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第15巻:如月令嬢は『空想の産物を認めない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『総理』 ~section 10:足元のチリと、暗転する意識~

 深紅の最高級羊毛で織り上げられた赤絨毯の上に、崩れ落ちた初老の男の荒く、絶望的な呼吸音だけが、ひどく場違いな、そしてひどく惨めなノイズとして響いていた。


 野党の重鎮であり、長年にわたってこの国会議事堂という権力と欲望が渦巻く魔窟を、自らの庭であるかのように我が物顔で泳ぎ回ってきた男、益田孝市。彼が数十年の政治生活で泥水をすすりながら築き上げてきた盤石な地位も、計算し尽くされた名誉も、どんな追及もかわしてきた狡猾な処世術も。そして、悪質な土建業者と結託し、巧妙なダミー会社と資金洗浄のネットワークによって完全に隠蔽してきたはずの、数十億規模の巨大な不正スキームも。

 そのすべてが、たった一個の、本来であれば誰も見向きもしないような無価値な『工業用のガラス玉』と、高級なイタリア製革靴の靴底に刻み込まれたミクロン単位の傷跡という、極めて微小で、しかし宇宙の法則において絶対に反証不可能な物理的証拠の前に、完膚なきまでに叩き潰されたのだ。


 両膝を無様に突き、背後にそびえ立つ巨漢のSP・黒田の鋼鉄のような両腕によって完全に拘束された益田は、もはや人間の言葉を発することすらできず、ただ虚ろで濁りきった目で己の足元――自らの取り返しのつかない罪を決定的に証明した革靴の爪先を、魂が抜け落ちたように呆然と見つめ続けている。


 その、もはや政治家としての命脈を完全に絶たれた惨めな敗者の頭上から。

 漆黒のベルベット生地をふんだんに使用したゴシックドレスを身に纏う内閣総理大臣・如月瑠璃の、氷のように冷たく、そしてどこまでも残酷なほどに澄み切った声が降り注いだ。


「国を憂うなどと、マイクの前で中身のない大言壮語を吐く前に。まずは己の足元にこびりついた、その見苦しいチリを払うのじゃな」


 それは、悪を憎む正義の執行者の言葉でもなければ、不正を暴いたことに対する誇らしげな勝者の言葉でもなかった。

 彼女の深いアメジストの瞳に宿っているのは、純粋な知的好奇心が満たされたことへの静かな充足感と、目の前に転がっている『エラーを起こした不要な物体』に対する、極限まで冷え切った無関心だけだった。


 如月瑠璃という孤高の天才にとって、この議場に渦巻くドロドロとした政治的な思惑も、国民の血税が数億円規模で横領されたという背信の事実も、さらには沿岸部の防波堤の手抜き工事によって数十万人の市民の命と財産が直接的な危険に晒されていたという国家的な危機すらも。

 そのすべては、彼女の心を一ミリたりとも揺さぶることはない。彼女は他者の悲しみや怒り、あるいは権力欲といった情動のメカニズムを、完璧な論理の視座で『理解・解明』することはできても、そこに『共感』して寄り添うようなことは絶対にしない人間なのだ。


 彼女がこの巨大な密室と化した議場で、国会という国家の最高機関の機能を完全に停止させてまで科捜研を召集し、圧倒的な論理の刃を振るって一人の権力者を断罪したただ一つの理由。

 それは、『なぜ、あの直径一センチの工業用撹拌球が、演壇のすぐ足元の赤絨毯に不自然に落ちていたのか』という、極めて純粋で、極めてミクロな物理的矛盾のルーツを探求するためだけである。

 結果として益田孝市という巨悪を白日の下に暴き出し、国家のインフラを崩壊の危機から未然に救ったという歴史的な偉業すらも、彼女の論理回路においては『一個のガラス玉がそこにあった理由を物理的に証明するための、単なる副産物』に過ぎないのだった。


「サクタロウ。……どうやら、この空間を支配していた不快な情動のノイズは、完全に沈黙したようじゃな」


 如月さんは、純白のオーダーメイド手袋に包まれた指先で、自身の胸元を飾るアメジストのブローチにそっと触れながら、秘書官席で完全にフリーズしている僕に向かって、優雅に振り返った。


「あ……は、はい……。完全に、ぐうの音も出ないほどに、叩き潰しましたね……」


 僕が極度の緊張でカラカラに乾いた喉から、掠れた声で答えた、まさにその瞬間だった。


「――っ! 総理! 如月総理!」


「益田議員の不正は事実なのですか! 防波堤の手抜き工事とは、月見坂市の沿岸部工事のことですね!」


「ダミー会社との関係について、さらなる詳細な説明を求めます!」


 議事堂の二階、如月さんの常軌を逸した鑑定プロセスを前に完全にフリーズしていた記者席・傍聴席から、突如としてダムが決壊したような大歓声と怒号が爆発した。

 世紀の大スクープ、それも現職の総理大臣が自ら議場で野党の重鎮の巨大汚職を、科捜研まで動員して完全論破するという前代未聞の事態の全貌を理解したマスコミの記者たちが、狂ったように手元のカメラのシャッターを切り始めたのだ。

 バシャバシャバシャバシャッ!!!という、まるで鼓膜を直接物理的に殴りつけるようなシャッター音の連雷と共に、数百、数千という凄まじい数の強力なフラッシュの白い閃光が、議場全体を巨大なストロボライトのように激しく、そして暴力的に明滅させる。


 それを引き金として、一階の議席で硬直していた与野党の国会議員たちも、一斉に統制の取れないパニック状態に陥った。

 ある者は益田を糾弾し、自らの潔白をアピールするために机を叩いて立ち上がり、ある者は自らの派閥への類焼を恐れて顔面を蒼白にしながら携帯電話を取り出し──通信が完全にジャミングされていることにも気づかずに──、またある者は、この議会制民主主義の歴史上かつてない異常事態に、ただ頭を抱えて絶叫している。


「黒田さん! 黒田さん、ヤバいです! 完全に議場の統制が崩壊してます! このままじゃパニックになったマスコミや議員たちが、演壇に殺到してきますよ!」


 僕は、再びドリルでえぐられるような激痛を訴え始めた胃を両手で強く押さえながら、悲鳴のような声を上げた。

 しかし、そんな阿鼻叫喚のカオスの中で。

 漆黒のスーツに身を包んだ巨漢のSP、黒田さんだけは、まるで時間の流れが全く違う別の次元に生きているかのように、完璧な冷静さと、異常なまでのプロフェッショナルを維持し続けていた。


「――アルファ・ゼロより全チーム。対象の確保および無力化を完了。これより総理を絶対防衛ラインへと移行する。フォーメーション・デルタを展開せよ」


 黒田さんが耳元の極小インカムに向かって、感情の一切こもっていない声で低く囁いた瞬間。

 封鎖されていた議場の重厚なケヤキの扉が外側から一斉に開け放たれ、そこから数十名の屈強なSPたちが、まるで完全に統率の取れた一個の巨大な生物のように、本会議場へと雪崩れ込んできた。

 彼らは瞬く間に演壇の周囲を取り囲み、如月瑠璃を中心とした完璧な『ダイヤモンド・フォーメーション』を構築する。狂ったように瞬くフラッシュの閃光も、議員たちの見苦しい怒号も、その分厚い筋肉と漆黒のスーツの壁に完全に阻まれ、如月さんのいる中心部には一切のノイズとして届かない。


 さらに驚くべきことに。

 黒田さんは、確保した益田孝市の身柄を他のSPに引き渡すと、一切の足音を立てずに如月さんの傍らへと戻り、自身のスーツの隠しポケットから『何か』を取り出した。


「総理。長時間の高度な演算、大変お疲れ様でございました。脳の糖分消費の補填と、交感神経の緊張を緩和するための、ダージリンのファーストフラッシュでございます。温度は総理の指定通り、六十八度に最適化しております」


「……黒田さん、アンタ本当に頭のネジ飛んでるんじゃないの!?」


 僕は思わず、秘書官という立場も忘れてツッコミの咆哮を上げてしまった。

 暴動寸前の国会議事堂の中心。数千のフラッシュが焚かれ、歴史的な大汚職の摘発によって怒号が飛び交うこの極限状態のド真ん中で。

 あの漆黒の巨漢は、どこからともなく取り出した最高級のボーンチャイナのティーカップと、それに合わせた美しいソーサーを、表面に一滴の波紋すら立てることなく、如月さんの手元へと極めて優雅な所作で差し出したのだ。


「重畳じゃ、黒田。……やはり、高度に脳を使った後の紅茶の香りは、感覚器を心地よくリセットしてくれるの」


 如月さんは、周囲の騒乱など、最初からこの宇宙に全く存在しないかのように。あるいはそれらを、自らのティータイムを彩るただの安っぽいBGMとでも受け取っているかのように、純白の手袋に包まれた指先でティーカップの取っ手を上品に摘み、目を閉じてその高貴な香りを楽しみ、一口、静かに喉を鳴らした。


 ゴシックドレスの少女が、屈強なSPの壁に守られた国会の演壇の上で、一人優雅にティータイムを満喫している。

 もはや現実感など微塵もない、あまりにもシュールで狂気に満ちた、一枚の前衛芸術の絵画のような光景だった。


「如月さん……もう、勘弁してください……。僕の胃は、もう限界です……」


 僕は、秘書官の重厚なデスクに力なく突っ伏し、首を締め付けていた高級なオーダーメイドスーツのネクタイを乱暴に引き緩めた。

 十六歳の、しがない男子高校生の許容量は、とっくの昔に限界を突破し、完全な崩壊を迎えていた。僕の頭の中には、国家予算の膨大な数字の羅列と、複雑怪奇な権力闘争の相関図、そして如月さんが展開した難解な物理・化学の専門用語がぐちゃぐちゃのヘドロのように混ざり合い、それが致死量のストレスとなって胃の粘膜を容赦なく削り取っている。


 キリキリ、キリキリキリキリッ……!!


 物理的な痛み。いや、これは『夢の中の世界』での出来事であるはずなのに、脳が完全に現実だと錯覚しているのか、胃酸が逆流してくるような鮮烈な不快感と、腹部を万力で締め上げられるような激痛が、僕の意識を急速に混濁させていく。


(限界だ……。なんで僕が、こんなところで総理秘書官なんていう、世界で一番寿命が縮む仕事をさせられなきゃならないんだ。ただの冴えない高校生なのに……。早く、早く旧校舎の図書室の、あの埃っぽいけど落ち着く定位置に帰りたい……!)


 僕が机の上で胃の痛みに悶え、薄れゆく意識の中で必死に呼吸を整えようとしていると。


「……サクタロウ」


 ふと、頭上から如月さんの声が降ってきた。

 顔を上げると、ティーカップを片手にした如月さんが、深いアメジストの瞳を少しだけ細め、どこかアンニュイな、あるいは深い失望を孕んだような表情で、議場の高い天井……煌びやかなステンドグラスを見上げていた。


「どうしたんですか……? まだ、何か見落としている物理的エラーが残ってるんですか……?」


 僕が掠れた声で尋ねると、如月さんは小さく、本当に小さく、冷ややかなため息を一つこぼした。


「……いや。エラーはすべて完璧に修正され、ルーツの解明は終了した。しかし……わしは少し、この空間というものに対して、過剰な期待を抱きすぎていたようじゃ」


 彼女の視線が、美しいステンドグラスの天井から、議場で醜く騒ぎ立てている議員たちや、特ダネに群がるハイエナのようなマスコミの群れへと移る。


「国会議事堂。国家の最高意思決定機関であり、選ばれし権力の中枢。……そこには、旧市街の埃まみれの路地裏や、寂れた旧校舎の図書室では到底巡り会えないような、極めて高度で複雑な、わしの知的好奇心を極限まで刺激するような『未知なるルーツを持つモノ』が眠っているのではないかと、わずかながら推測しておったのじゃがな」


 如月さんは、空になったティーカップをソーサーに戻し、黒田さんに手渡した。


「蓋を開けてみれば、なんのことはない。そこに転がっていたのは、自分の権力欲を満たし、他者を蹴落としてでも私腹を肥やそうとする、人間の限りなく低俗で、陳腐で、救いようのないほどに薄汚れた『情動の残骸』に過ぎなかった。……使われている塗料の成分が少しばかり高価で珍しいものであっただけで、その根底にあるルーツの醜悪さは、その辺の公園の砂場に落ちているゴミとなんら変わらん」


 彼女の横顔は、この国を恐ろしい陰謀から救い出した英雄のそれではなく、ただひたすらに、読み終えた退屈で陳腐なミステリー小説を本棚に戻す時のような、冷めきった無関心に包まれていた。


「……やはり権力の中枢という空間も、落ちているモノのルーツの陳腐さは変わらぬの。……ひどく、退屈じゃ」


 その、心の底からの落胆と退屈を込めた彼女の呟きを聞いた瞬間。

 僕の胃の痛みは、一瞬だけ、強烈な呆れと、そしてある種の『致命的な気づき』へと変化した。


(……ああ。そうだ。おかしいじゃないか。どうして僕は、今まで気づかなかったんだ)


 激痛に苛まれる脳内で、急激にパズルのピースが組み合わさっていく。

 一国の総理大臣の秘書官という、あり得ないほどの重圧。

 国税庁のデータベースを息をするようにハッキングし、暴徒と化した政治家を片手で制圧する、サイボーグのようなSPの黒田さん。


(いくらなんでも、黒田さんがスーパーハッカーなんて設定、現実離れしすぎている。……そうだ、これは『僕の夢』だった。僕の脳が、僕の無意識が作り出した、僕自身の願望と恐怖のプロジェクションマッピングなんだ!)


 僕自身がガジェットやサブカルチャーを好むからこそ、頼りになる黒田さんを『物理攻撃もサイバー戦も無敵な、SF映画のターミネーターのような最強のSP』として脳内で極端に都合よく改変してしまったのだ。

 そして、総理秘書官という胃に穴が空くようなポジションは、現実世界における『如月瑠璃という規格外の天才に振り回される助手』としてのプレッシャーが、国会という舞台装置を借りて悪夢のように肥大化したものに過ぎない。


(だけど……僕の脳が、この世界をどれだけカオスに改変しようとも)


 僕は、演壇の上でゴシックドレスを揺らす少女の背中を見つめた。


(如月瑠璃だけは……絶対に、如月瑠璃のままなんだ)


 夢の中くらい、もっと常識的で、スーツでも着ていて、僕に優しい普通の政治家に改変してもよかったはずだ。

 しかし、僕の深層心理は、彼女が『あの漆黒のゴシックドレスと純白の手袋を脱ぐこと』を、絶対に許容しなかった。どんな異常な空間であろうと、彼女は銀のルーペを持ち、懐中時計で調律し、人間の情動を冷たく切り捨てて、ただ物理的真理のみを探求する。


 僕の脳は、彼女がその『フォーマット』を崩すことなど、宇宙の法則が乱れてもあり得ないということを、細胞レベルで完全に理解し、屈服してしまっているのだ。


(国会という最高の舞台で、総理大臣という最強の権力を持たせても。如月瑠璃という人間の、その狂気じみたブレない『フォーマット』だけは、絶対に変わらないんだな……!)


 僕は心の中で、痛む胃を抱えながら、最後にして最大のツッコミの絶叫を上げた。

 その叫びが、僕の脳内で限界点に達した、まさにその刹那だった。


「――っ!?」


 ぐにゃり、と。

 世界を構成する空間の座標が、突然、スライムのように不気味に歪み始めた。

 僕の鼓膜を狂ったように叩き続けていたマスコミのシャッター音も、議員たちの怒号も。まるで深い水の中に沈められていくように、ゴボゴボという不鮮明なノイズへと変わり、急速に遠ざかっていく。


 視界を埋め尽くしていた無数の白いフラッシュの閃光が、今度は完全に反転して、底知れぬ漆黒の闇へと塗り潰されていく。

 重厚なケヤキの木目調の壁も、足元の深紅の赤絨毯も、僕が操作していたタブレット端末も、すべてがドロドロに溶け出し、意味を持たない液状の色彩へと形を失っていく。

 僕の身体を締め付けていた高級なオーダーメイドスーツの窮屈な感触すらも、フッと重力を失い、真っ暗な宇宙空間に投げ出されたような、強烈な浮遊感へと変わった。


(……終わる。この国会という異常な『もしも』の夢の空間が、また、僕の脳内でリセットされる……!)


 薄れゆく意識の淵。

 完全に溶け落ちていく世界の中で、僕は最後に、僕の視界のすぐ横で、漆黒のゴシックドレスの美しい裾が、静かに闇へと溶けていくのを見た。

 その、僕の脳内ですら決して変えることのできなかった、孤高の天才の姿が完全に視界から消失すると同時に。僕の意識は完璧な暗黒へと落ちていき。


 次の瞬間、僕のイカれた脳髄が再び構築するであろう、次なる『狂気のもしもの世界』への、果てしない落下を開始したのだった。



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