読んでも下から読んでも『米田米』だよね…ヤバくない⁉」
「ふふ、そうね。まあ大人だったしそんなに気にしなかったわね…それに実はお母さん、結婚する前は宗田って名字でね。子どもの頃『そうだよねー』とか男子にからかわれてたから、それよりはマシかもね」
朝穂は余り変わらないのでは?と思ったが、それは言わないでおいた。
「あとお父さんってさ、自分でおこめ父さんって言う割にはパンとかパスタも普通に食べるよね」
「そうよね」
「あ、そうだ!昨日なんて、こっそりアイス買ってきて食べてたんだよ。私見ちゃったもん」
「あら!それは私達の分も欲しかったわね」
「でしょー?自分だけズルいよね!」
ずるいと悔しがる朝穂も、実は公園で友達にお菓子をもらったりしているのだが、それぐらいは小さな秘密の範囲だろう。
しかしおこめ父さんこと米田友蔵は、先程のとおり家族に信じてもらえているかも定かでない、とんでもなく大きな秘密を抱えているのだった。




