8話 女神は来なかった
「うわぁ……」
地下牢がどういうものかなんて、正直イメージでしかなかった。
でも――大方、そのイメージ通りの場所だった。
日の光は一切入らず薄暗い。
壁のあちこちにはカビが生え、クモの巣が張りついている。
何より寒い。
煉瓦の隙間から、ときおり冷たい風が吹き込んできて、身体の芯まで冷やしてくる。
牢の中にあるのは、カビと汗の匂いが染みついたボロボロのベッドと、トイレという名のバケツだけ。
とりあえず部屋の真ん中あたりで、膝を抱えて座り込んだ。
うぅ、寒い。
パジャマ姿のまま即座に連行されたせいで、着替えも毛布もない。あの大臣め、絶対許さん。
この世界は身分社会だ。
日本では考えられないが、ここでは身分の高い者が絶対で、その機嫌一つで首が飛ぶ。
取り調べって言ってたけど、実際は、もう処刑が決まっているかもしれない。
そう思うと、思わず身震いした。
ここに来てから激動の日々を過ごしていたせいか、深く考える暇もなかった。
けれど一人になった途端、急に日本と家族が恋しくなった。
お母さんやお父さんは、今ごろ私を探しているだろうか。
悲しんでいないだろうか。
考え始めると、不安は止まらなかった。
日本に帰れるのだろうか。
帰りたい。
日本のご飯が食べたい。
お母さんの作った味噌汁やおにぎりが食べたい。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
気づくと視界がぼやけていた。
自分が泣いていると理解するのに、少し時間がかかった。
そういえば――こっちに来てから、一度も泣いてなかった。
「あんたが、あの大臣に突っかかった奴?」
突然、男の声がした。
顔を上げると、鉄格子の向こうで愉快そうにこちらを見ている男がいる。
乙女が泣いてるっていうのに、空気読めない人だな。
突然のことで驚いたが、涙を拭ってから答えた。
「別に突っかかってはいない。自分の仕事をしただけ」
泣いていた人間が、いきなり強気な返事をしたせいか、男は少し面食らった様子だった。
「へぇ。そりゃ災難だったな。あんた外国人だろ? この国じゃ長生きしたけりゃ、どんなに理不尽でも、とりあえず頷いとくもんだ」
「そんなこと、出来ない」
「要は上手く立ち回れってことだよ。あんた、下手そうだもんな」
男はそう言って、鉄格子越しに毛布を投げてきた。
「それでも巻いとけ。少しはマシだろ」
思ってもみなかったプレゼントに、思わず目を瞬く。
誰だか知らないが、助かった。
毛布は薄くてゴワゴワしていたが、身体に巻くと風をいくらか防げた。
改めて男を見る。
腰に剣を差している。衛兵だ。
しかもただの衛兵じゃない。
赤いマントに、胸元の王家のエンブレム――近衛騎士だ。
陛下に会いに行った時、何度か見かけたことがある。
ナトムさんの話では、近衛騎士になるには貴族の血筋と剣の腕が必須で、貴族男子の憧れらしい。
つまり、この男も貴族……?
失礼だけど、口調が全然それっぽくない。
明るいグレーの瞳に、少しウェーブのかかった黒髪。長身で顔立ちも整っている。
……まあ、モテるんだろうな。
「俺はマグシム。騎士団第三部隊の隊長だ。よろしくな」
「カンナです。それよりマグシムさん、助けてくれませんか? 近衛騎士様ですよね」
「俺が大臣より身分高いと思う? 助かりたけりゃ、本気で女神に祈るんだな」
「はい?」
何言ってるんだ、この人。
なぜ、そこで女神。
「女神はな。本当に助けが必要な時は、必ず助けてくれるらしい」
「……そうなんですね」
この国の人たちは信仰心が厚い。
というより、神様と人との距離がやたら近い。
毎日祈るのが当たり前で、本当に困った時は女神が助けてくれると心から信じている。
私も異世界に瞬間移動なんて体験してるし、これも女神の仕業なのかもしれない。
だったらお願いだから、元の場所に帰してほしい。
そんなことを考えているうちに、マグシムさんは椅子を用意し、鉄格子の前に座っていた。
……長話する気満々だな。
「有名な話があってな。百年前、当時の王様が急に文字が読みにくくなる病におかされた。それで女神に祈ったら、空から二つの丸いガラスが落ちてきた。それを顔の前にかざしたら、文字が見えるようになったんだと」
「いや、それ眼鏡だろ」
思わずツッコんでしまった。
「あんたも女神に祈ったから、ここに来たんじゃないの?」
「え、違いますけど……」
「あんたが大神殿で捕まった日は、国の繁栄を祈る大事な日だったんだ」
「……」
「すごい奇跡だよな、カンナ」
「呼び捨てしないでください」
「なんだよ、堅いなぁ」
その声を無視して、考える。
そもそも、ここはどこなんだろう。
ヨーロッパ? ……っていうか、地球?
服装や食事、生活様式は中世ヨーロッパっぽい。
なのに言葉は通じるし、女神が王様に眼鏡を授ける世界だし、もう訳が分からない。
地球じゃない可能性、普通にあるよね……。
いや、それより今は生き延びる方法だ。
どうすればあの大臣から逃れられる?
陛下に助けを求めるのが一番だけど、ここからじゃ何もできない。
「……」
……何も、できない。
詰んだな……私の人生。
どれだけ時間が経ったのか。
気づくと、マグシムさんの姿もなくなっていた。
「……」
胸の前で両手を組み、目を閉じる。
女神様、お願いします。
ここから出してください。
できれば日本に返してください。
帰りたい。
帰りたい。
帰りたい……。
数分待ってみたが、何も起きなかった。
「やっぱり、ダメかぁ」
……このままじゃ、本当に死ぬ。




