第三十一話
クリスマスが過ぎ、忙しい年末が過ぎた。
榊さんと俺の関係は少し落ち着いて、彼女が困った顔をする回数が減った。
困った顔じゃなく、ちゃんと嬉しそうな顔をしてくれるようになったから。
年が明けた1月1日。
榊さんと出かけた初詣で、俺は彼女に結婚を申し込んだ。
きっかけは、初詣先の浅草寺で偶然に会った椚係長夫妻だった。
椚さんは、俺が入社したときに庶務係にいた先輩。
榊さんとも1年間一緒に仕事をしている。
その後、給与係の係長になったあと、奥さんの復職と交代して、何か月か育児休業を取っていたこともある。
穏やかな、人当たりの良い人で、社内のセクハラ相談員などもやっている。
社内結婚の奥さんである春香さんは、出先の事業所の係長。
春香さんもよく用事で庶務係に来るので、俺たちはみんな顔見知りだった。
まだ椚さんが庶務係にいたころ、春香さんが赤ちゃんを連れて来たことがある。
カウンターから「りょうちゃん、りょうちゃん!」と呼ばれて、諦めた様子で苦笑していた椚さんが、俺には物珍しくて可笑しかった。
春香さんは、にこにこと知り合いに手を振ったり、赤ちゃんを見せたりして、とても楽しそうだった。
二人が周囲から温かく受け入れられているのを見て、俺は社内結婚の見本を見たような気がしたのだった。
浅草寺で会った二人…じゃない、お子さんを入れて三人は、なんともほのぼのとした家族連れだった。
甘酒を飲んでいる俺たちを見て、春香さんが何かを思い出したらしく、「あのときは可笑しかったよね?」と、椚さんを見ながらくすくす笑った。
眠ってしまった男の子を抱いた椚さんは、春香さんにちょっと顔をしかめてみせた。
「あ、ごめんなさーい。うふふふふ♪」
春香さんが楽しそうに笑う。
春香さんはこんなふうに無邪気なひとだけれど、仕事では大きな契約を何件もまとめた実績を持っている。
「職場ではまだ内緒?」
椚さんの質問に、俺たちは顔を見合わせてから頷いた。
槙瀬さんと里沢さん以外、まだ誰も知らないままだ。
「結婚を考えているなら、職場の都合もあるだろうから、上の人には早めに話した方がいいよ。」
椚さんの言葉に、春香さんもうんうんと頷いた。
にこやかに手を振って去って行く椚さんたちを見送りながら、俺は決心した。
迷う理由なんて、何も無かった。
壁にぶち当たったら二人で乗り越えればいい。
榊さんと一緒なら、きっと大丈夫だ。
「結婚しましょう、榊さん。」
振り向きざまに宣言すると、榊さんが目を丸くした。
隣で甘酒を飲んでいたカップルは、さり気なく俺たちから距離を取った。
ちょうど横を通った参拝客は、俺たちをじろじろ見ながら通り過ぎた。
「何? 甘酒で酔っ払ってるの?」
榊さんが小声で尋ねる。
「いいえ、酔ってません。何か問題ありますか?」
「え、あ、その……、早いんじゃないかと。」
「何が?」
「決めるのが。」
「え? 俺たち知り合ってから、もう4年ですよ?」
「ああ、まあ、それはそうだけど……。」
榊さんは、困った顔をした。
「もしかして、まだ “お試し期間中” だって言うんですか?」
「あ…、そういうわけじゃ…ないけど。」
「じゃあ、どうして?」
「なんか……、あたしでいいのかなって……。」
そう言って下を向いてしまった彼女に、少し質問を変えてみる。
「榊さんは、俺が相手じゃ無理ですか?」
「え?」
「俺と一緒の未来は想像できませんか?」
何秒か考えてから、彼女は首を横に振った。
「ううん、そんなことない。紺野さんとなら、ずーっと上手くやっていける気がする。」
真面目な表情で答えた彼女には、迷う気配はなかった。
「じゃあ、しましょう、結婚。」
「……いいのかな?」
どうしてそこで迷うんだろう?
後戻りできないから?
「俺だって、4年も榊さんを見てきてるんですよ? それで今、こんなに好きなのに。」
「うわ、声が大きいよ。」
「べつにいいです。恥ずかしくないし。」
口に出しているうちにますますその気になって、それ以外考えられなくなってしまった。
榊さんにOKをもらうまで絶対に諦めない! という気分。
「だから結婚してください。」
榊さんは気まずそうな様子でこっそり周囲を見回して、「こんな人混みで……?」とつぶやいた。
隣のカップルには、今ではもう遠慮なく注目されている。
「俺、榊さんと離れたくないです。」
「え?」
「ずっと一緒にいたい。愛してま ――― 」
「うわわ、わ、分かりましたっ。分かったから。」
なだめるような仕種で、榊さんが慌てて俺を止めた。
そして。
「はい。します。紺野さんと結婚する。これでいい?」
「はい。やった!」
嬉しくて思わずバンザイした俺に、目が合った隣のカップルの男性が「おめっとざーす。」と言ってくれた。
甘酒屋のおばさんは、「お祝いに特別。」と言っておかわりをくれた。
榊さんの分まで甘酒を飲んでほろ酔い気分になった俺は、どこかのテレビ局の「今年の目標は?」というインタビューに、「世界平和です!」と答えた。
「いいところはありそう?」
プロポーズから1か月。
婚約指輪を選びに行った帰りに俺の部屋に来た榊さんが、台所でケーキを皿に乗せながら尋ねた。
俺はカーペットの上の小さいテーブルでパソコンを開き、結婚式場を探している。
ホテルに教会、神社、結婚式専門の施設にレストラン、式を挙げようと思ったら、選択肢はたくさんある。
そして、費用もさまざまだ。
「まあ、それなりには。」
もう半分飽きてしまった俺は、ぼんやりと画面を切り替えながら返事をする。
元旦に結婚する約束をした俺たちは、三が日の間に両方の家にあいさつに行った。
娘に彼氏の気配がないと思っていた榊さんの親御さんも、4年間も付き合っていた相手と違う女性を紹介されたうちの両親も、かなり驚いていた。
どちらにも反対されなかったのは、榊さんに対する信頼が大きいと思う。
榊さんのご両親は、しっかり者の娘が選んだ相手だから。
俺の両親は、榊さんと話して安心したから。
やっぱり榊さんは素晴らしいひとだ。
でも、相変わらず、彼女は「好き」とは言ってくれない。
腕を組むのも、手をつなぐのも俺から。
たまに、そのことがちょっとだけ淋しくなる。
こんなに好きなのは、俺だけなんじゃないかって。
俺はそのたびに榊さんの恥ずかしそうな笑顔を思い出して、「そんなことない。」と自分で言い聞かせる。
それに、いくら何でも、それほど好きじゃない相手とは結婚まではしないはずだ。
「テーブルを少し空けてくれる?」
台所から声がかかった。
「はーい。」
俺はパソコンをずらしながら、彼女がお盆を持って来るのをそっと見守った。
彼女がどこに座るのかと、少しドキドキしながら。
榊さんが部屋に来るのは結婚を決めたあと2度め。
前回は二人で夕食を作って食べて、それで終わり。
もちろん楽しかったけど、ちょっとだけ物足りなかった。
まあ、榊さんにとっては初めての “彼氏の部屋” だったから ―― だって、熱を出したときは単なるお見舞いだ ―― 後のことも考えて、安心してもらう必要があったんだけど。
今日は少しだけ先に進みたい。
ほんの少しでいいから。
膝をついてテーブルにケーキと紅茶を並べながら、榊さんは友達の結婚式の話をしている。
それからお盆を台所に置きに行き、戻って来て……隣に座った。
(よし!)
緊張して、少し鼓動が速くなる。
榊さんがいる側の肌がちりちりする。
「どんなところがあるの?」
隣からパソコンを覗き込む彼女。
俺は履歴画面からいくつか開いて見せながら解説。
でも、頭の中ではべつなことを考えている。
「どれがいいのか分からないね。予約でいっぱいかも知れないし。」
彼女が首を傾げながら俺の方を向いた。
(今だ。)
榊さんに、込められるだけの想いを込めて微笑みかける。
「式が挙げられなくても、先に一緒に住んじゃうっていう方法もあるけど。」
「え?」
訊き返した隙を狙い、彼女の唇にそっとキスを。
(榊さんのファーストキス、もーらった♪)
驚いて固まっている彼女にもう一度。
そして、まだぼんやりと俺の顔を見ている彼女を抱き締めて、ゆっくりともう一度 ――― 。
彼女の肩に力が入り、ちょっともがいて体を引いた。
ぱっちりと目を開けて、俺を間近に見つめた彼女の口から出たのは。
「え、ええと、紅茶、どうぞ?」
「くふっ。」
思わず笑ってしまった。
きっと、どうしたらいいのか分からないのだ。
紅茶をどうぞと言ったきり、困った顔さえできなくて、ぽかんと俺を見ている。
(今日はここまでかな。)
男が苦手な榊さんの、俺は初めての恋人。
“腕を組む” と “手を握る” の次の段階としては、これくらいが限界だろうか?
「じゃあ、そうしようかな。」
最後にもう一度だけ軽くキスをして、彼女から手を離した。
ホッとした様子で彼女はパソコンを遠くに押しやり、ケーキと紅茶を二人の前に並べなおす。
それから。
(え……。)
すすす…と寄って来て、ぴとっと横にくっついた。
(榊さん……。)
こんなに素直に自分から近付いてくれたのは初めて。
その可愛らしい愛情表現に胸がいっぱいになる。
愛しくて愛しくてたまらない。
嬉しさを隠すため、彼女の方は見ずに、ケーキにフォークを入れる。
腕に、榊さんが笑った気配を感じた。
「あのねえ、紺野さん。」
軽く俺に寄り掛かり、紅茶のカップをそっとつつきながら、榊さんがつぶやいた。
甘えた声に胸が震える。
「はい?」
「あたしねえ。」
「うん。」
「紺野さんのこと、とっても好き。」
(うわ。)
ガチャン! とフォークが皿に当たった。
一瞬、自分の耳を疑った。
(何だこれは!?)
絶対に聞けないと思っていた言葉。
それを、こんなに可愛らしく言われるなんて!
「あはは、嬉しいなあ。特にどこが?」
あまりにも嬉しすぎるせいか、態度が妙に硬くなってしまった。
心臓はバクバクしてるし、フォークも上手く扱えていない。
「んー…、あのねえ、一緒にいると安心なの。」
「安心?」
「そう。いつも心配して見ていてくれるから。」
俺の肩に寄り掛かったまま、満足そうに目を閉じる彼女。
――― 「安心なの。」
その言葉が、俺の胸にずどんと響いた。
それこそ俺が目指していたものだ。
彼女に与えたいと思っていたもの。
「んふふ…。」
彼女がまた笑った。
まるで酔っ払っているみたいに。
今まで酒の席でだって、こんなにふにゃふにゃになった榊さんは見たことがない。
(キスでこんなになっちゃうなんて、可愛すぎる〜!!)
俺は結婚式を急いで決めようと決心した。
式場が決まらなくても、なるべく早く籍を入れて一緒に住もうと。
(うん、そうだ。そうしたら……。)
二人の生活を想像したら、一気にやる気が湧いてきた。
「榊さん。さっさと食べて、探しましょう。」
相変わらずくすくす笑っている彼女を急かし、ケーキを大きく切ってほおばる。
それを紅茶で流し込む俺を見て、彼女がまた笑った。
でも、どんなに笑われても何でもない。
彼女が「好き」って言ってくれたから。
俺のそばで安心していてくれるから。
(それに……。)
俺に寄り掛かってくすくす笑っている榊さんをそっとながめる。
(こんな姿、他人には絶対に見せられないな。)
これこそ本当の秘密だ。
誰も見たことがない、俺だけが知っている榊さんの秘密。
「幸せになりましょうね。」
「んー。」
またくすくすと笑って、榊さんが頷いた。
俺は大急ぎで残りのケーキを飲み込んで、気合いを入れてパソコンに向かった。
------- おしまい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
いつも通りのハッピーエンド、楽しんでいただけたでしょうか。
今回、10作目という切りの良い作品でしたので、1作目にちょっとだけつなげてみました。最初から椚くんの職場のレイアウトを思い浮かべながら書いていましたし。
でも当初は、二人を登場させるつもりはなかったのですけれど。
さて。
『榊さんの秘密』はこれでおしまいです。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
みなさまにも、楽しくて幸せなことがたくさんありますように!
虹色