1話
まだ夏休みに入ってあまり日も足っていなかった。高校生になって初めての夏休みだというのに、急がしいわけではなく、むしろ暇をもて余そうとしていた。
そんな私に、母は「愛由ちゃんの家にでも泊まりにいったら?」と言った。
愛由は私の幼馴染みで、家が近いのもあって、小さい頃からよく一緒に遊んでいた。
特に断る理由もなく、私は連絡もせずに外泊用の荷物をもって愛由の家に歩いて向かった。
徒歩で僅か三分。かなり大きめのマンションに、愛由は住んでいる。
百四号室。小さな頃は、どの部屋が愛由の部屋かなかなか覚えられず、何故かいつも開いている窓から、愛由の匂いで判別していた。我ながら恥ずかしい話だ。
百四号室と覚えた今でも、まだその窓は開いている。
愛由の家のチャイムは、ピンポーンというよくあるありきたりな音ではなく、なんとも言えないミュージックが流れる。そのチャイムを押せば、しばらくして、チャイムが鳴ったことに気づいたと知らせるようにバタバタと足音が聞こえる。
慌てているのだろう、チェーンを外すのに手間取っているような音も聞こえた。
ガチャ、と音がすれば、訪ねて来たのが私だと、予め知っていたのだろう、扉を開ける様子もなく、足音が去っていく。
勝手に入れといわれているのはわかるが、私だって常識は分かっている。他人の家に勝手に上がり込むのは躊躇する。
まあ、私が愛由の家に来たときは、大抵こんな風に部屋に上がるから、今回も勝手に上がるのだが。
相変わらずこの扉は重い。
玄関に入ると、端に靴を脱ぎ、てきとうに足で揃え、鍵を掛ける。そうして顔を上げれば、そのまま突き当たりがリビングだ。
ドアを開けて、リビングに入ると、ついさっきドアを開けてくれたはずの愛由が、もうソファの上であぐらをかいて、テレビを観ている。
愛由は私が家に勝手に上がり込むのを知っているから、リビングに入ってきた私には目もくれなかった。
それもいつものことなので、私は荷物を部屋の端に置いて、テーブルの横に無造作に置かれていたクッションの上に座った。
「裕実ちゃんは?」
私がそう尋ねると、愛由は目線をテレビに向けたまま口を開く。
「お母さんなら今夕飯の材料買いに出掛けてる。て言っても、服とか見てくるだろうからけっこう遅くなるんじゃない?」
めんどくさそうな割に細かく答えてくれた愛由に私は「へえ」と答えた。
裕実ちゃん、というのは愛由のお母さんで、どういう成り行きかは忘れたが、幼い頃からずっと名前に『ちゃん』をつけて呼んでいる。もう四十才とはいえ、まだ若々しいから、すごく適当な呼び方だと思う。
それから私は、愛由がずっと真剣に観ているテレビに目を向けた。ドラマをよく観るらしい愛由がこんなに真剣に観ているのだから、きっと人気なのだろう。とはいえ、こんな真っ昼間にこのドロドロした恋愛ドラマはどうかと思う。
とは言ったものの、観てみれば少なからず目を引き付けられるドラマだった。私がそう言うくらいだし、やはり愛由は終始、その話の内容、俳優の演技に惹き付けられていたに違いない。
でも私は違った。
物語は、共感があればさらに惹き付けられるというけれど、共感しすぎてもまた、現実味が帯びてきてつまらなくなるのだ。物語というものは、共感、そして憧れを含めて面白くなるものだから。少なくとも私はそうだ。
つまりは、私はこのドラマに、ものすごい共感を覚えたというわけだ。
だからこそ、ドラマが終わり、テレビ画面に向けていた集中を切った愛由に私は、ずっと、ドラマを見ている最中、頭のなかで紡いでいた言葉を口に出した。
「ねぇ、お母さんに彼氏ができたみたいなんだけど。」
勘づいたのはかなり前だが、最近母がさりげなく私に彼氏の話をはじめたから、ほぼ確信だろうし、愛由に言ってみた。
いや、『言ってみた』なんかでは済まない。私は、『どうでもいい』とでもいうような口調で話していたが、内心はかなり、怯えていた。
さすがは幼馴染み、とでもいうのだろうか。目線をテレビに向けていたはずの愛由は、私の表情を視ることもなく、目を見開きながら私に目を向けた。
「…それ、美和、かなりヤバいんじゃない?」
そう言う愛由の表情からは、今度は『めんどくさい』なんて微塵も感じられなかった。
「うん、…ヤバい、ね。」
どのくらい沈黙していたのだろう。五分、十分。いや、実際はもっと短かったのかもしれない。
「美和、まだ男の人…だめ、だよね?」
分かっているけど、一応、確認のため、とでもいうように、愛由が問いかけてくる。
「うん、…だめ。」
私は男性が苦手だ。例外としては、祖父が入る。先程からの会話からわかるように、父親はおらず、今は私と母の二人で、この、都会とも田舎とも言えない街に住んでいる。
軽度の男性恐怖症、とでもいうのだろうか。
では、愛由の家の人ならいいのかと言えばそうではなく、ただ単に、愛由の両親が離婚していて、父親はこの家に居らず、兄弟もいないので、男の人がいない、というのが、私がこの家に入り浸れる理由だ。
「大丈夫なの?」
普段から声の低い愛由が、それ以上に声を低くさせて言った。
「まだお母さんから話聞いたの、最近だし。」
そんなすぐに再婚だ、なんて言い出すはずがない。そう信じたかった。
*
裕実ちゃんが家に帰ってくると、そこにいる私を見ても、裕実ちゃんは、私に向かってはなにも言うこともなく、ただ「ただいま」とだけ言って夕食の準備を始めた。
私がいることをはじめから知っていたのか否や、どうやら、さも当たり前のように受け入れられたようだ。
これは、私《望月家》と、ここ《北川家》の間ではもうよくあることで、両家とも納得していた。
だから、今回もそんな風に、数日泊まらせてもらったら、また家に帰って。そうして夏休みを終えれば、また学校が始まって。そんな日常に戻ると思っていたのだ。
*
私はそのまま三日間、愛由の家に泊まらせてもらって、家に帰ると、何故か私の部屋に私の物が無くなっていた。あるのは、タンスやベッドなどの、大きな家具。
タンスのなかにあったはずの服などは跡形もなく消し去っていた。
「私の物が…ない。」
(もしかして)
何があったのかと、問い詰めるため、母のいるであろう、母の部屋へと向かった。だが、物が無くなったのは、どうやら私の部屋だけではないようだ。
母の部屋にも、物が無かった。
母の部屋のドアを開けたまま、唖然として立っている私に気づいた母は、申し訳なさそうな顔をしながらも、微笑を浮かべた。
「ごめんね、お母さん再婚することにしたの。」
…何を言ってるんだ?
いきなり。
勝手に部屋の物を片付けられ、挙げ句の果てには結婚を決めた?
何を言ってるんだ?
忘れたのか?
無理に決まっているじゃないか。
なぜ私になんの相談もなく?
いや、雰囲気は匂わせていた。
いや、だからといってこんな大事なことを自分で決めるやつがあるか?
いや、どこへ引っ越すっていうんだ?
いや…、
「…美和?」
ちゃんとその声は、私の耳に入っていた。…すぐに通り抜けはしたわけだが。
そのくらい、いきなりの再婚の報告は私に大きな打撃を与えた。
すぐに納得できる訳もなく、私はただただその場に立ち尽くしていた。かと思いきや。
「…や。」
いきなり頭のなかが沸騰した。
その熱さが伝わるように、熱くなった拳を握りしめ、私はわなわなと震えていた。
そして、爆発した。
「いや!!勝手に決めないで!!」
普段自己主張が控えめな私のいきなりの爆発に、母は少なからず驚いたようだが、抜けている母は、こんな状況でも落ち着いていた。
「美和、あのね。」
「勝手に決めないでよ、こんな大事なこと!」
母が紡ごうとした言葉に私は横から口をいれる。
「美和、私は」
「なにも聞きたくない!忘れちゃったの?!それに、彼氏の話をお母さんから聞いたのだって最近だった!それから?!まだ何日も経ってないよ?!なんで全部自分で決めちゃったの?!もしかして、私に愛由の家に泊まりに行くように勧めたのも、引っ越しの準備をするため?!」
色々な言葉を、まるでマシンガンのように口から発する私に、母は何の戸惑いもなく私の目を見据えていた。
それがまた私には気に入らなかった。
「…確かに愛由ちゃん家に泊まらせてもらうように勧めたのは、引っ越しの準備を進めるためよ。」
そう、落ち着き払った様子で言う母に、また私は激情を実らせた。
これ以上なんと言ったって、母は同じように、冷静に返すだろうと考えた私は、口をつぐんだ。
「っ…!!もうっ、いいっ!!」
そう言って、乱暴にドアを開け、はやばやと階段を上り、自分の部屋へ向かった。
ベッドに横になるために。
(引っ越しの準備を進めるために愛由の家に泊まりに行くように勧めた!?それって、私が再婚に反対するって分かってたってことじゃん!!私の気持ちも考えずに、勝手に再婚決めたってこと?!)
自分の部屋のドアを乱暴に閉めると、がらんとしてしまった空虚な部屋に、いくつかある大きな家具のひとつである私のベッドに、また荒々しく飛び込んだ。
ベッドの中、というのは不思議なもので、涙が出てきたのは、母に再婚を報告されたときでもなく、自分の部屋に入ったときでもなく。枕に顔を埋めたときだった。
男性が苦手だからというのもある。友達と離れるのが悲しいというのもある。でも、一番の涙の理由は、母親が、私になんの相談もなく、再婚を決めたということだ。
先に込み上げたのは怒りだった。でも今、心を占めている感情は。
「悲しい…。」
なぜ悲しいのか。私にもわからない。
色々な感情がごちゃ混ぜになって、もう、なにがなんだかわからない。
頭のなかで整理しようとする。悲しさの理由を知るために。私が、これからどうしたいのかを知るために。
でもだめだ。一つ、その理由が出てくれば、「ちがう、こんな気持ちじゃない」「でも」その繰り返し。
どう考えたって、私の頭に『一つだけの理由』が確定されることはなかった。
そうすれば、もう自分ではどうしようもない。誰かに助けを求めようとした。
…でも、誰もいない。
愛由は幼馴染みではあっても、結局はただの他人だ。助けを求めるだけ、迷惑だろう。祖父や祖母は…?だめだ。最後に会ったのが、確か9歳の頃で、連絡先は母しか知らない。大体、そんな昔にしか会ったことのない祖父母が、私のことを気にかけてくれているとは思いがたい。
…私の周りは、あまりにも薄い関係ばかりだった。そう思えば、また涙の量が増えはじめる。顔を押し付けた枕は、もう洪水状態だ。
もうなにも、考えたくない。全て、放り出してしまいたい。
いつの間にか、頭のなかに浮かんでいた言葉や感情が、柔らかなシーツや、薄い毛布に包まれて身を潜めたようだ。
疲れというのは、こんな短時間でも押し寄せるものらしかった。そして疲れは、睡眠において最も重要な薬となる。
本当は少し、期待していた。怒りに燃えながら、激しくドアを閉めた私。母は、その怒りから悲しさを見いだして、私を追いかけてきてくれること。ゆっくりと私の部屋に入ってきて、優しく頭を撫でて。そして、「美和、私が悪かったわ。」と言って、再婚の話を出すのはまだ先にする、と言い出してくれること。ちゃんと私に相談してからにすると言ってくれること。でも、冷静に考えてみれば、ここまで引っ越しの準備を進めておいて、今さら引っ越しは先にするだなんて、言えるわけがないと思った。
結局、私に選択肢はなかった。
私がまだ、子供だから。
子供だからだめ、できない、そう諦めさせられたことはありませんか。小さなものなら、子供で危ないから火を使わせない、とか。それはあまりにも当たり前で、しかも納得のいく理由ではあります。だからこそ、どうしても子供にはできないことがあるのです。