エピローグ アナザーエピソード『無言承諾』
暗雲が渦を巻く。
本来ならば比喩で使われるべき表現がピタリと当てはまる光景がそこにあった。
黒々とした雲はとぐろを巻く蛇のように大陸の東部を覆い尽くし、日の光を遮っている。
昼間でありながら夜のように暗く、時おりのぞかせる雷がなければ、足元さえも見えなかった。
悪夢のような光景に人々は恐怖する。
一年を通して竜巻やサイクロンに見舞われるこの地域の住民でさえ、これほど強大な勢力を持った雲は見たことがなかった。歴史上まれにみる大災害の前触れとも見てとれる。
神に祈りを捧げる者。家族と最期の時を過ごす者。ただ絶望する者。
人智を超えた現象を前に、誰もが為す術なく身をひそめていた。
しかし、そんな摩訶不思議な光景に、凛として立ち向かう少女がいた。
ベージュ色のローブを着込み、草原を歩んでいく少女は、深紅の髪を短く切りそろえている。あどけなさが残る容姿からすると、年齢は十代半ばほどだろう。
少女はその名をレミーアという。
大陸でも有数の魔法都市で学んだ彼女は、際限なく満ち溢れる魔力を、自身の持ち味にしていた。
レミーアが渦の中心を目指すのには理由がある。
この異変は一人の魔法使いの手によって引き起こされたものだという確信があったからだ。
禍々しい魔力を全身で受け止めながら、うねる雲を見上げる。まだ距離があったが、流軸の真下に陣取るのはリスクが高いと見たのか、そこで足を止めた。
――間違いないわ。あの渦の中心に何かいる。
レミーアは首を少し上げて雲を観察する。しばらくそうしていると、彼女は眉をひそめた。それは、遠目に見て抱いていた疑念が現実のものとなったからだ。
一般的に雲が黒く見える理由は、分厚い雲に日光が遮られて光が当たらなくなるからである。
しかし、目の前に広がる光景はその道理に当てはまらないと少女は推測した。空に立ちこめているのは雲ではなく、いわば闇の力そのものだった。
中央にいる何者かが核となり、その周囲に立ちこめる魔力があまりにも強大なために、目に見えるまで肥大化して雲のように見えているのだろう。
豪風で深紅の髪を揺らす少女は、暗黒のもやに右手をかざした。
するとその手には、彼女の身長と同じくらいの直径を持つ光の球が出現する。またたく間に膨張していく光弾を、レミーアはすぐさま目標へと放った。
渦から大きくはずれた魔力弾は見る見るうちに小さくなり、極大な黒雲へと吸いこまれていく。
次の瞬間、光球の消えた場所から曙光のごとくまばゆい光が波状に広がり、闇の魔力をかき消した。
同時に起こった旋風で深紅の髪が逆立つ。
手櫛で髪を整える少女の目に入ったのは、力強い雲の隙間から見えた青空だった。すぐさま雲に覆われてしまったが、今の攻撃が無力でないことを証明するには十分である。
――いける!
相手が本当に意志ある生命体なら、先ほどの攻撃を挑発と受け取って反撃に出てくる可能性も高い。
攻撃こそ最大の防御という考えを持っている彼女は、攻勢を維持すべく次の手を打ち始めた。
レミーアは右手を天に伸ばし、自分を取り囲むように無数の光弾を作り出す。その一つ一つが第一射と同じだけの大きさに膨れ上がった。
わずか数秒で準備を整え、伸ばした手を勢いよく振り下ろす。そうすると、周囲にあった光の球が天空の渦めがけて一斉に飛び出した。
追い打ちをかけるように左手をかざし、手の平に同様の魔法弾を作り出しては次々と空に放つ。
一つ一つが殺人級の威力を持ち、常人が放てば激しく体力を消耗して息切れを起こす強大な攻撃。
それを可能としているのが、体内から満ち満ちてくる膨大な魔力と、大地からの湧出魔力を際限なく取り込むことができる少女の才能である。
自身の潜在能力をいかんなく発揮する少女の猛攻に討たれた魔術師は数知れず。
かつての師は彼女を『世界に愛された神童』と呼んだという。
放たれた光の魔力弾は、空を覆いつくす闇の魔力を相殺した。
日の出のようなまぶしい光が相次いで発生し、暗雲をもみ消していく。
最後には雲が四散して、一面の青空が広がった。
それでも少女はまだ気を緩めていない。切れ切れになった雲の合間から何かが落ちてきたからだ。
重力に吸い寄せられていく影を遠目に見ていたレミーアは、それが人間だと気づく。
反攻の兆しを見せるというレミーアの期待は見事にはずれ、豆粒のように小さなその姿は無抵抗に落ちていく。気を失っているようだった。
レミーアは風の魔法を使って地面すれすれを滑空する。小さな姿を目で追いながら、予測される落下地点に急いだ。
彼女が求めていたのは血の汗握るような死闘。
たとえ自分と同等の力を持つ魔法使いであっても、雲があるような高い場所から落ちれば大体は死んでしまう。そうなると彼女には都合が悪いのだ。
強き者との戦い。
それが彼女の生きがいの一つだった。
目にもとまらぬ速さで移動するレミーアだが、このままでは間に合わない。
そこで彼女は、相手を受け止めるためのクッションを作ることにした。着地場所に手を伸ばして風魔法を行使する。ぎりぎりのところで間に合った受け皿が小さな身体を衝撃から守った。
レミーアは落下の勢いを殺しきることができるか内心で不安だったが、対象が軽いこともあって大事には至らなかったようだ。
静かに着地した人影を少女は見下ろす。
落ちてきたのは十代半ばほどの少年だった。
その金髪は長いものと短いものとで差が大きく、目が閉じられているために瞳の色をうかがうことはできないが、女性ととることもできそうな中性的な顔立ちをしている。
そんな中でレミーアが相手の性別を判別できたのは、少年が一糸まとわぬ姿だったからである。
「あら、まあ」
思わず口を開けてしまった少女は左手でそっと口を押さえた。幼少の頃から教え込まれた礼儀作法は些細な仕草の中でこそ現れる。
少年に近づく手前、レミーアはその身に結界をまとった。全身を薄い膜で覆うような結界は、周囲に壁を作る形式の結界と違って自身の動きを阻害しないため、少女も好んで使っている。
できうる備えを出しつくしたレミーアは少しずつ少年との距離を縮めていく。
肩を揺らして一度起こそうと、あと二、三歩程度の距離まで詰め寄ったとき、少年が目を覚ました。
少女は少し距離をとる。近接戦も得意とするレミーアだが、相手の力が分からない以上、用心するに越したことはない。
少年は上体を起こし、慌てたようにあたりを見回した。
不意に、開かれたばかりの翡翠色の瞳がレミーアと交錯する。たちまち少年は恐怖に顔を歪め、涙まで流して後ずさった。
「×××××!」
少年が叫んだのは、レミーアの知らない言葉である。
がむしゃらに振りまわされた少年の両手から、目の前に太陽が現れたかのように強烈な光が放たれた。足元をすくわれるような激しい揺れが少女を襲う。突如として現れた衝撃波に、レミーアは自身のまとう結界を無意識のうちに強めた。
まばたきをする暇もない刹那に、四方の光景は大きく変わってしまった。
それまで足をつけていた地面は跡形もなく消失している。大きく抉られた大地は、隕石が落下したときにできるクレーターのようだった。人が手をつないでも、その直径に至るまで百人単位の人数が必要だろう。
足場がなくなってクレーターの中に着地したレミーアは、アリ地獄の外で息を荒げている少年を見上げて思案する。
――この子は自分の力をまるで使いこなせていない。
強者との戦闘を心待ちにしていたレミーアはがっかりしていた。
肩で息をしている少年に、ほんの少し手をかざし、何らかの魔法で心臓を射抜くことは容易である。
地形を変えてしまうほどの一撃に恐怖を覚えなかったわけではないが、力まかせの技などタネがわかってしまえば防ぐ方法はいくらでもあるのだ。
見当違いだった相手に思わずため息をつく。
そんなとき、レミーアの中にある妙案が浮かんだ。今までその考えに至らなかった自分に思わず含み笑いが漏れる。
思いつきを実行に移すべく、少女は跳躍する。風魔法をまとったジャンプは、一息で少年までの距離を詰めた。
突然現れた少女の姿に、裸の少年は慌てふためく。
反撃をする余力がないのか、ただ単に怖気づいたのかは定かでないが、両手を地面につけて涙ながらにレミーアを見上げていた。
身体を後ろに引いていく少年に、少女は優しく微笑む。
「大丈夫。私はあなたを決して傷つけたりしない。約束するわ」
知らない言語を話す少年に、レミーアは翻訳魔法をかけながら話しかけた。
それは自分の耳と口にかける魔法で、一種のテレパスのようなものである。相手の言葉を自分の知っている言語に直して聞き取ることができ、逆に自分の言葉は相手が理解できる言語で伝わる。
無数の種族や国が存在するヴァンチェニア大陸では、魔術師の基礎教養の一つと言っていい。旅商人の一団には、通訳を担う魔法使いが一人はいるものだ。
先ほど空に放った攻撃を棚上げするレミーアは、少年の手をそっと取り、自分の頬に当てた。
彼が口にする言葉のほとんどが、「来るな」や「あっちへいけ」といった恐怖や怯えにとらわれて他者を拒むものだと分かったため、まずは少年の抱く恐れを緩和することから始めたのだ。
困惑する少年に慈しむような笑みを浮かべる。
「あなたの敵は私がすべて倒してあげる。だから、もう怖がることはないわ」
そう話すレミーアの心拍数はものすごい勢いで早まっていった。
結界は依然としてまとったままだが、この距離で少年の攻撃を受ければ今度こそただではすまない。
少年の心を掴むことができれば少女の勝ち。そうでないときは死が待っている。命の危険と隣り合わせな状況をレミーアは楽しんでいた。
「ほん……とに……?」
「ええ。本当よ」
少年の言葉も翻訳される。言葉が切れているのは、彼が実際にそう話しているからだろう。
すがるような声でたずねてきた少年にレミーアは頷く。
「この世界には、あなたの知らない美しいものがたくさんあるの。一緒にそれを探していきましょう」
この一言が吉と出るか、凶と出るかはまだわからない。危ない橋を渡る少女は、少年に右手を差し出す。
レミーアの顔と、差し出された手を交互に見る少年は、やがておずおずとした手つきで少女の手を取った。
無言の承諾を受け取った少女は内心で歓喜する。
彼を宝石にたとえるならば、それは掘り起こされたばかりの原石だ。質の良い原石であっても、職人の腕次第で輝きを増すこともあれば、本来の色が濁ることもある。
レミーアは、自分の魔法に関する知識や技術を教え込むことで、この少年を自身の私兵にできないかと考えたのだ。少なくとも、少年に手を差し伸べた少女の中に善意はなく、あるのは打算だけだった。
彼を手下として従えた後は、未知の敵と出会ったとき、共に戦うもよし。強くなった少年に死闘を挑むもよし。
後者を選んだ場合、確実に少年は死ぬことになるが、それでもかまわなかった。
レミーアという少女は論理的かつ合理的で、ときに冷徹である。
少女は仮初めの笑顔を向ける中で、内から湧き出る邪悪な笑みを必死でこらえていた。その心情を明言するなら、面白いおもちゃを見つけた子どもの浮かべるものに等しい。
――まずはこの子を、強大な力をいかんなく発揮できる戦闘魔道士として育て上げる。この子が一人前になる頃には、私は今よりももっと強くなっているはず。そうしたら――
「――次はあなたの番ですよ。カイキさん」
思わず本音を漏らしてしまったレミーアを少年が不思議そうに見上げる。
慌てて体裁を繕う少女は、話題を変えるべく自己紹介を始めた。
「私の名前はレミーア。あなたの名前を教えてくれる?」
「……ヴェク……ナス……」
「ヴェクナスね?」
少年はこくりと頷いた。
「それじゃあヴェクナス、これから私が言うことをよく聴いて」
ヴェクナスが注意深く耳を傾けるのを待ってから、続きを話し始める。
「まず、あなたを脅かすものは全部私が倒すから。ヴェクナスは、私がいいと言うまで魔法を使ってはだめ」
「……まほう?」
「さっき私を追い払おうとしたときに、あなたが使ったものよ」
「……わかった」
魔法を魔法と認識すらしていない状態からのスタートに、レミーアは少し頭を悩ませる。ただでさえ言語の問題もつきまとうのだが、あっさり了解を得られたことに安心しようと前向きにとらえることにした。
その話のあと、ヴェクナスは急にうつむいてしまう。
「どうしたの?」
「……まほう……みんな……死んじゃう」
レミーアは驚いた。
すぐに透視魔法を使って少年の脳内を探り出す。最初からそうしておけば良かったと早くも後悔した。
彼の抱える恐れの正体は、魔法の暴発によって肉親を殺してしまったことに起因していたことが分かったからだ。
海の向こうにある別大陸の農村で生まれたヴェクナスは、生後わずか五年で自身の魔力を暴走させ、一晩で村を焼き尽くしてしまったらしい。
ヴェクナスの記憶にはところどころ欠落があり、全容を知ることはできないが、印象強く残っているのは焼け野原になった村の光景だった。突然一人になった孤独感が、彼の脳裏に深く刻まれている。
逆にそれ以降の記憶は大きく欠けていた。現在の外見年齢から察するに、十年ほどの記憶が飛んでいると見られる。そうなった理由はいくつか考えられるが、今は置いておくことにした。
「私が死ぬわけないでしょ。ヴェクナスよりも強いんだから」
「……強い?」
「もちろんよ。私はずっとヴェクナスのそばにいるから、安心して」
「……うん」
ヴェクナスの返事を聞いてからレミーアは軽くため息をつく。
それからすぐに気を取り直して、ローブの胸ポケットへ手を伸ばした。
「あなたはこれから、学ばなければいけないことがたくさんあるわ。でも、その前に」
レミーアが取り出したのは、自分が着ているのと同じベージュ色のローブだった。
小さな胸ポケットの容量を遥かに越える上着である。おそらく、魔法で小さくしていたのだろう。
「まずは、そのだらしない格好を何とかしなさい」
それまでずっと裸だった少年にローブを渡す。
受け取った上着を不思議そうに見下ろすヴェクナスに、袖の通し方を教えた。孤児院の保母のような気分を味わったレミーアは、早くも先行きの不安を覚えた。
――魔法を教えるのは、いつになるかしら……。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
そしてダークなヒロインですみません。
作品の進行ですが、次回はインターバルを挟んでから本編に移りたいと考えています。
本編といっても、これほど長い話は当分の間はありません。しばらくは短編が続くことになると思います。
作者を取り巻く環境も大きく変わるので、更新のめどはつきませんが、また読んでいただければ嬉しいです。
続きは必ず書きます!




