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― 弐 ―

 雑踏を抜け、準とあさみの二人が『Pinky Dream』の前に辿り着くと、そこは今までにない人込みでごった返していた。


「な、なんだ、これ……。香取さんから連絡があったから、急いで来てみたけど……」


「警察? もしかして、お店の人が何か悪いことしたんでしょうか?」


 準の後ろに隠れるようにして、あさみは両手で口元を覆ったまま震えていた。留学生でありながら水商売をしている彼女にとっては、警察と聞いただけで、どこか後ろめたい気持ちにさせられるとことがあったのかもしれない。


「とりあえず、もう少し前に行ってみないと、何があったのか解らないな」


 群がる野次馬を押し退けて、準はあさみを残したまま、警察手帳片手に黄色いテープの向こう側へと入った。幸い、周囲の者達の身体が壁となって、あさみに手帳を出したところを見られる心配はなかった。


「えぇと……香取さんは、もう来ているはずなんだけど……」


 周りにいる警察官の中から、準は香取の顔を探して回った。ここに来る直前、喫茶店で受けた香取からの電話。その内容を思い出し、準は焦りにも似た感情に自分が支配されつつあるのを理解していた。


――『Pinky Dream』が襲われた。


 その一報が、香取からあった電話の内容の全てだった。詳しい話は現場で話すとだけ言って電話を切ったことから、香取もまた相当に焦っているのだろうということが、準にも解った。


 出入りする捜査員達と擦れ違いながら、準はネオンの消えた看板の下にある『Pinky Dream』の入り口に足を踏み入れた。瞬間、むせ返るような血の臭いが混ざった空気が一度に流れ込んできて、思わず顔を顰めながらハンカチで口元を覆った。


「うぇ……なんだ、これ……」


 店の中は、以前に準が香取と共に訪れた時の面影など欠片もなかった。夜の世界を彩る華やかな装飾は無残にも破壊され、辺りには一面に無数の血痕が飛び散っている。テーブルもソファーも赤黒い血で染められて、割れた照明の破片や酒瓶が床のあちこちに散乱していた。


「……寺沢か。遅かったな」


 硝子の破片を踏み砕く音がして振り返ると、そこには香取が立っていた。吐き気を堪え、なんとか頭だけを下げる準だったが、何から尋ねて良いのかまでは思い付かなかった。


「見ての通り、酷い様だ。開店前、まだ客のいない時間だったことが幸いだったが……」


 しかし、それでも被害は甚大で、事も決して楽観視できる状況ではない。そう結んで、香取は改めて準の方へと向き直ると、現場の状況を壊さないよう注意しながら店の奥へと歩き出した。


「店が襲撃されたのは、今から一時間ほど前のことだ。襲われた従業員の話だと、開店前に店の裏口……従業員用の入り口に、奇妙な客人が現れたらしい」


「奇妙な客人?」


「そうだ。それ以外は、何も解らん。無事だった者に話を聞いたが、パニック状態でまともに会話もできない状態でな」


「そりゃ、こんな現場を見たら、そう思うのも無理ないですけど……」


 店内に漂う夥しい量の血の跡に、準はそれだけ言うのが精一杯だった。


 出血の量からして、恐らく血痕の持ち主は既に生きてはいないのだろう。ペンキをぶち撒けたように鮮血が飛び散っていることから、刃物で切り付けたとは考えにくい。それこそ、大口径の拳銃で撃たれるか、もしくは人体の一部を強引に引き千切りでもしない限り、こんな状況にはならないはずだ。


「結局、現場を封鎖した上で、ヤクザ者の出入りという形で発表するのが精一杯だった。後は、監視カメラの映像がどこまで残っているかだが……正直、バックルームや店内には、そこまで期待できる程の数のカメラが設置されているわけでもなくてな」


「それじゃ、この状況を作った犯人は、未だに解らないってことなんですか?」


 準の問いに、香取は無言で頷いた。現場には大量の血液が残されており、中には人体の一部とも思しき物まで転がっていたが、しかし弾痕の類は一つもない。犯行に拳銃が使われなかったことは明らかだ。


 まともに考えれば、上野のキャバクラに突如としてヒグマが出現し、大暴れしたとしか思えないような事態だった。無論、それを認めてしまうことは、妖怪や幽霊のような超常的存在を認めることと同じくらい、一般人にとっては荒唐無稽な話だろう。


 一通り店内を回ってから、香取と準は現場の保存を捜査員達に任せて店を出た。相変わらず外は野次馬が多い。そんな中、準は外で待機している捜査員の中に、氷川と律の姿を見つけた。


「なんや、新人クン。あんたも来とったんかいな」


 先を越されたことを意外そうに律が言った。だが、その一方で氷川は香取と準に手招きだけすると、停車していたパトカーの中へ二人を招き入れた。


「すみません、二人とも。実は、これを見て欲しいのですが……」


 いつになく真剣な表情で、氷川が二人に告げた。眼鏡の奥に光る二つの瞳が、パソコンの画面を鋭く真っ直ぐに射抜いていた。


「監視カメラの映像です。従業員用の通用口にあったものを、こちらで再生させてもらいました」


 パソコンのキーを素早く叩き、氷川が映像を再生させた。画質はそこまで良くない上に音声の録音機能もなかったが、贅沢は言えなかった。


 通用口の扉が開き、そこに女が入って来る。女の姿を見たボーイの一人が彼女に声を掛けた途端、二人の間で口論が始まった。否、口論というにしては、男の方の挙動が明らかにおかしい。まるで、何かこの世の者ではないような……それこそ、死人を見ているかのような慌てぶりであり。


(この女……まさか!?)


 そこまで見たとき、準は自分の頭の中に凄まじい勢いで電流が迸ったような感覚に陥っていた。


(金……周美……)


 喉まで出掛っていた女の名前を、準は済んでのところで慌てて飲み込んだ。ふと、隣にいる香取の顔を覗いてみると、彼もまたいつになく険しい表情になって、画面の中にいる女の顔を凝視していた。


「……どういうことだ、これは?」


 そう、香取が呟くのと、女がボーイの腕を捻り上げて画面の外へ放り出すのが同時だった。見た目からは想像もできない程の怪力。どう考えても理屈では説明できそうにない事態に、準は先日まで追い掛けていた不良少年達の起こした事件を思い出していた。


 霊的な存在に憑依された対象は、その力を平素の数倍まで増すことがある。だが、果たして画面の中の女もそうなのかまでは、現段階では解らない。


 やがて、女もまた画面の奥に消えたことで、しばらくは不気味な沈黙が続いた。再び女が画面の中に戻って来たとき、彼女は先に来ていた服とは別の衣服を身に纏っていた。


「なんや、この女? ちゃっかり、キャバ嬢の私服まで失敬しよったんかいな?」


 冗談交じりに律が言ったが、その場にいる誰も笑う者はなかった。店内の惨状から察するに、あれを女が一人でやったのだとしたら、酷く返り血を浴びていたであろうことは、想像に難くなかったからだ。


 パソコンの画面に映し出された映像が消えた後も、香取と準、そして律の三人は、誰も言葉を発しようとはしなかった。各々、色々と考えていることはあるのだろうが、何から話せば良いのか頭の整理が追い付かなかった。


「これが、『Pinky Dream』が襲撃された際に、監視カメラに残っていた映像の全てです。そして、画面に映っていた女ですが……」


 眼鏡の位置を直しながら説明する氷川の言葉に、重苦しい顔をして頷ずく香取。彼もまた、画面の女が何者なのか、認めたくないながらも感付いていたのだ。


「ああ、解っている。あれは、鶯谷のラブホテルで変死した女……金周美だ」


 死んだ者が蘇る。多くの心霊事件に関わって来た零係の者達にとっても、このような事態は初めてだった。あれが金周美の幽霊であれば話は別なのだが、しかし女の姿は何の変哲もない一般人のボーイにも見えていた。加えて、仮に彼女が店内での惨状を引き起こした張本人なのだとすれば、それこそ常人の手には負えない大悪霊ということになる。


 霊的な存在が攻撃を仕掛ける方法は、大まかに分けて二通り。一つは、何らかの肉体を手に入れた上で、物理的に直接攻撃を仕掛けること。他人の身体に憑依して操ったり、実際に融合して異形の化け物となったりするというのはそれだ。


 その一方で、もう一つは非物質化した霊的な身体……魂そのものを利用して、相手の魂を直接傷つけるというものである。だが、これは相手の身体に物理的な傷を負わせることはなく、『Pinky Dream』の店内で広がっていたような惨劇を引き起こすことは、まず考えられない。


 暴れ方からして、監視カメラが捉えた金周美が、単なる幽霊であるという可能性は極めて低かった。では、彼女はいかにして地獄の底から蘇り、復活したというのだろう。それこそ、悪魔やゾンビでなければ不可能な所業に、香取も氷川も、そして律でさえも、明確な答えを出すことはできなかった。


(それにしても……監視カメラに映っていた金周美、どこか違和感があるんだよな……)


 そんな中、準は先程まで見ていた映像の金周美に対し、どうしても奇妙な感覚を拭い去れないままだった。何が変なのだと尋ねられると困るのだが、とにかく頭のどこかに不自然な何かが引っ掛かっているのだ。


 そもそも、自分はなぜ、監視カメラの映像にあった女が金周美だと解ったのだろうか。喫茶店で、あさみから金周美の写真を見せられていたから、直ぐに気付くことができたのか。


 否、それは違う。金周美に関しては、心霊事件と思しき被害者の一人として、事前の捜査資料で顔写真くらいは見ていたはずだ。そうなると、今度はあさみから写真を見せられたとき、それが金周美本人だと直ぐに納得できなかったことの方がおかしいことになる。


(そうだ……。あの写真! あれを見れば、はっきりするはずだ!)


 喫茶店を出る際にあさみから送ってもらったメールの添付ファイルを開き、準は改めて先の映像の女と見比べてみた。一枚目、友人とふざけ合っている際の写真は、まあ似ていなくもないが……問題なのは、二枚目だった。


(やっぱり! この写真……いくらなんでも、若過ぎる!)


 人込みの中、こちらに少しだけ視線を送っているようにも見える周美の写真。その顔が、あまりに幼くあどけないことに、準はようやく気付いたのだ。


 韓国人留学生であり、キャバクラでの仕事ができる年齢でもあった周美は、当然のことながら18歳以上のはずである。しかし、写真の周美は未だどこか幼さの抜けない、中学生か高校生にしか見えない影を残している。


 金周美が生きていたという証拠が、急に色褪せて見えてきた。もしかすると、あさみは何らかの思惑を持って、中学や高校時代に撮影した写真を見せたのではあるまいか。ふと、そんな疑念が準の頭に浮かんで来たが、一緒に撮影されていた周囲の建物の看板を見たところで、それらは直ぐに否定された。


 看板の文字は、紛れもない日本語だった。日本人は海外に移住しても、チャイナタウンやコリアンタウンのようなコミュニティを作らない。韓国人である彼女達が日本語の看板が溢れる街で、中学や高校に通っていた時期に写真を撮るなど、そう簡単にできるとは思えない。


 結局、考えれば考えるだけ、新しく奇妙な謎が浮かび上がってくるだけだった。残された最後の可能性は写真の合成だが、そこまでしてあさみが準を騙す理由が、彼にはどうしても思い付かない。キャバ嬢として贔屓の客を作るにしても、もう少しやり方というものがあるだろう。


 どちらにせよ、この件は香取に報告せねばなるまい。勝手に捜査を進めたことで叱られるかもしれないが、その程度のことは覚悟の上だ。


「あの、すいません。実は……」


 そう、準が言い掛けた矢先、香取の携帯電話がけたたましく鳴った。何とも間の悪いことに思わず舌打ちをしそうになる準だったが、電話に出た香取の表情があまりに険しかったので、それさえも溜められわれ、ただ何も言わずに動向を見守るだけだった。


「こちら香取だ……。なにぃっ! ……解った、直ぐに現場へ直行する!」


 準だけでなく、隣にいた氷川や律でさえも、香取の剣幕に目を丸くしていた。普段は大きく構えている香取が、ここまで慌てるのも珍しかったからだ。


「どうしたんですか、香取さん? この期に及んで、また新しく事件が?」


 確認するような氷川の問い掛けに、香取は声を殺して頷いた。その上で、携帯電話を乱暴にポケットへ捻じ込むと、改めて他の三人に向けて語り出した。


「そういうことだ。悪いが、この現場での捜査はお前達に任せた。俺は一足先に、隅澤会の連中がやっている事務所に行かなければならん」


「隅澤会……。確か、広域指定暴力団の一つですよね?」


「その通りだ。そして、『Pinkiy Dream』の大元締めでもある」


 そこで新しい事件が起きた。香取がそこまで説明したことで、氷川と律は既に何かを察していた。


 実質上、零系のリーダーでもある香取が単独で動く。しかも、これだけ大きな事件のあった後にも関わらず、緊急に動かねばならない必然性に駆られてのこと。


 想像し得る限り最悪のシナリオが、零系の者達の頭の中に浮かんで来た。それを口にしなかったのは、口にすることで認めたくない現実を認めざるを得ないと、誰もが心のどこかで気付いていたからに他ならなかった。

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