― 終 ―
廃工場の片隅に、刃が空を斬る音が響く。浪速の呪縛師、印藤律。彼女の用いる武器の縄鏢が、赤眼白髪の少年を確実に追い詰めていた。
「さあ、もう逃げ場はないで。いい加減、諦めて観念しいや」
迫り来る猛犬の魂を難なく払い除け、律は一歩ずつ少年へと近づいて行った。が、それでも未だ自らの状況を理解していないのか、少年はひたすらに配下である犬の霊を律へとけしかけ続けていた。
「く、くそっ! なんで……なんでだよ! あんた達だって、俺と同じ力を持ってるくせに……どうして、腐った国家権力の手先になんか……」
「やっかましいわ! 見た目が変わっとるから差別された? 他人の見えへんもんが見えるから避けられた? そんな人間が自分一人だけやと思ったら、大間違いや!」
最後の配下を失った少年の言葉を遮るようにして、律が一括した。普段の彼女からは想像もつかないような、激しい怒りに満ちた口調だった。
「ウチかて、ガキんちょの頃は、友達なんておらへんかった。幽霊を見た言うたって、誰も信じてくれへん。ほら吹き扱いされて、虐められて……それでも、歪んだら負けやって思うて頑張ったんや! 心の中まで醜くなったら、生きたまま『悪霊』と同じ存在になる……。だから、絶対に負けんと、心に誓って抗ったんや!」
心病みし者が向こう側の世界に触れた時、病みは闇となり現実を侵食する。その身に霊的な力を宿し、それを用いて魔を払うことを生業とする者達の間に、まことしやかに伝わる言葉。
本当に恐ろしいのは、闇の中で蠢く魑魅魍魎の類ではない。恨み、妬み、嫉みといった諸々の負の感情。それらによって歪められた魂のもたらす陰の力。それこそが、この世に怪異を呼び起こし、人々を救いようのない運命へと導く禁忌の存在なのである。
少年が堕ちたのは、他でもない彼自身の心の弱さが原因だ。恨みに根差した感情で、徒に力を振るったところで何も生まれない。その先にあるのは輝かしい改革された世界などではなく、数多の犠牲の上に成り立つ、悠久のディストピア。
まだ、今ならやり直せる。だから、もう諦めて降参しろ。そう言って手を差し伸べようとした律だったが、そんな彼女の指先を、鋭く鈍い光が音を立てて掠めた。
「……っ!?」
「あまり、僕を甘く見ないで欲しいね。今ならやり直せる? そんな詭弁で、僕を更生させられるとでも思ったのかい?」
その手に銀色のバタフライナイフを握り、少年はどんよりと濁った瞳で律に言った。
「たしかに、あんたの力は凄まじいよ。正直、僕自身が驚いているくらいなんだからさ……。でも、いくら凄い力を持っていても、物理的な刃物が相手ならどうかな?」
霊的な力が通じないのであれば、ナイフで直接斬り付ければいい。既に、まともな思考さえできなくなっているのか、少年はナイフを垂直に構え、真正面から律に突進して来た。
「死ねぇぇぇっ!!」
避けようと思えば避けられる距離だ。しかし、律は何故か微動だにせず、ただ自分へと向かってくる少年を静かに見据えている。まるで、そうすることが最良であると、最初から知っているかのように。これ以上は動かずとも、既に全ての勝負は決していると言わんばかりに。
果たして、そんな律の様子に違わず、少年の背中に鋭い衝撃が走り、彼の手からナイフが零れ落ちた。
「……がっ!? あ、あんたは……」
体勢を崩して転倒した少年が、辛うじて首だけを横に向けた。そこに立っていたのは他でもない、香取と準の前から一足先に姿を消していた氷川だった。
「遅いで、氷川クン。あんまり遅いから、あの化け物にやられたかと思ったわ」
「それは、申し訳ありません。ですが、こちらも捕らわれた婦警を助けねばなりませんでしたので。幸い、二人とも無事でしたから、もう心配はありませんよ」
いつも通りの穏やかな口調で語りつつ、氷川が落ちていたナイフを蹴り飛ばす。だが、口元では笑っているものの、眼鏡の向こう側にある二つの瞳は、決して笑顔のときのそれにはなっていなかったが。
「ば、馬鹿な……。この僕が……人間だけじゃなく、幽霊の存在でさえ感知できる、この僕が……背後からの接近に気付かなかったなんて……」
片腕を氷川に捻り上げられながらも、少年は未だ自らの敗北を認めていなかった。もっとも、手駒も武器も失った今の状況では、さすがに何もできはしまい。
「やれやれ……。世の中には、まだまだ未知の力を持った存在がいるんですよ。それを知らずして、自らの力を過信した代償です。何も驚くことはない……これは必然なんですよ」
身体を捩って抗う少年を後ろ手にして手錠をかけ、氷川はさも当たり前のように言ってのけた。
「そちらが生まれつき霊魂を操る力を持っていたように、私も力を持って生まれたんですよ。全ての生き物が持つ準静電界の膜。それを一時的に消すことで、気配を完全に消すという力をね」
無論、それだけでなく、実際には殺気を鎮めるための呼吸法や、生体電流のコントロール等、その力を効率よく扱うために、多岐に渡る様々な訓練が必要になるのだが。己の持つ力の性質を軽く伝え、氷川は小さく苦笑してみせた。
自らの気配を完全に消すことで、人間だけでなく時に幽霊さえも容易に欺く。電気の膜だけでなく、魂の発する一種の電磁波さえも遮断できる、氷川だけにできる芸当だ。
電影の氷川は、その名の如く電気を操り影に溶ける。一見すると地味な能力だが、潜入と捜査を生業とする警察官としては、これほど頼りになる力もない。
「さぁて、そろそろ年貢の納め時や。あんたの中に眠るけったいな力……今、ウチが二度と出て来んよう封印してやるで」
「……や、やめろ! そんなことをされたら、僕は……僕は……」
銀製の鎖を取り出して迫る律の姿に、少年が初めて怯えるような声を出した。しかし、それで思い止まってもらうには、彼は悪戯に罪を重ね過ぎた。
「そんなに力が惜しいのですか? その力のせいで差別されたと言っておきながら、随分と身勝手なのですね」
冷淡な視線を浴びせつつ、氷川が少年の身体を抑え込む。向こう側の世界に通じる禁忌の力。それは善悪の判断が伴わない、単なる子どもには過ぎた代物だと。
「世の中には、あんたよりも辛い思いしながら、それでもしっかり生きとる人間が仰山おるんや。一度、力を失って、ただの人間になってみれば、それが解るで」
「い、いやだ……! 僕は……僕はぁぁぁっ!!」
そう、少年が叫んだのと、律が少年の首に鎖を巻き付け、複雑な印を結んだのが同時だった。
「秘儀、禁魂念縛呪や! 己の所業……これから何の力も持たない人として生き続けることで、たっぷり後悔するとええで!」
瞬間、律の叫びに呼応するように、少年の首に巻き付いた銀の鎖が激しく輝く。それはまるで、夜中に舞い降りた刹那の夜明け。月下の廃工場を真昼の如き閃光が包み込み……その光が静まったときには、少年は既に白目を剥いて、完全に意識を失っていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
零係の仕事部屋に準達が戻った頃には、既に真夜中となっていた。
「結局、何がしたかったんでしょうね、あの少年は……」
机の上を簡単に片付け、準は誰に尋ねるともなく口にした。
不良を煽り、常軌を逸した力を与え、警官を殺させることで騒ぎを大きくする。その結果、全国の不良達が一斉に蜂起して、世間を引っくり返せるとでも思っていたのだろうか。
そうだとすれば、それはあまりに浅はかな計画だ。それこそ、子どもの思い付くような、B級小説か漫画の世界でしかない。
そして、そんな下らない計画のために、多くの者が命を落とした。そのことが、今の準には何よりも悔やまれてならなかった。
「あまり、深く考えるな。口では色々と言っていたが、結局のところは歪んだエゴに憑かれた者の妄想に過ぎん。あのガキがやっていたことは、そういうことだ」
悶々と悩んでいる準を見兼ねてか、香取が煙草の煙を吐き出しながら言った。
あの少年は、最期まで自分の行動が正しいと信じて止まなかった。そして、そのためには他の人間がどれだけ犠牲になろうとも、何ら心を痛める素振りを見せなかった。怪物というのであれば、廃工場で戦った人狼の化け物以上に、あの少年の心にこそ怪物が宿っていた。
少年は言った。自分は全ての差別をなくすため、この力を持って世界を変えるのだと。だが、本当に差別をなくしたいのであれば、このような愚かな行動を選択するのではなく、それこそ政治家にでもなって、地道に世界を変えて行くしかない。
少年は早急に結果を求め過ぎたのだろう。そして、いつまでも結果の出せない現実に嫌気がさして、早々に自らの殻に閉じこもり、異界の力へと逃げた。現実を直視することなく、口では差別の撤廃を謳いながら、決して他者への慈愛の心を抱くこともなく、全てを自分の手駒としてしか見ようとせずに。
「まあ、当然の結果といえば、当然の結果ですよ。これから先、彼が普通の人間として生きる中で、少しでもそれを悔いてくれればいいんですけどね」
果たして、彼に更生の余地は残されているのか。それは分からないが、少なくともそう信じたいものだと氷川は香取の言葉に続けて添えた。
「でも、大変なのはこれからだよな。あそこまで騒ぎを大きくしたら、さすがに隠し通すのは……」
重たい身体を椅子の上に降ろし、準が身体を大きく伸ばす。だが、そんな彼の心配もまた、香取と氷川の二人が告げた言葉によって消え去った。
「そこの辺りも心配は要らん。出回った動画は、既に氷川の方で削除済みだ」
「ついでに、例の少年の使っていたサイトも、完全にデリートしておきました。今回の件も、公には不良達の暴走ということで処理されますから、心配は無用です」
零係の仕事は、あくまで心霊事件の隠蔽が主。情報の変遷が激しいネットの世界のことだ。一時は下らないネタとして各所で扱われることもあろうが、まさか裏に霊的な力を持った者の存在がいたとは、誰も思うまいと。
「そ、そういえば、その不良達はどうなったんだ? まさか、あのまま死んだなんてことは……」
途端に思い出し、準が叫んだ。廃工場で戦った不良達は、全て律によって失神させられたはず。律の話では、彼らは体内に宿した犬の霊と分離できないという話だったが、まさかそのまま永遠に目覚めぬよう封印されてしまったのだろうか。
「なんや、気になるんかい、新人クン。そっちも、ウチの方でぬかりなく処理しておいたで。ちょいとばかり、過去の伝手を頼らせてもろたけど……まあ、運が良ければ三年くらいでまともな生活送れるようになるで」
準の言葉を聞いて、律がにやりと笑う。何をしたのかまでは教えてくれなかったが、少なくとも死んだわけではないらしい。
(それにしても……今回の事件、僕は何もできなかったな。ただ、少し幽霊が見えるってくらいで、本当に香取さん達の力になれるのか……)
黄泉帰りの香取、電影の氷川、そして浪速の呪縛師・印藤律。彼らの力に比べ、自分は少し人と違ったものが見える以外は、特に何の取り柄もない。
零係の面々の持つ凄まじいまでの特殊能力。それを目の当たりにさせられた準は、どこか自分の中に、焦りにも似た何かを抱きつつあった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
早朝、朝の陽射しが降り注ぐ庭の片隅にて。
古めかしい日本家屋の縁側で、年配の女性が庭の草をむしる少年達の姿を見つめている。以前、律に霊犬の茶々丸を貸した、市川蒔絵だ。
庭の掃除を続ける少年達は、その全てが先の事件で身体に犬の霊魂を宿した者ばかりだった。もっとも、律の呪縛によって今は力を封じられ、警察官を素手で殺すような膂力を発揮することも不可能である。
少年達の頭からは、かつての派手な色の髪の毛もまた消えていた。全員が頭を丸く刈られ、衣服は貸し出された作業着のみ。淡々と庭の雑草を始末している彼らの姿からは、既に不良と呼ばれていた頃の面影はない。
「くっそ……。身体に力が入らねぇ……」
少年の一人が、悪態を吐きながら額の汗を拭って言った。無理もない。朝早く、ここで目覚めてから、食事として出されたのは菜っ葉の入った粥と煮豆だけ。おまけに、まるで身体が石のように重たく感じられ、自分の身体ではないようだ。
否、もしかすると、それは本当に彼ら自身の身体とは言えなかったのかもしれない。
昨晩、律が彼らに施した呪縛。それによって、彼らの魂と融合した犬の魂は、その深層域へと力を閉じ込められていた。
人間であろうと動物であろうと、魂としての本質に代わりはない。元が邪神に匹敵する存在ならいざ知らず、その辺を漂っている不浄霊程度では、いつしか本体である人間の魂に取り込まれて、その力も肉体から抜けて行ってしまう。
もっとも、それが完全に成されるまでには、まだ随分と長い時間を必要とした。融合してしまった犬の魂が人間のものと溶け合い、完全に消滅してしまうまで、彼らは修行中の密教僧のような生活を強いられることとなる。
犬の魂に力を与えないため、彼らは決して肉や魚といった生臭物を食べることが許されない。本能的な欲求に従うことも拙いので、とにかく肉体を動かすことで、煩悩から少しでも離れた生活をする他にない。
これから彼らは、しかるべき寺に預けられ、そこで霊的な毒抜きを行われることとなる。市川家での労働は、あくまで繋ぎの意味でしかない。
だが、それでもあのまま化け物として死んでしまうよりは、幾分かマシな結末だった。今まで、欲望の赴くままに生きて来た不良少年達にとっては苦しいことかもしれないが、これで少しは彼らも更生に近づけるかもしれないのだから。
「さあ、そこが終わったら、次は御屋敷のお掃除をしていただきますよ。あなた達に頼みたい仕事は、まだまだ山ほどあるのです」
毅然とした口調で、蒔絵が言った。その言葉に、思わず何人かの少年が蒔絵のことを睨んだが、傍らに伏せっている茶々丸が唸り声を上げて立ち上がったことで、すぐに首を縮めて庭の草取りに戻って行った。
「騙されていたとはいえ、あなた方は他人を傷つけ、殺めることに、何の躊躇いも持たなかった。それでも、まだあなた方のことを見捨てずに、救われようとする方もおられること……それを、肝に銘じて働きなさい」
蒔絵の言葉が終わると同時に、庭の池に備え付けられていた鹿脅しが、軽快な音を立てて鳴り響いた。若気の至りで済ませるには、随分と過ぎたことをしてしまった少年達。彼らが真に許される日は、近いようでまだ遠い。




