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第15巻:如月令嬢は『空想の産物を認めない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『総理』 ~Section 8:微小な土砂と、架空の公共事業~

「私は昨晩、この議場にはいなかった! その清掃業者とやらがガラス玉を落としたことと、私の政治資金管理団体に多額の献金があったことは、全くの偶然であり、独立した別々の事象だ! 私自身が直接不正に関与したという証拠がどこにある!」


 数百人の国会議員が息を呑んで見守る衆議院本会議場の中央で、野党の重鎮・益田孝市の血を吐くような絶叫がこだましていた。


 彼の放った詭弁は、長年にわたり魑魅魍魎が跋扈する永田町の泥水のような権力闘争を生き抜いてきた政治家特有の、極めて往生際が悪く、しかし法的な防衛線としてはひどく厄介なものだった。

 ダミー会社を通じた資金洗浄のルートが国税庁のデータによって白日に晒されようとも、彼は『すべては秘書が勝手に処理した事務的なミスだ』という長多町の伝統的なトカゲの尻尾切りを発動させた。さらに、清掃業者を装った正体不明の土建業者が議場に侵入し、演壇の下に工業用の撹拌球を落としていったという物理的事実に対しても、『業者が勝手にやったことであり、自分は全く関知していない』と、事象の繋がりを強引に切断してみせたのだ。


 出口の重厚なケヤキの扉を背にし、SPの黒田さんという絶対的な暴力の壁に怯えながらも、益田の濁った瞳の奥には、まだ『直接的な物証さえなければ、法廷闘争で泥仕合に持ち込んで絶対に逃げ切れる』という、どす黒い生存本能の火が燻っていた。


(くそっ……! あそこまで外堀を埋められて、まだあんな見え透いた嘘で逃げる気かよ……!)


 確かに、彼の言う通りなのだ。現状の証拠だけでは、『益田の口座に不審な金が入ったこと』と『議場に業者の落とし物があったこと』の二つの事実が並行して存在しているだけで、益田孝市という人間が『自らの意思で』その不正なスキームを主導したという決定的な結びつきが欠けている。

 日本の司法において、この『疑わしきは罰せず』の壁は途方もなく分厚い。


 しかし。

 彼が対峙しているのは、人間の作った法律や情状酌量、あるいは『秘書の責任』などという不確かな政治的免罪符で動く月見坂地検特捜部ではない。

 すべての事象をミクロン単位の物理的証拠のみで冷酷に裁断し、人間の情動や空想の産物を一切認めないゴシックドレスの総理大臣、如月瑠璃だった。


「サクタロウ。人間という生物は、かくも自らの生み出した『嘘』という名のノイズに無自覚で、そして滑稽なものじゃな」


 如月さんは、出口で喚き散らす益田の必死の詭弁を一瞥だにせず、純白のオーダーメイド手袋に包まれた指先で、美しく繊細な銀細工が施されたアンティークのルーペを静かに持ち上げた。

 議事堂の高い天井から降り注ぐ強力な照明が、純銀のフレームに反射して冷たい光の筋を空間に描く。彼女の深いアメジストの瞳は、すでに益田孝市という一人の老醜を晒す政治家の存在を完全に視界からデリートし、シャーレの上に置かれた直径一センチの『ガラス玉』という小宇宙へと、再び深く、深く潜行を開始していた。


「科捜研の者たちよ。お主らの持ち込んだ測定機器は、まだその本来の性能の半分も発揮しておらんぞ。ただちに作業を再開するのじゃ」


 如月さんの凛とした、しかし絶対的な命令が、静寂に包まれた議場に響き渡った。


「は、はいっ! 次はどのような分析を……!」


 白い防護服に身を包んだ科捜研のリーダーが、慌てて背筋を伸ばし、機材のコンソールに手を伸ばす。彼らはすでに、警視庁の上層部からの命令や、目の前で喚いている大物政治家の存在よりも、この一人の少女の持つ圧倒的な『科学的知性』に完全に支配されていた。


「先ほどの分析は、あくまでガラス玉の『表面に付着していた塗料成分』の特定に過ぎん。しかし、この撹拌球の表面には、高粘度の重防食塗料のタンク内で長期間激しく衝突を繰り返したことによって生じた、無数の『摩耗痕』……ミクロン単位の深い傷の谷間が刻み込まれておる。お主らの為すべきことは、その傷の奥底をさらに覗き込むことじゃ」


 如月さんは、銀のルーペ越しにガラス玉を睨みつけながら、極めて専門的で的確な指示を飛ばす。


「対象物をデジタルマイクロスコープのステージに固定せよ。倍率を光学限界まで引き上げ、表面の傷の最も深い裂け目(クレバス)に焦点を合わせるのじゃ。そして、エネルギー分散型X線分析を用いて、その傷の谷間に残留している極微量の『無機物』の元素組成を完全にマッピングせよ」


「傷の奥底の、無機物……! 承知いたしました!」


 科捜研の職員たちが、阿吽の呼吸で機材を操作する。

 議事堂の壁面に備え付けられた巨大なプロジェクター・スクリーンに、先ほどの資金洗浄のフローチャートに代わって、デジタルマイクロスコープが捉えたガラス玉の表面の超拡大映像が映し出された。


「うわ……なんだこれ……」


 僕は秘書官席からスクリーンを見上げ、思わず顔をしかめた。

 肉眼ではただ少し白く濁って見えるだけの、直径一センチの小さなガラス玉。しかし、数千倍という倍率で拡大されたその表面は、まるで隕石の衝突を無数に受けた月面か、あるいは荒涼たるグランドキャニオンのように、深く、鋭くえぐれた無数の傷跡に覆い尽くされていた。これが、特殊塗料の巨大な攪拌タンクの中で、長期間にわたって激しく削られ続けた物理的な証拠なのだ。


 そして。

 如月さんの予言通り、その深くえぐれたガラスの傷の谷間の奥底には、フッ素樹脂塗料のカスとは明らかに異なる、不規則な形状をした極小の『粒』がいくつも食い込んでいるのが、はっきりとスクリーンに映し出されていた。


「これじゃ」


 演壇の上で、如月さんの美しい唇が、知的好奇心を満たした残酷な弧を描いた。


「この撹拌球は、使用後に塗料タンクから取り出され、洗浄もされずに不法に廃棄されたか、あるいは杜撰な管理のもとで屋外の地面に転がり落ちたのじゃ。そして、その際に、表面の深い傷の中に現場の『土砂』が入り込み、そのままガッチリと食い込んで固定された。……さて、測定機器たちよ。そのミクロン単位の土砂の正体を、元素レベルで白日に晒すのじゃ」


「解析、完了しました!」


 科捜研のオペレーターが、上擦った声で報告を上げる。スクリーンの拡大映像の横に、様々な元素記号と、その含有量を示す波形グラフが次々と表示されていった。


「……信じられません。この極微量の土砂の粒子の中から、複数の特異な成分が検出されました。主成分は二酸化ケイ素……すなわち一般的な砂ですが、それに加えて、大量の『炭酸カルシウム』。さらに、極微量の『カドミウム』や『鉛』といった重金属、そして『特定の化学スラグ』の成分が、極めて特徴的な比率で混ざり合っています!」


「完璧じゃな」


 如月さんは、その報告を聞き、満足げに一つ頷いた。

 そして、漆黒のゴシックドレスの裾を優雅に翻し、再び議場全体を見渡すように視線を上げた。その冷徹なアメジストの瞳は、逃げ道を塞がれて顔面を蒼白にしている益田孝市を、真っ直ぐに射抜いていた。


「益田よ。お主の放った『すべては偶然であり、自分は関係ない』という陳腐なブーメランを、今ここでお主自身の脳天に深々と突き刺してやろう。耳の穴をかっぽじって、自らの犯した物理的エラーの解説を聞くのじゃな」


 議場の空気が、張り詰めた糸のように限界まで引き絞られる。

 数百人の議員たちが、固唾を飲んで一人の少女の唇から紡がれる「解明」を待っていた。


「科捜研の分析結果が示す、このガラス玉の傷に食い込んでいた土砂の正体。まず、大量の炭酸カルシウム……これは、砕け散った『貝殻』の粉末じゃ。つまり、この土砂は内陸部の山砂や川砂などではなく、沿岸部、あるいは海底から直接採取された『海砂』であることを物理的に証明しておる」


 如月さんの声は、マイクを通していないにもかかわらず、議事堂の隅々にまで異常なほどのクリアさで響き渡った。


「さらに、そこに混入していた微量な重金属と化学スラグ。これは、過去の高度経済成長期において、工業廃水や産業廃棄物が大量に不法投棄され、そのまま地中に埋め立てられた特定の工業地帯の地層に特有のケミカル・シグネチャーじゃ。海砂でありながら、極めて特殊な産業廃棄物の痕跡を内包する土壌。……サクタロウ、この条件に完全に合致する、現在大規模な土木工事が行われている場所が、この月見坂市周辺に一箇所だけ存在するはずじゃ」


 突然話を振られ、僕は秘書官席のタブレットを慌てて操作した。

 僕の脳内にインストールされた情報と、先ほどのマクロ経済の答弁で如月さん自身が口にしていたデータが、一瞬にして繋がる。


「……あ、あります! 月見坂市の南部、かつての大規模な埋立地を利用して現在進行中の巨大公共事業……『月見坂市沿岸部・防波堤補強工事』の現場です! あそこの地盤は、古い産業廃棄物の埋立層と海砂が混ざり合った、極めて特殊な土壌構造をしています!」


 僕の弾んだ声が議場に響く。


「その通りじゃ」


 如月さんは、僕の報告を肯定し、益田に向かって冷酷な一歩を踏み出した。


「そして、この『月見坂市沿岸部・防波堤補強工事』を国から強引に誘致し、事業の元請け企業を決定する絶大な権限を持っていたのは、他ならぬお主の派閥じゃな、益田孝市」


「あ……う、あ……」


 立ち尽くす益田の口から、カエルが潰されたような呻き声が漏れた。

 彼の全身から、先ほどまでの『余裕のある大物政治家』を演じていた虚勢は完全に消し飛び、ただ己の罪の核心が白日の下に晒される恐怖に怯える、惨めな老人の姿へと成り果てていた。


「これですべての事象が、一本の完璧な物理的方程式として繋がった」


 如月さんは、純白の手袋の指先で、空間に見えない図形を描くように滑らかに動かした。


「お主は先ほど、自分は何も知らない、秘書が勝手にダミー会社からの献金を受け取っただけだとほざいたな。しかし、このガラス玉に付着していた『防波堤工事現場の特異な土砂』と、『重防食塗料の成分』の組み合わせが、お主らが裏で手を染めていた恐るべき手品の全貌を、完全に暴き出しておる」


 彼女は、議場を埋め尽くす議員たち、そしてテレビカメラの向こう側にいる数千万人の国民に向かって、あまりにも残酷な真実を解き明かし始めた。


「海沿いの巨大な防波堤という過酷な環境下では、鉄筋コンクリートの内部の鉄骨を塩害から守るため、極めて高価で耐久性の高い『フッ素樹脂系・重防食塗料』を何層にもわたって塗布することが、設計図の段階で厳密に義務付けられている。当然、その特殊塗料の購入費と施工費として、莫大な『国家予算』が計上され、国民の血税が投入される」


 その言葉に、議場にいた与党の国土交通省関係の議員たちが、ハッと顔色を変え、互いに顔を見合わせた。


「しかし、あのダミー会社……実態は益田の息の掛かった悪質な土建業者は、その高価な重防食塗料を正規のルートで発注したという『書類だけ』を偽造したのじゃ。そして実際の現場では、指定された塗料を一切使用せず、耐久性の極めて劣る粗悪で安価なペンキを使い、防波堤をただ上っ面だけ綺麗に塗りつぶして誤魔化した」


「な……なんだと!?」


「手抜き工事……いや、悪質な公共事業の偽装工作か!」


 議場が、これまでにないほどの激しい怒りとどよめきに包まれた。

 無理もない。防波堤の補強工事において防錆処理を手抜くということは、単なる予算の横領や詐欺のレベルではない。数年後、塩害によって内部の鉄筋が急速に腐食し、いざ巨大な台風や津波が押し寄せた際に、防波堤そのものが想定された強度を発揮できずに脆くも崩壊することを意味する。それはすなわち、沿岸部に住む何万という市民の命と財産を、直接的な危機に晒すという極めて重篤な犯罪行為なのだ。


「その通りじゃ。彼らは現場に監査が入った際、重防食塗料を正しく撹拌しているフリをするために、中身を別の安い塗料にすり替えたダミータンクを使用し、そのずさんな偽装作業の過程で、用済みとなったこの撹拌球が現場の土砂の上にこぼれ落ちた。……そして、高価な塗料の発注費と、実際に使用した粗悪なペンキの差額。その浮いた数億円という莫大な『架空の工事費』こそが、資金洗浄を経てお主の政治資金管理団体へと流れ込んだ、不正献金の正体じゃ!」


 如月さんの放った論理の楔が、益田孝市が構築した悪逆非道なスキームの中心を、物理的に完全に貫いた瞬間だった。


「ち、違う……! 私はそんな恐ろしい指示は出していない! 業者が、現場の土建業者が利益を上げるために勝手に手抜き工事をやっただけだ! 私の口座に振り込まれた金が、防波堤工事の手抜きで浮いた金だという証拠がどこにある!」


 益田は、額から滝のような冷や汗を流し、血走った目で周囲をギョロギョロと見回しながら、最後の悪あがきとばかりに絶叫した。

 確かに、彼が直接手抜き工事を指示したという録音データや、キックバックの割合を記した契約書がここにあるわけではない。業者の独断による手抜き工事であり、自分はその業者から偶然献金を受けていただけだと言い張れば、政治家本人の立件は極めて困難になる。それが、長年彼を生き永らえさせてきた『長多町の悪知恵』の真骨頂だった。


「業者が勝手にやった……? 自分は何も知らない……? 本当に、どこまでも救いようのない愚鈍じゃな」


 如月さんは、これ以上ないほどの深い軽蔑を込めて、アメジストの瞳を細めた。

 彼女のその冷酷な視線は、益田孝市という存在そのものを『知性の欠片もない不要なノイズ』として、完全に切り捨てようとしていた。


「お主はまだ、自分が立っている盤面の状況を理解しておらんのか。わしが、そのような不完全な状況証拠の羅列だけで、対象物のルーツを語り終えるつもりなど毛頭ない」


 如月さんは、演壇からゆっくりと階段を降り、議場の中央、赤絨毯の上を真っ直ぐに、益田と黒田が対峙している入り口の扉の方へと歩みを進めた。


「これが、なぜここにあるのか。その物理的必然性が、お主の薄っぺらい言い逃れを完全に塞ぐことになるのじゃ」


 漆黒のゴシックドレスが波打ち、純白の手袋に包まれた右手には、すべての元凶であり、すべての真実を内包した一個のガラス玉が握られていた。



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