― 参 ―
病院の自動ドアを抜けて先に進むと、微かな消毒薬の臭いが鼻を刺激した。それが鼻の奥に残る血の臭いと混ざり、香取は傭兵として仕事をしていた時代の野戦病院の光景を思い出した。
あれから、香取は連絡のあった隅澤会の事務所に行ってみた。そこには『Pinky Dream』で見た以上に、凄まじい光景が広がっていた。
壁に残る無数の弾痕。だが、それらは全て、事務所のヤクザ者達が撃ったものである。辺りは一面、血の海だったが、そこに散らばっていたのは、かつては人間であったはずの醜い肉の塊だった。
スーツに身を包んだ屈強な男達が、恐怖と絶望に歪んだ顔のまま殺されている。両手のない者、首があらぬ方向へ曲がったまま動かなくなっている者など、どれも目を覆いたくなるようなものである。公には暴力団同士の抗争とでも発表すれば問題ないが、しかしこの死に様は酷い。それこそ、香取が以前に多くの戦場で見て来たような、壮絶な最後を遂げている者達の成れの果てばかりだった。
血の海に沈んだ刃や弾丸。それらの大半が無残にも破壊されているのを知って、香取は二重に驚愕した。
拳銃の弾が、まるでポップコーンを潰したかのように歪み、周囲に無造作に転がっていた。折れた匕首の刃が床に突き刺さっており、それをよく見ると、刃の部分がどれも大きく欠けていた。それこそ、まるで鋼鉄の壁を相手に発砲し、斬り掛かったとしか思えないほどに、どの武器も使い物にならない状態で見つかった。
そんな中、香取は事件の生き残りが病院に搬送されたという話を聞いて、こうしてやって来たのである。時刻は既に夜になっていたが、病院の医師達には超法規的措置であると言って推し通し、強引に面会を取り付けた。零係が公安に属しているのは、こういった事態に遭遇した際に便利だった。
蛍光灯の無機質な灯りに照らされた廊下を、香取は医師に案内されるままに進んで行った。途中、何か医師から説明があるかと思ったが、主治医と思しき初老の医師は、病室に到着するまで完全に口を閉ざしていた。
「……着きましたよ。まったく、患者は絶対安静だというのに……」
扉を開けたところで医師が何か文句を言っていたが、そんなことは香取にとって些細なことだった。ベッドの上に寝かされている男へと近寄ると、消毒液の匂いに混ざって、べったりと肺の中に貼り付くような血の匂いがした。
「あぁ……あんたか……」
香取に気づいたのか、寝ていた男が微かに首を動かし、弱々しい声で言った。そこに寝かされていたのは、以前に香取が隅澤会の事務所で会った後藤という男だった。
「無駄話をしている時間はない。何があったかだけ、手短に教えろ」
怪我の具合を尋ねるわけでもなく、香取が後藤に言った。実際、それをしたところでどうにもならないと、互いに言葉を交わすまでもなく解っていた。
後藤の肩に巻かれた包帯からは、今もうっすらと血が滲んでいる。そこから先にあるはずの両腕はなく、まるでマネキン人形のような有様だった。
「どうせ……信じて……くれんわい……」
後藤の口から、溜息と一緒に諦めとも受け取れる言葉が零れる。多くのヤクザ者を取り仕切っていた幹部も、今や文字通り両腕をもがれた負傷者に過ぎない。
「それは、俺が決めることだ。お前達の事務所にも行った。鉄砲玉の襲撃でないことくらい、こちらも理解している」
「へっ……そんなら、話が早いわ。早ぅ、ヒロシのやつの居場所、突き止めた方がええぞ。このままにしておけば……ワシらのような目に遭うやつが、仰山生まれるだけや……」
どこか遠くを見るような目で、後藤は香取に自らの見たものを語り出した。その瞳からは、既に以前の彼にあった、凄みの効いた鋭い眼光は失われていた。
「あの時間……突然、事務所にあの女が現れよった……」
「あの女?」
「みずきちゃんと言えば、わかるやろ。そっちが嗅ぎ回りよってた、ワシらのところにいた姫じゃ……」
金周美のことだ。みずきとは、彼女の源氏名。死んだはずの人間が、かつての職場だけでなく、その大元締めのところにまで現れたという事実に、香取の背中を戦慄が走った。
これは、単に幽霊を見た等という類の話ではない。監視カメラに映り、後藤達の前にも現れ、それぞれ物理的に甚大な被害を与えるだけの力を持った存在。今まで多くの心霊事件に関わって来たが、『死人』でありながらここまでの力を持った者を、香取は知らない。
「事務所に来るなり、みずきちゃんはヒロシを出せと言いよった。ただ……ワシらは、なんも言えんかったわ。なにしろ、死んだはずの女がふらっと、いきなり事務所に現れおったんやからのぅ……」
軽く咳込むように苦笑して、後藤は皮肉げな笑みを浮かべてみせた。もっとも、後藤も向こう側の世界に関わったことのない人間である以上、それが普通の反応だった。
「それで? お前達は、ヒロシをみずきに……いや、金周美に会わせたのか?」
「そんなん、会わせるわけないで。そもそも、死人の名前騙って事務所に来るような得体の知れん女や……」
ヤクザ者には、ヤクザ者の意地やプライドがある。実際、自分が後藤の立場であったなら、同じような対応をしただろうと、香取も思う。同時に、まさか死んだはずの人間が生き返り、事務所に現れることなどありえないとも考える。だが、今回に限っては、それが裏目に回ったようだ。
「ワシらの目の前で、みずきちゃんの服の裾が破れよって……いきなり、腕が3倍近くの太さにでっかくなりよった……」
そこから先は、現場を見たら解るだろうと後藤は続けた。巨腕を携えた怪物に変貌した金周美は、その恐るべき膂力を以て、部屋中のヤクザ者に見境なく襲い掛かって来たのだと。
「怪物、か……。お前達は、その怪物と戦ったんだな?」
「当然や……。もっとも、ドスもチャカの弾も、やつの身体にゃ効き目はなかったがのぅ……」
気が付くと、自分も腕を引き千切られ、ボロ雑巾のように投げ捨てられたと後藤は言った。そこから先は何も解らず、気が付いたら病院のベッドの上だったとも。
「あんなやつが野放しになったら……ワシらは飯の食い上げや……」
「お前達だけではない。警察や……場合によっては、機動隊や自衛隊を出しても同じことだ」
より詳しい話を聞きたいという気持ちを堪え、香取は押し殺すような声で付け加えた。後藤の顔が明らかに苦悶の表情を浮かべていることから、喋るのも限界が近いらしい。
「悪ぃな……。もう限界や……。医者……頼むで……」
そう、後藤が呟くように懇願したところで、ここまで案内してくれた医師が、後藤の腕に何かの薬を注射した。
あれは、恐らく痛み止めだろう。両腕を失ったばかりの男に、これ以上の会話は酷だ。
どの道、ここから先の仕事は自分達の領分である。後藤から得た僅かばかりのヒントを元に、香取は考えつつ部屋を出る。
通常、幽霊というものは、特定の場所に縛られる代わりに力を得ることが多いものだ。地縛霊などが典型的な例で、あまりに強力過ぎる力を持ったものは御霊信仰の対象となり、それらの場所はパワースポットとして崇められることも多い。
そうでなくとも、何らかの怨念を抱いたまま死んだ者の魂が家や土地に延々と残り続け、並み居る霊能者達の除霊を物ともせずに、不浄の土地として封印せざるを得なくなった場所も少なくはない。
だが、それに比べて、今回の事件はどうだろうか。仮に、あれが金周美の怨念だとした場合、あまりにも自由に動け過ぎている上に、殺害対象もまちまちだ。ならば、何者かに憑依して肉体を得たと考えるのが普通だが、それでは既に死んだはずの彼女が蘇っていることの説明にならない。どれだけ魂を憑依対象と融合させたところで、その対象の肉体まで生前の自分そっくりに作り変えることなどできはしない。
後藤は言っていた。金周美の腕が数倍に膨れ上がり、銃弾をも寄せ付けない怪物になったと。事件の鍵、周美の正体を知るためのヒントは、そこにある。
ここから先は、律の力を借りなければ真相に辿り着くことは不可能だろう。しかし、香取自身、まだやることが残っているのもまた知っていた。
(ヒロシ……あの、キャバクラでぼったくりをしていたガキか。どうやら、金周美とやつの間には、まだ俺達の知らない関係があるようだな)
敵が自由自在に動き回れる存在な以上、あまり時間があるとは言い難い。逸る気持ちを押さえつつ、香取は病院を後にした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
穏やかな音楽の流れる喫茶店の店内にて、準は再びキャバ嬢のあさみを前にしていた。
「えっと……その……何て言ったらいいか、僕にも解らないけど……」
だが、いざ彼女と対面してみると、準にはかける言葉が浮かばなかった。無理もない。いつものように店に向かおうとした矢先、いきなり店が潰れた挙句、何の保証もないままに放り出されたのだから。
夜の仕事とは、そういうものだと言ってしまえば簡単である。しかし、実際にそこで働いていた者からすれば堪ったものではないし、何よりも大勢の警察官が店を取り囲んでいたという事実が、あさみを余計に不安な気持ちにさせていた。
「すみません……。私がお店に誘ったのに、こんなことになってしまって……」
自分に責任がないにも関わらず、あさみは準に謝り倒すばかりだった。元より、他人とのコミュニケーションが苦手で、引っ込み思案なところもあるのかもしれない。初めて会った際にも感じたが、やはり彼女にキャバ嬢は向いていないのではないかと準は思った。
「私……そんなに、人気はありませんでしたけど……」
気まずい沈黙を破るようにして、あさみが口を開いた。その顔には演技とは到底思えない程に、重たい悲壮感が漂っていた。
「お店が潰れたら、やっぱり困ります……。私……これから、どうやってお金を稼げばいいんでしょうか……」
そう言っている間にも、あさみの瞳から大粒の涙が零れて落ちた。もっと、簡単で健全なアルバイトを探せば良いと言ってやりたかったが、続けてあさみの口から語られた話を聞いて、準はやはり何も言えなかった。
「私、このままじゃ学費、払えなくなります。オモニにお金、送ってもらうわけにもいきません」
以前、あさみは言っていた。大学の学費を払うために、夜の仕事をするしかなかったと。そして、その仕事を教えてくれたのが、他でもない金周美であったということも。
「周美は、お店のお兄さんに、もっとお金が稼げる仕事を教えてあげるっていわれて、お店を止めました。私は怖くて、御断りしたんですけど……それから周美には会ってません。それで……最後に、死んだって話を聞いて……」
既に、あさみの言葉は嗚咽の混じったものになっていた。本当は、他人にはそう簡単に話したくない話だったに違いない。だが、一度口から出てしまうと、全てを吐き出し終えるまで止まりそうになかった。
「探偵さん! 私も、やっぱり周美みたいに、もっとお金の稼げるお仕事しないと駄目なんですか? でも、そんなの嫌です! 男の人に、何されるか解らないのに……周美みたいに、誰にも気付かれないまま……いなくなるなんて……」
「い、いや、落ち着いて! そんなことしなくても、お金を稼ぐ方法だって見つかるよ。今は、とりあえず気持ちを静めて、もっと自分を大切に考えないと」
周りの目も気になってか、準は慌ててあさみを宥めた。席を挟んで隣に座っていた女性客が、何やら小声で話しているのが目に留まったからだ。
あさみの言いたいことは、準にも解る。留学生と言えば聞こえはいいが、異国の地で自ら金を稼ぎながら大学生活を続けるのは、それは大変なことだろう。実際、貧困から親が学費を捻出できず、仕方なしに夜の仕事で学費を稼ぐ学生がいるということも、準は知っている。
そういう者には、生活安全課に配属されていた際に何度も出会った。無論、非合法な売春に手を染めている者には厳しい対応をせざるを得なかったが、単に厳罰を与えればどうにかなる問題でもないと思っていた。
「あの……探偵さん……」
涙を堪え、唐突にあさみが口を開いたことで、準は一瞬だけ面食らった。色々と考えすぎていて、あさみに自分の身分を偽って教えていたことが、頭の中から消えていた。
「お店を潰したのって……その……もしかして、周美なんですか?」
「えっ……!?」
図星を突かれ、準はさっきよりも大きく動揺した。あさみは、何故にそんなことを言うのだろう。もしや、彼女はまだ自分に何か隠していることがあるのではないか。そんな疑念を抱いた準だったが、あさみは彼の様子に構うことなく、何とも奇妙なことを語り出した。
「私の生まれた国には、ハンの文化というものがあります。ハンは、日本の言葉で『恨む』という字を書きます」
「恨み? それじゃ、君は金周美が、何らかの恨みを抱いて店に復讐に来たっていうのかい?」
「馬鹿なことを言っていると、私も思います。でも、もしも周美の立場だったら……お店のお兄さんに、復讐したかもしれません。もし、周美が本当に死んでしまったなら……お店のお兄さんの紹介したお仕事に行かなければ、死ななくて済んだかもしれないですから……」
無茶苦茶な話をしているのは解っている。いくら『恨』の文化という考えが根底にあったとしても、死んだ者が生き返り、生前に恨みを持っていた者に復讐するなどと。
だが、それでも、自分は周美に生きていて欲しいと思っている。もし、死んで生き返ったのではなく、あの事件が何かの間違いで、本当はどこかで生存しているというのなら。そう言って、あさみは深く顔を落とし、掠れるような声で準に続けた。
「もし、死んだ周美が『恨』の気持ちで生き返ったなら……私、周美に謝りたいです。いえ、死んでなくても……周美が生きていても、やっぱり謝らなくちゃいけないんです」
「あ、謝るって……。だって、君と周美さんは友達だったんだろう? それに、君が周美さんに、何か酷いことをしたわけじゃ……」
「探偵さんには、そう見えるかもしれません。でも、違うんです。あの時、私も一緒にお兄さんに新しい仕事を紹介してもらえば、周美を独りぼっちにさせないで済みました。だから、生きてても死んでても、周美はきっと、私のことも恨んでいます」
それは、単なる逆恨みだ。そう言おうとした準の言葉を、あさみは静かに、しかしはっきりとした口調で遮った。
『恨』の文化とは、己の事態を受け入れることなく、飽くまで抵抗を続けること。そのためには、自然であろうと神であろうと、徹底して死ぬまで恨み続ける。災難に遭った自分の不幸を嘆くことで、複雑に絡み合った負の感情を、怨念のように凝り固まらせてしまうのだと。
「私が周美を探して欲しかったの……謝りたいのと同じくらい、怖かったからです……」
仮に金周美が生きていたら、『恨』の考えに基づいて、自分にも復讐の矛先を向けるのではないか。同じ復讐を遂げるにしても、まずは友人に矛先を向けた方が、キャバクラのオーナーに矛先を向けるよりも簡単だ。
階層型秩序において下位に位置する者は、どれだけ上位の者から搾取されても文句さえ言えない。だから、自分も同じように、より下位の者を虐げても構わない。そういった思想も、『恨』に含まれるのだとあさみは言った。そして、かつては自分もそんな考えに縛られていたが、この国に来て少しだけ変わったとも。
「誰かを恨んで生きること……とても、悲しいことです。日本に来て、嫌な人、悪い人、たくさん会いました。でも、同じくらい、優しい人も良い人もいました。『恨』の考えだと、そういう人達も、全部恨んでしまいます。そういう生き方になってしまいます……」
だが、自分は考えを少しだけ改めることができても、周美は改められなかったとあさみは語った。現に、周美は何度もあさみに仕事の愚痴を零しており、同時にキャバクラで金を落とす男達のことを、とても蔑んだ目で見ていたとも。
「探偵さん……。もし、よかったら、今日は私のアパートの近くまで、送っていただけますか?」
「えっ!? そ、それは構わないけど……。でも、いいのかい? 僕みたいな男に、一人暮らしの女の人を見送りさせるなんて……」
「大丈夫です。私、探偵さんのことは、信じてますから」
未だ目元を赤く腫らしながらも、あさみは柔らかな笑顔を作って準に答えた。その瞬間、準は全てを理解した。
この娘は、今時珍しいくらいに純粋なのだ。素直で、人を疑わず、それでいて未知の世界には恐怖を覚え、二の足を踏むこともある。
およそ、キャバクラ嬢には向いていない性格だ。学費のためとはいえ、慣れない水商売で無理して働くことは、かなりの苦痛だったに違いない。
もっとも、その性格が金周美と最後まで行動を共にさせず、彼女を悲劇から救ったのは皮肉としか言いようがなかった。そして、そんな彼女だからこそ、異国の地に独りで放り出され、いよいよ誰も頼る者がいなくなったということで、今の準に縋るしかなかったのだろう。
この娘を守ろう。そう、準は改めて思った。それは、彼女を食い物にしようとする裏社会の手からか、それとも未だ謎を残した金周美の存在からか。
その、どちらでも構わない。化け物と戦う力も、特殊な超能力も持ち合わせていないが、やれるだけのことはやってやる。そのためにも、今は『Pinky Dream』を襲撃した金周美を見つけ出し、その正体を暴かねば。
彼女を無事に送り届けたら、改めて香取や律に話をしてみよう。勝手な捜査をしたことを咎められるかもしれないが、それでも収穫は十分にあった。
仮に、金周美が『恨』の文化によって動いているのだとしたら、その存在は幽霊か、はたまたゾンビのようなものなのか。その謎を解明するためにも、一度零係の部屋に戻る必要があると、準は伝票を片手に席を立った。




