青空の壁 ②
病気の表現を含みます。前章の続きです。
ボクは一日中、部屋に篭った。気持ちはとうに落ち着いていた。けれど、自分が壊してしまった日常を修復させる手立てが分からない。
部屋の扉が開くたび、枕元に食事や水分が運ばれるたび、ボクは毛布の下に隠れた。元より食欲はなくて、食事には手を付けずにいた。蒼葉は何も言わなかった。
ずっと一人でいれば、こんな風に悩むことはなかったのかもしれないのだろうと思う。
ボクが頼んだ訳でもないのに、蒼葉はボクの家にやって来た。自分だって身体が丈夫な訳でもないのに、ボクの世話を買って出た。変えられないボクの生涯を背負う必要など、蒼葉には全くないのに。
ボクの状態は、今日がいつだって最高に良くて、それはもう二度と上向きに転じることがない。
そんなことは自分が一番に理解をしている。だからこそ、他に言われてしまうとそれは、逃れようのない現実となってボクの心を折る。
変えられない現実にボクは傷付いて、取り繕う。そうして当たり前のように、蒼葉はボクを気遣う。
一緒にいなければ、ボクは勝手に落ち込んだり見ないフリをしたり出来る。蒼葉は余計な心配を抱かなくて済む。
「寝る前の薬、忘れるなよ」
窓の外が暗くなって、灯りをつけずにいた部屋の中も闇が満ちた頃。いつもの夜と同じように、蒼葉はボクにそう言った。
「あとで飲む」
素直になれないボクは、蒼葉に背を向けたまま呟いた。捻くれて散らばった感情の中は、拗れたままだった。
夜も更けて、ふと目を覚ました。先延ばしになって置き去りにされていた薬は、そのまま枕元に残っている。
服用を一度でも忘れれば、明日には起き上がれなくなってしまうかもしれない。
本当はそんなことないだろうけれど、湧き出す微かな恐怖に焦りを感じる。緩やかに慌てて、少量の水分と数粒の薬を口に含む。
「……っ……」
急いで体内に流れ込んだ水分が、空気の通り道を塞ぐ。手にしていたコップが床に落ちて、派手な音を立てる。満足に咳込むことが出来ずに、ボクはベッドの上で溺れた。
蒼葉の部屋は階下にある。助けを求めたくても、声が出せない。身体が動かない。第一、今は深夜だ。蒼葉は眠りについているだろう。
その場で喉を掻きながらもがくだけの時間は、無常に過ぎた。
薄れかけた意識は、律儀なノックの音に引き戻される。
「おい、起きてるのか。また転んだんじゃないだろうな」
蒼葉の声は冷たいようで、誰にでも簡単に分かる気遣いが滲んでいた。
扉が開く気配がしてすぐに、ふっと浮いた身体が横向きに寝かされる。空気を求めて足搔く口に、細い管が入り込む。
喉を塞いでいた水分はごく少量で、耐え難い苦しさは一瞬で引いていく。酷く荒れたボクの呼吸が余韻を残した。
「落ち着け、もう大丈夫だ。ゆっくり。ゆっくりな」
全身で呼吸をするボクの背中は、蒼葉の言葉をなぞるようにゆっくり撫でられ続けた。
「心配なさそうだな」
ボクの胸の動きと顔色を確認して、蒼葉はベッドサイドに腰を下ろした。
一緒に暮らすようになって、蒼葉はあらゆる医療機器の使い方を習得した。ここにいなければ、そんな必要もなかったのに。どうしても罪悪感が消えない。
それでも、蒼葉と一緒に暮らしていたおかげで、ボクの命は救われた。
「琥珀。少し話してもいいか」
全部を謝って素直になろうと決めたタイミングで、蒼葉に先を越される。呼吸が平静を取り戻して、しばらくの沈黙が続いたときだった。
「……待って。ボクが先に話をしたい」
今を逃せば、もう言えなくなる気がした。最期の日まで、この後悔を連れていく訳にはいかない。
「いいけど、一つだけ約束がある」
「……なに?」
蒼葉はボクの目を真っ直ぐに見つめていた。いつだって優しい瞳だ。出逢ったときから、ずっと変わらない。
「謝るのは、なしにしろ。俺は別に怒ってないし、傷付いてもいない。謝られるのは見当違いだ」
結局、先を越される。きっと半分以上は嘘だ。蒼葉はこうして、自分を放っておいて人の心を守るのが上手い。
「どうして分かったの」
「お前の気持ち、少しは分かるつもりだからな」
蒼葉の言葉には説得力がある。ボクら以外には分からない、ボクらだけの悩みがあって、涙がある。
「そっか……それじゃあ、一つだけ、聞いてもいい?」
ボクがそう尋ねれば、蒼葉は目を細めたまま頷いた。
「心がぐちゃぐちゃになったとき、どうしたらいいかな……分からないんだ」
ボクから見れば、蒼葉は感情の揺らぎがないタイプだと思う。ボクの心が荒れなければ、蒼葉にあんなことは言わなかったし、ボクの息も苦しくならなかったかもしれない。
同じ後悔を繰り返したくなくて、ボクは答えを求めた。
「吐き出せばいいんじゃないか。ぐちゃぐちゃしたやつ、出せばすっきりするだろう。そのときは俺が、真に受けずに傍にいてやるから」
これが、今日一日のボクに対する答えだった。最後に添えられた言葉が、ボクを許してくれたようだった。心の靄が晴れていく。
「蒼葉。ボク、部屋を引っ越すよ。昨日の夜、キミもその話をしようとしたんでしょう」
「それは、俺が悪かった。お前の意見も聞かずに、先走ろうとしたから」
「ううん。面倒を見てもらっているのに、余計な心配はかけられない。ボクも、そろそろ自分で出来ないことが増えてきたし」
自分で認めておいて、悲しくなる。晴れた心が、少しだけまた冷えた。
けれど、居場所が変われば、ボクも変われるかもしれない。蒼葉が一緒にいてくれる今なら、悲しみの向こう側を知れる気がした。
「まあでも、急がなくていいんじゃないか」
「……いや、ちょうどいいタイミングだと思う。蒼葉の部屋の向かい、空き部屋でしょう。そこをボクの部屋にするよ」
「いいのか。あそこはお前の、」
悲しい気持ちになる場所だと、いつの日か話したことを覚えているのだろう。
「うん。母さんの部屋だった。青空に囲まれているみたいで、素敵な部屋なんだ」
***
上階に感じていた気配がすぐ傍に移動して、ボクの微睡が覚める。
ボクの周りは、空模様に関係なくいつも晴れている。ボクの心情にも関係なく、青空は澄み渡る。
「よく寝てたな」
ボクが覚醒するのを待っていたように、蒼葉が顔を覗かせる。思っていたより、時間は経っていたのかもしれない。
「そうかな。上で何していたの」
「悪い。うるさかったか」
「ううん、全然」
返事の代わりに、蒼葉はボクの毛布を整えた。
ボクの生活拠点が変わって空になった部屋を、定期的に蒼葉が綺麗にしてくれていることをボクは知っている。
蒼葉と初めて喧嘩をした日、あれからまだそこまで日は経っていない。最も、喧嘩だと思ったのはボクだけかもしれないけれど。
心が散らかることはあの後も何度かあった。出来なくなったことが増えるたび、自分以外の誰かの輝きに触れるたび、疎ましい感情に心は荒れた。
ひとしきり吐き出せば、それも落ち着く。蒼葉の言った通りだった。
蒼葉はボクがこうなることを心得てくれている。あの日の喧嘩が、ボクを安心させてくれていた。
自分の夢の在処を求めて此処にいてくれる蒼葉に、ボクは何も返せない。
けれど、ボクが笑えば蒼葉が嬉しそうにする。ボクが自分の夢を求めることが、蒼葉に対する唯一の恩返しなのかもしれない。
「ね、蒼葉。明日、何しようか」
「明日?おい、今日もまだお昼だぞ。どうしてもう明日の話なんだ」
真面目に驚く蒼葉が可笑しくて、ボクの頬が緩む。
「笑うところか?」
「うん。蒼葉と一緒に暮らして、良かったと思って」
結局ボクはあの喧嘩の後に謝ることを許してもらえなくて、その代わりに素直になることを覚えた。限られた時間は、もうほんの少しだって無駄にしたくない。
蒼葉は純粋に思案してから、思いついたように組んでいた腕を解いた。
「久々に外出るか。あいつも呼んで」
「いいね。明日が楽しみになった」
「行きたいところ、考えておけよ」
ボクが明日を願えば、蒼葉が喜ぶ。互いの夢は交差して、この部屋の青空に溶けていった。




