本当の父からの手紙6
上質なフロックコートを着て書斎の主人然とした男性は、笑顔でシェリーを迎えた。壮年のがっしりとした体つき、ブラウンブロンドに、髪よりも少し濃い色の瞳。見慣れた姿だ。
「どういうこと……?」
訳がわからずシェリーは呟いた。
「父さん」
「えっ」
隣でアーネストが驚いた声を出す。
しかしシェリーも状況が理解できない。目の前にいるのは間違いなく、妻子を溺愛しているシェリーの父である。
「どういうこととは? わかっているからここまで来てくれたんじゃないのかい、シェリー」
「え?」
「ん?」
父と娘が疑問をぶつけ合う。齟齬があるらしく、話が噛み合っていない。
シェリーは混乱する頭をどうにか整理しようとした。
「もしかして、あの手紙を出したのは父さんなの?」
「そりゃあ、そうだよ。ちゃんと父よりって書いていただろう」
当然といった態度の父に、シェリーは呆然とする。
「なんで本当の父より、なんて書いたの?」
ああ、と納得すると、彼は見てくれとでも言うように笑顔で両手を広げた。
「これが父さんの本当の姿だよ」
しん、と空気が冷えた。書物机を境に、室内に激しい温度差が生まれる。
「そういう意味か……」
アーネストが額に手を当てて呻いた。
クロックフォード男爵の人となりだけを父に聞いて、フルネームを聞いていなかったことが悔やまれる。
だがシェリーのほうはそれどころではなかった。飛びそうになる意識をどうにか繋ぎ止め、ゆっくりと父に近寄る。
娘から期待したような反応が貰えなかった父親が、ようやく娘をまじまじと見た。彼女が無表情であることに気づくが、時すでに遅し。
シェリーは思い切り書物机をバンッと叩くと、
「どういうことよーー!!!」
未だかつてない程の絶叫をした。
クロックフォード男爵、ゴートン・ホールデンは二十歳を過ぎた頃に、急に両親を亡くした。
それまで男爵家の跡取りとして大切に育てられてきた彼は、いきなり爵位を継ぐことになり、親戚などの頼れる人もほとんどいない状態で、両親がいなくなったことも受け入れられず、現実逃避に走った。
あてもなく町を彷徨うようになったのだ。ここで賭博などの悪い遊びに走らないあたり、彼は真面目だった。
知り合いに会うのが嫌で、庶民に変装することもよくあった。
そんな時に出会ったのがシェリーの母ミアである。
彼女はゴートンと同じく両親を亡くしていた。それでも一人で強く生きている姿に、彼はあっという間に恋に落ちたのだ。
ゴートンはミアをしつこいくらいに何度も口説き、ミアが折れる形で交際を開始した。
しかし当然ながら問題があった。ゴートンはミアに自分が貴族であることを話していないのだ。ミアが貴族を嫌っていたからだ。しかもその理由が、ミアの親しい友人が、貴族の家で働いていて、その家の息子に弄ばれて捨てられたからだというから、余計に話せない。ゴートンは自分もその貴族と同じように、弄んで捨てるのではないかと、ミアに思われることを恐れた。
本当のことを話せないまま付き合いは続いた。だが、彼はヘタレではあったが、第一目標をしっかりと掲げたヘタレであった。その目標とはつまり、ミアと結婚することである。
ゴートンはミアに結婚を了承されると、ミアを丸め込んで、名前を世間に公表してから、二週間後に結婚する、という正式な手順を踏まずに結婚できる地域、通称駆け落ち婚の聖地へと向かい、そこで結婚した。
そして自身の職業を執事と偽って結婚生活を送ることにした。
執事は独身率が異様に高い程に激務である。妻帯者であっても、週末に自宅に帰らせてくれるなら、それはいい雇い主といえるくらいだ。おまけに執事ということにすれば、育ちの良さを職業柄だと誤魔化せる。
こうしてゴートンは週末に隣町のミアとシェリーがいる家へと帰り、平日は男爵邸に引きこもりつつ、最低限の役目をまっとうするという二重生活を送ることにした。
この方法は上手くいった。今までずっとバレない程に。
「でもそろそろ本当のことを言わないと不味いと思ってね」
ゴートンは怒りのオーラを発している娘をチラチラと伺いながら、でかい図体を縮こまらせて弁明している。
男爵家当主の威厳は微塵もない。部屋の隅に控えた執事はそっと視線を外した。
応接間に場を移した一同は、ゴートンから成り行きを聞いているのだが、シェリーは頭痛を抑えきれなかった。
「それで、何であんな方法でわたしに伝えたのよ」
「まずシェリーにだけ知ってほしくて」
それでわざわざ本屋で手紙を渡し、誰にも言うなと念を押したという。
シェリーはじとっと父親を睨んだ。
「だって、ミアに嫌われたら、私は死んでしまうよ!? 二十年も嘘をついていたと知られたら、捨てられてしまうかもしれない! だからシェリーが先に受け入れてくれたら、ミアも納得してくれるかもしれないと思って」
情けなく涙目で娘に訴える姿は、見た目はどちらかというと厳ついというのに、完全にヘタレ親父であった。
執事が額に指を当てて、悲痛な面持ちで首を振っている。
「一生、黙っていればよかったのに」
「そ、それはさすがにできない。それに私が死んでしまったら、ミアとシェリーが……特にシェリーが大変な思いをしてしまう」
そこでシェリーは初めて現実的な問題に目を向けた。まだ頭が色々と処理しきれていないのだ。
「父さんが死んだら、男爵家ってどうなるの?」
「ああ、それは問題ない。うちは男子しか相続できないことになっているから、私が死んだら爵位は国に返還されるよ。歴史も浅いから、気にすることはない。でも資産は別だ。男爵家としてではなくて、ホールデン家としての資産があって、それはシェリーに相続される」
資産などという、自分とは無縁と思っていた言葉が出てきて、シェリーは眩暈がした。
「それ、どれくらいあるの」
「うーん、なるべく減らす方向で運用していたんだが、最近は世情の移り変わりが激しくて読めなくてね。むしろ少し増えている。でもシェリーは心配いらないじゃないか。アーネスト君がいるから、金目当てのぼんくら男に狙われることもない」
「は?」
「え?」
黙って成り行きを見守っていたアーネストも、自分の名前が出てきて驚く。
「わざわざここまで一緒に来たんだ、シェリーはアーネスト君とお付き合いしたいから、貴族であることを受け入れてくれたんだろう? 彼のことを調べさせてもらったけど、賭博も女遊びもしないし、まあまあ優秀なようだし、ブロウ男爵は好人物だし、そういうことなら、私もシェリーとの交際を認めてやらなくはないよ」
「なんでそんなことになっているのよ。受け入れてないわよ。しかも、いつの間に調べたの!?」
シェリーがこの屋敷まで来てくれたことで、ゴートンにとっては、ほとんど受け入れてくれたことになっていた。あともう一押しという目測である。
「クロックフォード男爵、僕はシェリー嬢が新しい生活を送るための協力は惜しみませんので」
「アーネストさん!?」
俄然、アーネストはやる気を出した。
切望していた、手が届かないかもしれないと思っていたものが、目の前に置かれたのだ。逃す手はない。
「うむ。私もシェリーの相手は生半可な男では許すつもりがなかったが、シェリーが望むなら致し方ない」
「だからどうしてそうなっているのよ!」
「シェリー、これは避けて通れないことだから、早めに慣れていたほうがいいと思うよ」
とても嬉しそうに言われて、シェリーはアーネストを恨めしげに睨み付けた。
浮かれていた彼ははっとして、失敗したことを悟る。
「い、いや、もちろん君の気持ちが第一だから……」
「わたしの気持ちは、こんなこと簡単に受け入れられません!」
「うっ」
痛恨の一撃を食らった。
「父さんも! わたしは母さんの説得なんかしないからね!」
「えっ、いや、待ってくれシェリー! ミアとシェリーに嫌われたら、私は生きていけない!」
「だったら一人で説得してちょうだい!」
「そんな」
顔を青ざめさせた父親に、シェリーは内心怯んだ。
子供の頃、父の愛が重すぎて、母から怒られた父を慰めるのは、ほぼシェリーの役目だったのだ。よってシェリーは父親に少し甘い。
しかし、今回ばかりはそうはいかない。自力で何とかしてもらわなくては。それにシェリーもいくら人から落ち着いていると言われていても、さすがに動揺が治まらない。
少し稼ぎのいい執事の父親と、針子の母親の、一般的な家庭だと思っていたのに、父親が貴族だなんて。小説じゃあるまいし。
「とにかく、一度帰るわ」
シェリーが立ち上がって部屋を出ようとすると、執事がそっと近付いてきた。
「お送りします、お嬢様」
やたらと丁寧な態度を取られて困惑するが、今はそれを突っ込む気持ちになれない。
慣れない町で、一人で帰れる自信がなかったシェリーは、ありがたくそれを受けることにした。
「お願いします」
「では、ご用意致します。しばしお待ちください」
部屋に居たくなかったシェリーは、玄関先で待つことにした。
娘に見放されて頭を抱えているゴートンは、気づいていないのか、引き留めようとしない。
「待ってくれ、シェリー」
アーネストが慌てて付いて来る。
「本当にすまない。君の気持ちを無視して」
「どうしてあんなことを言ったんですか?」
廊下を歩きながら尋ねる。横目で見ると、彼は叱られた子供のような顔をしていた。
「だって、君が男爵令嬢になったら、対等な関係になれるだろう」
予想外のことを言われて、シェリーは戸惑った。
「君はそうなれたらって、少しも思わないんだろうか」
シェリーは立ち止まる。馬車の中でのように、寂しそうに言われたら突き放すなんてできない。
「わたしは……ずっとそういうことを考えてはいけないのだと思っていましたから」
思わず本音を言ってしまって後悔した。耐えるような声の響きは、何を含んでいるのか、簡単に想像できるだろう。
アーネストは目を見開いて、期待を隠せない顔でじっとシェリーを見た。
「じゃあ、これから考えてみてくれ」
恥ずかしさが込み上げて、シェリーは視線から逃れた。
「今は、冷静になれませんから」
「うん、少しずつでいいから」
いつものようにアーネストが笑った。シェリーは観念する。
「はい」
これはもう、逃げられない状況なのではないだろうか。
父の嬉しそうな顔が脳裏を過って、釈然としない。
アーネストが想像の父と同じ顔をして、左手を差し出した。重ねることを求めている手。
今までは遠慮して、近付きすぎないようにしていた距離があった。でもそれはきっと言い訳で、近付きすぎて引き返せなくなって、傷つくことを恐れていたのだ。
シェリーはアーネストの手に手のひらを重ねて、一歩だけ、恐る恐るその距離を縮めた。
クロックフォード男爵邸で親子三人が暮らすようになるのは、もう少し先の話になる。