変化の欠片
病気の描写を含みます。if設定です。
今日はめずらしく、琥珀さんと二人きりで外出だ。
春の終わりにしては太陽が眩しい。日差しを避けるように帽子を被った琥珀さんは普段と装いが違って、それだけで僕は嬉しくなった。
「帽子、素敵ですね。似合います」
「蒼葉が持って行けって。心配性だよね。でも、正解だった。今日は暑いね」
蒼葉さんは心臓の定期検査で終日病院らしい。琥珀さんを一人にしておくのは不安だと連絡を受けて、僕は迷いなく名乗りを上げた。
「別に、わざわざ来てもらわなくても平気なのに。元々は一人暮らしだったんだから」
「別に、琥珀さんのためだけじゃないですよ。僕が一緒にお出かけしたかったんです。いつも蒼葉さんばっかり、ずるいから」
琥珀さんはもう歩いて移動をすることは難しくて、僕に車椅子を押されながら肩を揺らした。
「ずるいって、どういうこと」
「お二人は一緒に住んでるじゃないですか。僕だけ仲間外れで、寂しいんです」
始まりは三人だったのに、と、時々そう思うことがある。流れる時間に自分だけが置いていかれるような感覚だ。
顔を合わせることは頻繁にあるけれど、僕以外の二人それぞれに嫉妬をしてしまう自分がいる。
「そうだね。今日はありがとう」
琥珀さんは緩やかに僕を振り向いて微笑んだ。
傍にいると、不思議と自己肯定感が上がる。何をした訳でもないのに、ここに居ていいんだと思わせてくれるのが上手だ。
僕の知らない所でいつも蒼葉さんがそうしているように、今日は僕が琥珀さんを守ると決めた。
そうして僕たちの貴重な一日は、朗らかに始まったように思えた。
***
「お昼は何がいいですか」
「眞白が食べたい物でいいよ。ボクより食べられる物が限られているでしょう」
「琥珀さんだって、何でも平気な訳じゃないですよね」
「ボクは自分で気を付ければ、まだ大体大丈夫だから」
僕は使っている薬の影響で、食生活には少しだけ制限がある。とはいえそれもごく僅かで、ほぼ食べられないものなどない。
僕たちはお互いの身体のことには敏感で、特に琥珀さんは些細なこともよく覚えている。
琥珀さんの身体の機能は少しずつ落ちているようだと、蒼葉さんが話していた。
上手く動かなくなって来ているのは足だけではない。いつかは呼吸をする力さえも奪ってしまう病だ。食事だって、僕の何倍も気を遣わなければいけない。
「蒼葉さんとお出かけするときは、いつもどんなお店に行くんですか」
僕が尋ねると、腕を組んだ琥珀さんは躊躇うように考え込んだ。
「ボクたち、普段はあまり外に出ないから。ああ見えて蒼葉、具合が良くない日も多いんだ」
「……そうなんですね」
「ボクには隠しているつもりなんだろうけど、全部分かる。今日の検査、何もないといいけれど」
琥珀さんに見えないところで、僕は自分のスマホを確認した。検査が長引くようなときは、連絡が入る約束になっている。
蒼葉さんからの通知は、何もない。
「大丈夫です。きっと。僕たちより先に帰っているかもしれないですよ」
僕が笑えば、琥珀さんは頷いてくれた。
「すごいね。こういう所、あんまり来たことがないよ」
「ここだったら好きなものが選べて、いいかなと思って。それに端っこの方は、結構空いているんです」
フードコートの賑わいに、琥珀さんは圧倒されているようだ。僕は小さい頃から、父さんに連れられてよくここを訪れた。
奥まった座席は他からの死角になっていて、琥珀さんの車椅子もすっかり落ち着いた。
この場所なら、人目を気にせず休憩が出来る。穏やかに帽子を脱いだ琥珀さんを横目に、僕もそっと一息をつく。
「何がいいですか?僕、注文してきます」
しばらくの時間をかけて、琥珀さんは全てのお店に視線を流した。
「眞白は決まっているの?」
「僕は……あそこのうどんにしようかな。美味しいんですよ」
僕は、どこか身体に馴染んだ味を思い出した。それは主張が強くない風味で、体調や食欲に関係なく食べられる。
別に今日は元気だけれど、ここに来ればこれ、という感覚だった。
「それじゃあ、ボクも。同じものにするよ」
「メニューも色々ありますよ。一緒に行きましょうか」
「ううん、眞白のおすすめがいいかな」
琥珀さんが遠慮をしているのではないかと、一瞬疑う。気遣いは僕たちの共通行動だ。
けれど、本当にいいんですか?と尋ねようとして、止めた。賑やかな雰囲気を楽しむように琥珀さんは笑っていて、僕は嬉しくなった。
二人分の大きな器が乗せられたトレイを慎重に運んだ先で、琥珀さんは下を向いていた。具合でも悪くなったのかと、気が焦る。
「お待たせしました。大丈夫ですか」
声をかけるまで、僕が傍にいることに気が付いていないようだった。
僕の視線を避けて仕切りに握り直す琥珀さんの両手は、少しだけ震えているように見えた。
テーブルの上には、琥珀さんが脱いだ帽子の隣に、蓋の空いたペットボトルが置かれている。
「……あ、おかえり。混んでいた?」
「ちょっとだけ。琥珀さん、気分が悪いですか?」
「そんなことないよ。お腹空いたね」
返事と一緒に返された笑顔は、何かを取り繕うように見えた。
きっと、無理をしている。そうさせてしまう自分が、情けなく思えた。
「何を選んでくれたの?あ、お金いくらだったかな」
「そんなの、いらないですよ。実はお食事代、蒼葉さんから預かっているんです」
僕が軽く打ち明ければ、琥珀さんは小さく息を吐いた。
二人の家を訪ねた今朝、遠慮をしたにも関わらず押し付けられたお札は、まだ財布の中にある。
「蒼葉はボクの保護者のつもりなのかな。少し出かけるくらいのお金、自分でどうにでもなるのに」
「僕も断ったんですけど、蒼葉さんしつこくて」
「そういうところ、困るよね。ありがたいときもあるけど」
仄かに空気が緩む。琥珀さんは、まだテーブルの下で手を握り合わせたままだった。
「それ、うどん?」
「そうです。子どもの頃から、僕がよく頼んでいたメニューなんです。食べましょうか、冷めちゃいます」
踏み込めば崩れてしまいそうなのは、琥珀さんも僕も同じだ。
敢えて何にも気が付いていないかのように、僕も笑顔でそう言った。
〝お前ら、調子どう?〟
ちょうどスマホが震えて、蒼葉さんからのメッセージが届く。僕たち二人を気遣う文面に、返信を打とうとする手が止まる。
琥珀さんの様子が気になると素直に伝えれば、自分の検査など放ってしまうかもしれない。蒼葉さんはそういう人だ。
けれど、僕が感じた違和感を隠せば、琥珀さんの異変を見逃すことになるかもしれない。後悔はしたくない。
〝今からお昼ごはんです。少しだけ、早めに帰ろうと思います〟
嘘はつかずに、それだけを返して画面を閉じる。
きっとすぐに返事が届くだろう。蒼葉さんには心の中で頭を下げた。
「蒼葉でしょう」
顔を上げれば、こちらを見透かす琥珀さんと視線が合う。
「心配、しているみたいです。僕たちのこと」
「もっと自分の心配をして欲しいよね、本当に。ボクの方が気を遣うんだから」
「何となく想像がつきます」
琥珀さんはいつもの調子を取り戻していた。僕の心配は、稀有だったのだろう。
ほっとして、箸に手を伸ばす。
「ね、眞白」
琥珀さんの声が、僕の動きを止める。
「どうしました?これ、苦手でしたか」
まだ湯気が立つ器を指差して尋ねる。琥珀さんは、遠慮がちに首を横に振った。
「ううん、違う」
「体調、よくないですか?」
「ううん、違くて、」
打ち明けにくそうに顔色を窺われる。消えたはずの不安が、また生まれる。僕は待った。
「たまに、動かなくなるんだ。ボクの手。上手く動かなくなってきた」
開けられたままだったペットボトルのキャップを撫でる琥珀さんの指は、もう震えていない。
「だから、これ……大好きなんだけど、少し……ごめん、先に気が付けば」
僕に聞かれるのを怖がるように、琥珀さんは小さくそう言った。話しながらゆっくりとキャップを閉めた琥珀さんは、二つ並んだ同じ器に視線を流す。
そうされて僕はようやく、違和感の正体を見つけた。
「ちょっとだけ、待っていてくださいね」
目を丸くする琥珀さんを残して、席を立つ。手にしたトレイには、二人分の器を乗せた。
呼び止められる隙も作らずに、僕は自分の時間を巻き戻した。
***
「今日、楽しかったんだな」
横になったボクのベッドを整えて、蒼葉は灯りを消そうとした手を止めた。自然と頬が緩んでいたことを自覚して、ボクは取り繕うことを止めた。
「楽しかったよ。いろんなお店を見たし、美味しいごはんを食べたんだ」
「そうか。何か困ったことはなかったか」
「それは……うん。まあ」
外出中もボク以外の二人が連絡を取り合っているのは知っている。蒼葉はきっと、あの場を見たかのように全部を知っているのだろうと思った。
「聞いているんでしょう、眞白から」
「いや、詳しくは何も。琥珀さんは少し辛そうだったけど、楽しかったです、って、それだけだよ」
身体を包む毛布の上で、ボクは両手を重ねた。柔らかさも温度も、確かに感じる。力を込めると、指先はぎこちなく丸まった。
「前よりずっと、手を動かしにくいんだ。喉が渇いて、そのときに気が付いた」
扉の傍に立っていた蒼葉は、ベッドサイドに腰を下ろしてからボクの声に頷いた。
「お昼はうどんにしたんだ。琥珀と同じものを食べた。すごく、美味しかったよ」
あの後、再び同じトレイを手に戻ってきた琥珀は、改めてボクの前に器を据えた。
器の中には、細かく切られたうどんが泳いでいた。大きなスプーンが添えられていた。琥珀のものも、同じだった。
「別に、ボクの分だけそうしてくれたらよかったのにね。気を遣ってくれたんだ」
「そうか」
「美味しかったな。嬉しかったよ」
自分でも恥ずかしくなるくらい、簡単な言葉しか並べられない。けれどそれは逆に、ボクの感情を写していたのだと思う。
蒼葉は安心したように、ボクの手を取って指を広げた。
「今度は俺たちも、一緒に出かけような。変わったとしても、行こうな」
ボクの身体のことなのか、蒼葉の身体のことなのか、ボクたちの関係のことなのか、それは分からない。
今のボクは、自分が変化していくことに堪らなく恐怖を感じる。今日だってそうだ。いつかは動かなくなる身体だ。どうしたって、気持ちは沈む。
「眞白も誘ってあげよう。そうじゃないと、拗ねちゃうから」
「そうだな」
「そういえばお金、眞白に渡したんでしょう。親みたいなこと、止めてよ」
「いいだろ。お前らは出かけて行って、俺だけ病院だったんだから。金くらい、俺の気持ちだよ」
蒼葉の検査は、また半年後らしい。特に問題はないようだった。
現実を恐れているのは、ボクだけではない。蒼葉も眞白も、簡単に今を生きている訳ではないのだ。
そう思えば、沈んだ気持ちは少しだけ軽くなる。病がもたらしたものは、悲観だけではないことを、ボクはもう随分前から知っている。
「何だか今日は、疲れちゃったな」
いつの日か、この心地いい疲労さえ、羨むようになるのだろう。そしてそれは、遠くない未来のことなのだろう。
「ゆっくり休め。俺も今日は疲れたから、早く寝るよ」
「うん。お疲れさま」
「ああ、お前もな」
いつの日か、この当たり前の会話さえ、尊く思えるようになるのだろう。ボクの未来は、変えられない。
それなら、思い悩む時間は無駄だ。
そうは言っても、ボクの何かが変わるたび、ボクはやっぱり落ち込む。そのたびに、二人はそれを受け止めてくれるだろう。この先に何度も、その瞬間は訪れる。
どれも全てが、繰り返される変化の中の、小さな一欠片だ。
ボクは今日この日のことを、これからやって来るその日のことを、絶対に忘れないと誓った。
リクエストありがとうございました。
活動報告を併せて読んでいただけら嬉しいです。




