対処
蜘蛛という生き物の多くは、木や建物の隙間等に巣を作り獲物を狩る。
ついでに言えば、その大きさは人よりも小さく、簡単に殺せてしまうモノが多い。
だが、今、少女達が見ている蜘蛛は違う。
糸を紡いで巣を作り、獲物を狩るという真似もしなければ、簡単に殺せてしまえる大きさでもない。
八本ある足はどれも太く、子供の身長と変わらぬぐらい長い。
胴体もそれに沿うように大きくなり、口元には鋭い牙が覗く。
人間などあっという間にその腹に収められてしまうのではないかと思うほど巨大な蜘蛛。
それが持つ八つの目が何を映しているか知るすべもなく、少女は近くを飛んでいた雪華に手を振った。
「早いお着きで」
「屋根の上を走って来たからね。それで、状況は?」
「……既に劣勢を悟ったらしい熊は森へ。清華が念の為にと人とあまり出会わない場所まで追いやりに行きました。幸い死人は出ておらず、負傷者は他の住民達によって運ばれ、治療が始まっているようです。建物の幾つかはご覧の通り破損していますが、すぐに直せる程度かと……」
「そう。ということは、私達の出番は、蜘蛛を追い払えば終わりってことね」
「はい」
素直に頷く雪華の頭を撫でながら、少女は妙に人がいないことに気づいた。
「この辺りの人達は?」
「既に避難済みのようです。あれは本来、人を食らう虫ではありませんが、見目が恐ろしいので」
「確かに。正直好きじゃないな、私も」
「見た目は悪いですが、味は良いのですよ。姫様」
そわそわと落ち着きのない雪華に、少女は「まさか……」と思いながらも、「食べたいの?」と彼に尋ねた。瞬間、普段あまり変わらない彼の表情が、パァッと輝く。
「あっ、も、申し訳ありません」
明らかに顔色が悪くなった少女に、雪華は慌てて謝罪する。
鳥である自分からすれば美味しそうなモノでも、人間からすればそうではないモノが多々ある事を今更思い出した。
「う、ううん。良いよ。食べること自体は全然良いんだけど……食べるんだったら、此処じゃなくて森にでも行って食べて欲しいなぁ……なんて」
「あはは」と空笑いする少女と慌てる雪華。
必死に彼女を慰めようとした彼の羽が数枚抜け落ち、宙を舞い、地へと落ちる。
それに気づいたのか、蜘蛛の足が少女達のいる建物の方へと向いた。
「……ねぇ、雪華、疾風」
「はい」
「なんだ?」
「蜘蛛の種類聞いてなかったんだけど、まさか……跳蜘蛛じゃ、ないよね……?」
『跳蜘蛛』とは、名前の通り、跳ねることで獲物を捕らえる蜘蛛のことだ。
飛行距離は個体差によるが、巨大であればあるほど、足のバネのような器官が発達し、遠くへ飛ぶことができる。
子供ほどの足を持つ跳蜘蛛の飛距離を予想し、恐る恐る尋ねる少女に、雪華と疾風は顔を見合わせると大きく頷き合った。
「流石です、姫様。正しくアレは跳蜘蛛です!」
「それもかなりでかいからな、かなりの距離を飛べるは……」
「雪華! 元の大きさに戻ってアレを森に! 近づかれたら建物ごと焼く自信しか無い!」
二匹の説明を遮り、叫ぶ少女にローブから引っ張り出される疾風。
「落ち着け」や「締まる……」といった彼の声など今の彼女には届いていない。
「いけません、姫様! すぐに喰らってきますから、疾風から手をお離し下さい! ああ、そんなに力を入れては疾風の口から腸が出てきてしまいます!」
「わ、私は落ち着いているよ? 落ち着いているから、雪華! アレ食べて戻ってくる時に水浴びしてきて。口も足もちゃんと洗ってから戻ってきて!」
「し、死ぬ……」
「か、畏まりました! では姫様、御前を失礼します!」
縫いぐるみか何かのようにぐったりし始めた疾風と、口では落ち着いていると言いながら明らかに動揺している少女の姿に、雪華は礼もそこそこに飛び立った。
王鷹という天敵の出現に気づき、逃げようとした蜘蛛だが、その速さに敵う訳もなく、その巨体をしっかりと掴まれ、あっという間に森へ姿を消した。
安心したのか、大きく息を吐き、疾風を離す少女。
その耳に誰かの「王鷹だ」という声が届く。
やはり目立つか。と、大きく深呼吸している疾風を再び隠した彼女は、今更駆けつけた兵士や再び集まり始めた人々を見て、反対側の路地へと降りた。
「あ」
「え?」
誰もいないと思っていた路地から聞こえた声に、少女はゆっくりと振り返る。
すると其処には、藍鉄色の髪をした青年と少女が、目を丸くして立っていた。
「こ、こんにちは……?」
「……こんにちは」
語尾に疑問符を感じる青年の挨拶に返事をし、少女がすぐさまその場を立ち去ろうと背を向けたその時、獣の咆哮が町に響いた。
「新手?」
少女の呟きに応えるように、何かの足音が近づいてくる。
「瑠璃、念の為に家に入ってろ」
「う、うん……でも……」
「大丈夫だから。あの、貴女も此方に……」
青年の言葉が掻き消える。
体全体をビリビリと震わせる咆哮に、少女は愛刀を取り出した。
「追い込め!」
「逃がすな!」
聞こえてくる兵士の声と足音。
猪や牛のような生き物なら、少女達がいる路地には来ない可能性が高い。
道が狭く、森からも離れてしまうからだ。
だが、此方側に来るという可能性が無い訳ではない。
追い込まれた獣の抵抗は、文字通り「死に物狂い」だ。
油断すれば、判断を間違えれば、此方の命が危ない。
刀を握り締め、息を殺し、此方に来るなと殺気を放つ。
自分や疾風はともかく、後ろにいる二人まで面倒は見られない。と少女が心の中で呟いていると、真っ黒な毛皮を持った『猪熊』が姿を見せた。
猪のような鋭い牙と体、熊のような固い毛を持つそれは、何を思ったのか方向を変え、少女に向かって突進してくる。
「大丈夫か? 姫さん」
「うん。まぁ、なんとか……それより疾風」
「安心しろ。アレはちゃんと大人だし、食える」
「そっか……って、そうじゃない」
後ろから聞こえる「お姉さん!」や「逃げろ!」という声を無視し、少女は刀を構える。
何事かと集まった人々の悲鳴や、追い立ててきた兵士達の怒号らしいモノが響く。
「ああ、なんか雪華の時もこんな感じだった気がする」
ふと思い出した光景と抱いた思いを口にし、迷うこと無く刀を振るう少女。
鈍い音が聞こえ、猪熊の首と体が離れた場所で落ちる。
ゆっくりと立ち込める鉄の匂いに眉を寄せていると、丁度戻ってきたらしい清華が人だかりから顔を覗かせた。