ボーイ・ミーツ・ガール! -5-
走ってきた勢いそのままに、扉を開けて玄関に転がり込む。くそ、流石にばててしまった。倒れ込んでしまう。
「ハヤトさん!」
エリゼが泣き出しそうな顔で迫る。先に部屋に入っていたらしい恵も、血相を変えて飛び出してくる。
「はーちゃん! どうしたの、何があったの!?」
いつもの飄々とした恵はどこへやら、走ってばててしまっただけの俺の肩を揺さぶる。
やめてくれ、いやマジでやめて。激しく揺らしすぎて吐きそうなんだけど。
「悪い悪い、走り過ぎでばてただけだから」
出来るだけ軽い調子で答える。だが、恵は依然として眉をしかめている。
「……何があったの?」
まあ、エリゼの様子で分かるか。
「また誰かと喧嘩したの?」
ああ、そうか。そういえば右手が痛い。改めて自分の右手を見る。
赤黒い血が、右指の付け根を濡らしていた。
「ハヤトさんが、ハヤトさんが天界の衛兵と!」
エリゼが咽び泣く。恵はエリゼの顔を見ると、優しく微笑む。
「そう、だったの……!? 大丈夫? 怪我は?」
エリゼは泣き顔のまま首を横に振る。恵は、よかった、と安堵のため息をつくと、再び険しい顔になり、俺を睨む。
「で、はーちゃん? あたし、もう喧嘩は止めてって言ってたはずなんだけど」
怒られるのは予想出来ていた。
「そのまま逃げていたら、確実にここがバレていた。そうしたら、恵、お前も危険だろ」
俺は整ってきた息を更に整えていきながら、恵に答える。
何としても、足止めをしなければならなかった。あの隠すつもりもない殺気に気付いていなかったらと思うと。
恵は諦めたようにため息をつき、ゆっくりと首を横に振る。
「昔っからこうなんだから、はーちゃんは」
「そうだったっけな」
ゆっくりと立ち上がる。目立った怪我は、右手以外にはない。右手の傷に関しても、深刻なものではなく、すぐに治るだろう。
「心配すんな、恵、エリゼ。死ぬつもりなんぞさらそらない」
あの時、約束したからな――。喉まで出かかった言葉を、気恥ずかしくて飲み込んでしまう。多分、言わなくても分かってはくれるだろうし。
俺は尚も心配そうに見つめる二人を尻目に、靴を脱いで台所のシンクで水道の蛇口を捻る。流水に、右手の甲を突っ込むと、血の筋が流れ落ちていくのと同時に、つんとした痛みを感じる。
まったく。心の中で大きくため息をつく。色々な事が立て続けにやって来て、本当に疲れた。
しかし。戦っている時に感じた違和感が徐々に大きくなっていく。魔王だと自称するエリゼは、曲がりなりにも魔力が強い方だろう。
敵対している相手だというならば、その事も警戒しているはずだ。何故、一人だけだったんだ?
もしかして、魔法が使えない、という事を既に分かっていたのか? だが、仮にそうならば、行動が早過ぎる。エリゼがここに迷い込んだのは昨日の事なのだ。
「はーちゃん!」
俺の思考を止めたのは、恵の明るい声だった。思わず振り返る。恵が抱えているのは救急箱だ。
「手当てするよ」
冷水で濡れた俺の右手を引っ張り込むと、恵は救急箱を開き、手際よく包帯を巻いていく。
「何だか、久々だね。こういうの」
恵は包帯を巻いた俺の右手を見つめながら、静かに呟く。
「そうだな。前は――中二の頃だった、よな?」
「違うよ、中三の秋」
ん? そうだったっけか。全然覚えていない。
「あの、ケイさん。ハヤトさんは昔から戦っていたんですか?」
エリゼがおずおずとした調子で話に入ってくる。恵は、むぅ、と不満そうに頬を膨らませながら、若干睨むような目で俺を見る。
「戦いじゃないよ、喧嘩だよけ・ん・か。昔っから事あるごとに、喧嘩しては怪我してるんだもん」
「誤解するなエリゼ。いじめっ子やらを懲らしめていただけだから」
エリゼは分かりかねるように首をかしげる。
「ハヤトさん、いじめられてたんですか?」
俺は思わず視線をそらし、恵を見る。恵に動揺している様子はない。恵は俺が見ている事に気付くと、微かに頷く。
「いじめられてたのは、あたし」
俺が答えるよりも先に、恵自身が答えていた。
「この世界じゃ、男が女の格好をしているのはまだおかしい事なんだ」
「ですけど」
「うん」
俺の右手を包んでいた恵の両手の力が、少し強くなる。
「でも、はーちゃんが励ましたり守ったりしてくれたから――。だから、今のあたしがあるんだ」
恵の手のぬくもりが、じんと右手に染み込む気がした。気恥しいな。空いた左手で頬をかく。
「でもはーちゃん、だからって無茶しないでね。大怪我しちゃったら元も子もないよ」
「――悪い」
恵から目を逸らす。もうあの頃とは違うのだ。その事を恵は無論、俺も分かっているつもりだ。
気まずさから何か声をかけようと、恵の方を再び見ると、恵は何かを思いついたかのようににたりと笑っていた。
「ふっふっふ」
「あの、恵さん?」
「はーちゃん、本当に右手の他には怪我ないの?」
あ、何だか嫌な予感がしてきた。
「少なくとも、右手以外にヘマをしたところはない、ぞ?」
恵の両手が俺の右手から離れ、怪しくわきわきと動く。
「エリゼちゃーん、しっかり押さえててねー」
本当にやめて欲しいやつだこれ! 俺は反射的にエリゼを見る。顔を赤らめたエリゼはしばらく俯いていたかと思うと、意を決したように顔を上げる。
「しっかり押さえます!」
何で恵に乗るの? いや腕を後ろに回さないで! 動けないんですけど!
「大丈夫だよはーちゃん、痛くしないから」
「いやいやいや、元から痛みはないっての! おいこら、ボタンを外すな!」
結局、そのまま俺は上半身を裸にされてしまった。男が男の裸を無理やり見ようとするのってどうなんだ。
エリゼは顔を両手で覆い隠すし、恵は鼻息が荒いし。
「凄い……。細いけど引き締まってる……」
エリゼが指と指の隙間から俺の体を見たらしい。感心したようなため息を漏らす。
「はーちゃん、相変わらず細マッチョだね」
恵が人差し指で俺の腹筋をなぞる。
「やめてくれ、くすぐったい」
どういう状況なのこれ。恵は満足そうに鼻を鳴らすと、俺の腹筋をなぞっていた人差し指をゆっくりとベルトの方へと下げていく。
「エリゼちゃんエリゼちゃん。――気になる?」
「馬鹿、マジでやめろ!」
俺の叫びは虚しく響き、
「……気に、なります」
とエリゼは頬を紅潮させて言う。
いや、待って二人とも。どうしてそんなに気になるの!?
「ストップ、ストーップ! 怪我はなかっただろ! ああ、そうだそうだ、そういえば腹が減った、ペコペコだ! 夕飯は何だ!」
俺はそそくさと自分の部屋に逃げ込んだ。危ない危ない。
――――――
「じゃあ、やっぱり天界の衛兵、なんだな」
テーブルを三人で囲み、唐揚げをかじる。うむ、美味い。じわりと肉汁が口の中に広がる。味付けもしつこ過ぎず、鶏肉の旨味を引き立てている。
「はい、マントと仮面から見て、まず間違いありません」
エリゼはフォークで唐揚げを刺しながら言う。一応練習はしているが、エリゼが箸を使えるようになるにはまだまだ時間が必要らしい。
恵は、あれ、と首をかしげる。
「じゃあ、戦いのプロって事だよね? はーちゃんが勝てるような相手だったの?」
丁度、俺も疑問に思っていた事だ。
目的は考えるまでもなく、エリゼの始末。魔王だというエリゼの地位、強大らしい魔力から考えると、生半可な人員を寄越すとは到底思えない。
一人だけだったとはいえ、渡り合えるような相手ではないはずだ。フォークを握った手を止めたかと思うと、エリゼはうなり出した。
「ボクもそこは気になりました。もしかして、この世界の人達って、皆こんなに強いんですか……?」
エリゼは顔を真っ青にして訊いてくる。
「そうでもないよ? はーちゃんじゃなかったらやられてると思うな」
恵が複雑そうに苦笑する。エリゼが、そうですよね、と前のめりに肯定する。
「ハヤトさん、すごくすごかったですよ! まるで、勇者みたいでした!」
エリゼは目を輝かせる。
「いや、魔王を守る勇者ってどうなんだ」
往年のRPGとかだと、勇者は魔王を倒す側じゃないのか?
「相手はやっぱり強かったんだよね?」
恵が唐揚げを頬張りながら訊く。
「少なくともチンピラよりは。ただ、あの人よりはなあ」
あの人は木刀を振った時の軌道が見えないから、防ぎようがないというか。
「とにかく、こういうのも含めて、キッチリとサポートはする。恵、すまんが許してくれ」
恵の方を向く。恵は一瞬だけ苦い顔をしたかと思うと、箸をゆっくりと置き、手を腰に当てて俺を睨む。
まるで、あの時のようだ。思わず、感慨にふけってしまいそうになる。
「本当はね、はーちゃんが怪我しちゃうの嫌なんだよ?」
でもね、と恵は目を閉じ、ため息をつきながら続ける。
「あたし、信じてるよ。はーちゃんがもう、あの頃とは違うって事」
恵の顔からは怒りや心配といった色が消え、優しい微笑みがこぼれる。俺も思わず、ふう、と息が漏れ出してしまった。
「ああ、あの頃とは違うさ」
あの頃、か。俺は頭の中で言葉を反芻する。そうだ。あの頃とはもう違う。
あの頃とはもう、状況が。目的が。相手が。そして、俺自身と、恵も。俺は、盾にならないといけない。そう決めたんだ。
「――ふああああ」
俺の思考を遮るように、エリゼが感心したようなため息を漏らす。
「……何だ? どうしたんだ、エリゼ」
唐突だったので、思わず俺はエリゼに訊いてしまう。あ、いや、とエリゼは顔を赤くしてもじもじとし出す。
「本当にお二人が、その、夫婦みたいだなー、と」
飲んでいる最中のお茶を吹き出してしまう。お茶が気管に少し入ってしまい、むせてしまう。うう、咳き込み過ぎて少し目が潤んできたぞ。
「けほっ、エリゼ、けほっけほっ、お前っ、お前なんて事いってんの?!」
「ん? はーちゃんそんなにオーバーなリアクションしてどうしたの?」
恵は何時もの飄々とした態度でティッシュの箱を差し出す。
「うわわわわわ、は、ハヤトさん大丈夫ですか!? もしかしてボク、何か駄目な事いっちゃいましたか!?」
爆弾(少なくとも俺にとっては)を投下した本人は本人でこれだからたちが悪い。
「だ、大丈夫、大丈夫だから……」
俺は恵が差し出してくれたティッシュで吹き出してしまった辺りを拭う。
俺だけやたらに意識しちゃってる感じになってしまっている。それはそれで何だか恥ずかしい。
「はーちゃん、もしかして意識してる?」
恵は恵で確実に図星を突いてくるし。一体今日は何なんだ、図星のバーゲンセールかよ!
「さあ、どうだろうな?」
何だか悔しくなってしまったので、答えをはぐらかす。恵はふふっ、と小さく笑うと、何かをぼそりと呟いた。
「ん、恵、どうかしたか」
「何でもないよ?」
むう、俺も俺ではぐらかされてしまった。